7. 賢い蛙
深き毛皮の友による昔話
魔王の野郎は最近塞ぎがちだ。客という客がいちゃもんつけて、命を狙ってくるってんだから、落ち込みたくなる気持ちも分かる。魔王なら逃げられない運命っていやあ運命だけど、あいつは魔王になりたくてなったわけじゃねえから諦めろとも言いにくい。とんだ貧乏くじだ。
今日は魔王がめそめそしてて話にならねえから、いっちょう俺様が昔話をしてやろう。これは魔王が魔王になる前の話だ。
***
魔物の国の奥のほう。森の奥の更に奥。黒々とした小さな沼がある。面白いところも、おかしいところも何にもねえ、けちな沼だ。沼には魚と鳥と蛙と鼠がいて、それを狙った狐がときどきやってくるくらいだ。それより大きな生き物には、本当に何の面白みもねえ沼だった。
とはいえ魔物の国の沼だ。どっかで魔物の小競り合いでもありゃあ魔物の血が流れ込んでくる。それを飲んで育つんだから、沼の周りの魚と鳥と蛙と鼠と狐はどれも小さな魔物だ。しかもときどき、とびきり強い魔物の血を吸った変わり種が生まれる。そのせいだと思う。あいつは、あいつの兄弟とは違ってた。
先代の魔王、今でいう「追跡の王」が姿をくらまして、新しい魔王を決める大争乱が始まったときも沼は静かなもんだった。狐も鳥も鼠も蛙も魚も、魔王にはなれっこない。強い魔物だって、こんなけちな沼までわざわざ来ない。だから俺達は遠くで煙が上がったり、信じられないくらい地面が揺れたり、朝がなかなか来なかったりすることで、大争乱が続いてるってことを知るくらいで、あとはいつも通りに暮らしてた。
一年経ったか、二年経ったか。ある日、俺が木の枝の上で毛繕いをしてるとき。沼のほとりに見慣れない魔物がやってきた。痩せ細って、ふらつく足取りで現れた人型の魔物は、ずいぶん年を食ってた。白い髪は垢じみてる上に泥や木の葉が絡まってる。体も汚れて、眼は怪しく銀色に光ってる。爺はそのぞっとするギラついた目で沼を覗き込んで、あっという間に魔術で網を作ると一匹の蛙を引き上げた。沼には数えきれないほど真っ黒い蛙がいるけど、俺にはそれがどの蛙かすぐ分かった。あいつだ。馬鹿みたいにあっさりとその魔物に捕まえられたのは、何年も前に俺が昼飯にしてやろうとしたら死にもの狂いで抵抗して、俺の耳を齧って逃げ出した蛙だった。次に会ったら逃げるどころかぺらぺらしゃべるようになってた妙な蛙だ。俺の友達だと言い張ってる変な蛙。
爺はあいつを矯めつ眇めつ眺めてニヤニヤと笑い出し、最後には意味の分からねえ叫び声まで上げた。完全に壊れてる。妙に悪運の強いあいつでも、こればっかりは逃げられねえだろうと思った。あいつは必死に暴れていたが、所詮あいつは小さい蛙で、相手は大きな魔物だ。無駄なあがきだった。
「そう暴れるな、小さき者よ」
その一言であいつはぴたりと凍り付いた。まるで言葉に力が籠ってたみたいだ。
「お前こそ、儂が探し求めてきた者に違いない。何、案ずるな。儂はお前を殺したりはしない。国中くまなく探してやっと見つけたのだ」
あの銀色の網を見ただけでも、その爺がこんな小さな沼ではお目にかかれねえ高位の魔物だってことはすぐわかる。そんな偉い魔物が、あいつをわざわざ捕まえて、一体何の用事だろう。嫌な予感しかしなかった。
「小さき者よ。儂はお前に一つ頼みがある。だが、いきなり現れて一方的に頼みを聞いてくれと言うのは聊か虫のいい話だろう? だから、先にお前の頼みを聞いてやろう。なんでも聞いてやるから、それを儂が叶えたなら、お前も儂の頼みを聞いてくれ」
あいつはぶるぶる震えながら頷いた。
「よし。ではお前の望みを聞こう」
あいつはしばらく考え込んだ。頼むから、俺に会いたいとか言わないでくれと願った。あんな恐ろしい魔物の前に出て行くのは嫌だ。
俺の願いが届いたか知らねえが、あいつは答えた。
「大事な望みを一つに決めるのは難しい。三日ばかり待ってほしい」
爺は眉を跳ね上げて驚いた顔をしてから、次に嬉しそうに大笑いした。
「いいだろう、いいだろう。では三日待とう。だが忘れるな、小さき者よ。お前は逃げることだけはできない。儂に余計な手間をかけさせてくれるなよ?」
そして爺は去った。あいつは沼に戻されたけど脚には魔術で作った銀色の糸がついてて、その糸はどこまでもどこまでも伸びてるみたいだった。きっともう一方の端は、あの爺が持ってるんだろう。
「ああ、一体どうすればいいのだ。あの恐ろしい人型の魔物はなぜ私を選んだのだ」
あいつは沼の周りをピョンピョン飛び回って嘆いた。蛙の兄弟たちが心配そうに見守っている。爺が十分遠くに行ってから俺は木を下りた。
「お前がお前の退屈な兄弟達とは違うって、あの爺さんは見抜いたんだろうよ」
「ああ、深き毛皮の友よ! 私は一体どうしたらよいのだろう!」
あいつは一直線に駆けよってきた。泥まみれの涙まみれで。あいつに飛びかかって爪を立てて地面に押し付けたのは、なんていうかまあ、本能みたいなもんだ。本来、蛙は鼠の食料だから。
「痛い、痛い! やめてくれ! お前の爪は痛いのだ!」
「おお、蛙を見るとついついな」
手を退けてやると、あいつはぱっと起き上がって迫ってきた。
「なあ、お前も見ただろう? あれは恐ろしい魔物だ。逃げられやしない。先に叶えてもらえるという願い事の一つだけで、何とか身を守らねば何をされるか知れたものではない。相談できるのはお前だけなのだ。友よ。知恵を貸してくれ」
蛙の兄弟は喋れない。言葉を覚えたのはこいつ一匹だけだ。それも腹が立つことに、俺の耳を齧ったおかげなんだと! で、言葉をしゃべる他の鼠も狐も、蛙がぼんやり寄ってきたら丸呑みにしちまうから、やっぱり話し相手にはならない。確かに、このへんちくりんな蛙の話し相手は俺だけだ。
「でもよう、そういう小難しい屁理屈を考えるのはお前の方がずっと得意じゃねえか。俺の耳を齧った次の日に、わんわんと屁理屈を捲し立ててお前を食わないって約束させたのはお前であって、俺じゃねえぞ」
俺は難しいことは分からねえ。放っておいたら、あいつは俺のとなりに座ったまま三日三晩うんうん唸って考えてた。
そして三日後、爺は再び現れた。
「願いは決まったか、小さき者よ」
俺はまた木の上からこっそり覗いた。あいつは今度は震えもしないで答えた。
「決まった」
「では、言ってみろ」
蛙は答えた。
「私は知識が欲しい。広い世界のことを学びたい。世界の秘密を隅から隅まで」
世界の秘密を全部なんて、命がいくつあっても終わるわきゃねえ。へえ、考えたもんだ。さすが屁理屈屋の蛙だ。
爺は怒るかと思ったが、目を瞬かたかせただけで偉くあっさり頷いた。
「賢い蛙よ。それは時間がかかるだろうが、約束通りにお前の願いを叶えよう。儂の知り得ることを全てお前に教えよう」
信じらんねえことに、それから爺は毎日のように沼に通ってちっぽけなみすぼらしい蛙にあらゆることを教え出した。難しい魔術、秘密の呪法、世の理。俺は木の上からずっと聞いてた。俺にはよく分からないこともたくさんあったが、あいつには分かるらしかった。
「どうしたら逃げられるか。方法だけなら十も二十も考えられるようになった。でも、それを実行するには、この身はあまりにも小さく、我が魔力はあまりに少ない」
爺が帰った後、あいつはそう嘆いて俺が集めてやった魚を遠慮なく食い荒らした。
「でもよう、世界の秘密を全部なんて到底終わりっこないんだから、このお勉強ごっこをやってる間に爺か、悪くてもお前の寿命が尽きるんじゃねえか?」
「いいや、だめだ。あの男は自分の知っている限りを教えると言った。たぶんそれでは、あの男が死ぬまでの時間はかからない。きっとそのうち終わってしまう。あの男の願いを聞く番が回ってくる」
あいつはむっつり黙り込んだ。魚はすっかり食べ終わっていた。
「食事の礼くらい、言ったらどうだ」
思いっきり蹴飛ばしてやったら、そのまま沼まで転がってぼちゃんと沈んだ。その日はそれっきり、沼から上がって来なかった。
俺はあいつを悲観的過ぎると思ってたが、やっぱり俺よりあいつの方が賢い。何年も経ったある日、とうとう爺がこう言った。
「儂に教えられることはここまでだ。約束通り今度は儂の頼みを聞いてもらおう」
あいつは震えながら、じっとしていた。
爺は言った。
「小さき者よ、私を食ってくれ」
あいつはその場でぴょんと飛び上がった。
なんてこった! あの爺はあいつの秘密を知ってたんだ。あいつの特技は大喰らい。何でも食べて、しかも食べたものの力を自分のものにできる。俺の耳を齧って喋れるようになったみたいに。魚を食べたおかげで、いつまでも沼に沈んでいられるみたいに。
でも、こんな恐ろしく強そうな魔物が、こんなちっぽけな蛙に食われたいなんて、一体全体どういうことだ。俺にはわけが分からねえ。
あいつは口を開けたまま気絶したようにぴくりとも動かなくなった。その目の前で爺は自分の腕に傷をつけて、ぽたりと黒い血を注いだ。
たった一滴を口にしただけで、あいつは白目を剥いて倒れた。
「おい! おい! しっかりしろ!」
そこに爺がいることも忘れて駆け寄った。踏んでも蹴ってもかぶりついても、蛙は白目を剥いたままだ。
「大丈夫だ、少々刺激が強かったので驚いておるのだろう。死にはせん」
「どういうつもりだよ、この糞爺!」
後から思い出してもぞっとする。まさかその汚い爺が魔王だったなんて俺はちっとも知らなかったんだ。一秒で殺されてても不思議じゃなかった。でも、爺はにやりとしただけで怒りはしなかった。
「儂は少々長く生き過ぎた。命を短くするには誰かに命を削ってもらわねばならん。残念なことに、儂の命を削れるほどの力がある魔物がおらんでの」
そこで爺は手の中に掬い上げた蛙を見た。
「仕方がないから育てることにしたのだ。この蛙なら儂の教えを全て身に着け、儂の力を統べて受け継ぐことができよう。貪欲の神の申し子のような蛙だからの」
爺は俺も拾い上げるとヒッヒッヒと笑った。
「お前の友は、これから魔王になるぞ。お前はどうする? 一緒に来るか?」
爺の口は笑ってたけど、目は全然笑ってなかった。
「一緒に来ると言うなら、この蛙にすべてをくれてやる前にお前にとっておきの術をかけてやるぞ。お前の大事な友が永遠の孤独に倦むことのないようにな」
結局、爺は俺の返事を聞く前にとっておきとやらをやりやがった。
おかげで俺はあいつが死ぬまで死ねない体になった。俺は今でも世界で一番長生きな鼠だろう。
あいつが爺のお願いを全部叶えてやって、魔王争いの大争乱が終わったのは俺達が沼を離れてから一年足らずのことだった。以来、俺のへんちくりんな蛙の友達は魔王になって、俺の住処は魔王の城になったってわけだ。




