6. 魔王の弟子
白き湖の国の勇者アビゲイルは不可思議な勇者であった。何かを成すことを目指すのではなく、ただ勇者であることに固執していた。その有り様はある男のことを思い起こさせた。彼は一度は私の前を去り、そして大変意外なことに、もう一度私を訪れた。あれには全く驚かされた。
あれは千年王国の勇者カーランデルがやってくるよりも前。まだ大陸は平和で、私は午睡を終えた友と、昔話などに興じていたときだった。死霊の戦士が壁を突き抜けて来客の報せにきたのだった。
それからのことを、私は今でも昨日のことのように思い出すことができる。
***
玉座の間に入ってきた男は長い絨毯の途中で膝をついて頭を垂れた。剣は下ろして床に置いた。人の子が身分の高い者の前に参るときの正式の作法だった。私に対してそのような態度をとった者はそれまで一人としていなかったので、とても驚いた。
「魔王よ、我が名はヴァルキリウス。神聖王国の勇者として一度ここへ参った者だ」
「ああ、覚えている。二度も訪ねてくる勇者は珍しい」
「いや、私はもう勇者ではない。その任を離れ、また神聖王国を離れたのだ。今の私はただのヴァルキリウスだ」
なるほど。言われてみれば彼の下ろした剣には神聖王国の紋章は無かった。
「ではヴァルキリウスよ、今回の訪問の目的は何だ。忘れものか?」
ヴァルキリウスは真剣な面持ちで私を見上げた。
「魔王に問われて以来、私は勇者とは何かと考え続けた。しかし、答えが分からなかった」
それはとても残念なことだ。
「よもや私に答えを聞きに来たのではあるまいな。先に言っておくが私はその答えを知らないぞ」
私の知る勇者は、非常に無礼で高慢な態度をとる人の子で、確たる理由もなく私の命を狙い、剣に見える飛び道具を用いて突然に襲ってくる卑怯な輩だ。だがそれは観察の結果に過ぎない。本来の勇者の役割については何も知らない。私に理解できるように説明できた勇者がいないのだから仕方がない。
「そうではない、魔王よ。私は反省したのだ。深く考えもせずに人々の寄せる期待に憧れて勇者を名乗った私の浅薄さを。今の私は勇者には相応しくない。だが、勇者とは一体何なのか、私は勇者になれるのか、あるいは目指すべきではないのか、勇者ではない私は一体何者なのか。そうしたことをきちんと考えたい」
「賢明な判断だな。存分に考えれば良い。しかし、それを私に報告する必要はないだろう」
「勝手にやってくれよ、そんなこと」
私の最後の言葉を、我が友が引き取って発した。囁くような声だったのでヴァルキリウスの耳には届かなかっただろう。彼は動じた様子なく続けた。
「私は物事を深く考えてこなかった。ものを考えるのが苦手なのだ。だから私はあなたに教えを乞いたい」
「私に?」
「ああ、そうだ。訪れる人の言葉を吟味し、理解し、その矛盾を指摘する。あなたとの問答は私の蒙を啓いた。願わくは、私にものの考え方を教えてもらいたい」
この日、三度目に驚いた。人の子が魔王の弟子になろうとは。
「ヴァルキリウスよ。自分を見つめなおし理解しようという志は良いものだ。しかし、私はお前の師としてお前が迷いを払うのを導くことはできない。そういう仕事は人の子の間では教師や聖職者が担っているのではないのか?」
ヴァルキリウスは頑なだった。
「私もそうだと思っていた。神官殿の言うことは正しく私を導いて下さると信じていた。確かに彼らは導きの言葉を下さるが、それはものを考えさせるためではない。むしろ逆だ。神を信じよ、疑うことなかれ。そのように導かれるのだ。それでは私の目的は達せられない。私は疑いたいのだ。徹底的に疑って、考えて、そして自分の手で真実に辿り着きたいのだ」
「人の子、ヴァルキリウスよ」
次の言葉を選ぶ前に盛大なため息が漏れた。おかげで玉座の間いっぱいに有象無象の魔物が広がっていく。それらの者に囲まれて、なおヴァルキリウスは揺らがなかった。
「考え抜くということは良いことだ。そのようにすると良い。しかし、やはり私はお前の師となることはできない。私はそのように優れたものではない」
ヴァルキリウスは絶望の表情を浮かべた。
「お前は知っているか? 魔王はどのように選ばれるのかを」
「いや、考えたこともなかった」
「ははは、相変わらず正直なことだ。神聖王国の王はどのように選ばれるのだ?」
「大神官が神の託宣を持って指名する」
「では神がどのように次の王を選んでいるかは知っているか?」
ヴァルキリウスは呻いた。
「知らない。神は、ただ正しいことをご存じなのだと思っていた」
「まあ、それはもしかしたら事実なのかもしれないな。お前達の神を知らないのだから嘘か真かは確かめようのないことだ」
ヴァルキリウスは今や縋るような瞳で私を見つめている。
何かがこぽりと腹の奥で湧いた。懐かしい黒い小さな沼から湧き出るあぶくのように、ひっそりと。
「魔物の国の王は、神によって選ばれるのではない。魔王は魔物達が競い合って決めるのだ。とても単純だ。もっとも強き者が王となる。何者かが王に挑み、そして勝てば、その瞬間から魔王は交代だ」
「では魔王よ、あなたは魔物のうちで最強の者なのだな」
「今のところ、そういうことになるな」
目の前の青年は目を輝かせた。本人の言う通り、ものを考えるのが苦手なのだろう。ここは目を輝かせる場面ではない。
「考えよ、ヴァルキリウス。今の話の意味を。私は強さによって魔王となった。証明されているのは私が強いということだけだ。お前の求めるものは強さではないだろう? 私に教えを乞うたとて、お前の求めるものが与えられるわけではないのだ」
確かに来客のない限り、日がな一日することもない。だからあれこれと考えを巡らせてばかりいる。幸いなことに私には多くの知識があり、他の魔物の目や耳を借りて大陸で起きる物事を居ながらにして知ることもできる。考える内容には事欠かない。だが、そのことと、私が人を導けるほどに優れているということは別の問題だ。
「魔王よ、それでも私にはあなた以上の存在は考えられない」
ヴァルキリウスは床に伏した。
「伏してお願いいたします。魔王よ、どうか私を弟子に迎えて下さい」
さて困った。このようなことが起きるとは考えてもみなかった。
「深き毛皮の友よ、この事態をどう収拾すれば良いだろうか」
肘掛けの先で丸まったまま、興味深そうにヴァルキリウスを眺めていた友は丸い尻を振って振り返り、私を見上げた。
「追い出すか、城においてやるか。二つに一つだろうな」
「それは私も分かっている」
「そっから先はお前の裁量だろ」
我が友よ、それに迷っているから相談していると言うのにあまりに連れない返事ではないか。
「そんな顔すんなよ。俺の意見をああだこうだ言ったって決めんのは結局のところお前なんだよ。俺が理屈屋のお前より賢いとでも思うのかよ。その上、俺はお前みたいに魔王様教育なんか受けてないんだぞ」
「それでも、友と語り合うことが私の力になるのだ」
小さな友を私の顔の前まで持ち上げると、つぶらな瞳を僅かに細めるようにして友はにやりと笑って見せた。
「あいつもそっくり同じことを言いたんじゃねえの?」
「人の子、ヴァルキリウスよ。やはり私はお前の師となることはできない。お前にお前の求める正しい答えを出してやることはできないだろう」
「どうかお願いです、魔王!」
両の手を床につけて伏せる。人の子の間では最敬礼にあたる仕草でヴァルキリウスは叫ぶ。
「だが、もしもそれが助けになるというのならば、語り合う仲間となることはできるだろう。道はお前が自ら切り拓き、答えはお前が自ら見出すのだ」
ものを考えるのが苦手な人の子は、伏せたままじっとしていた。言葉の意味を考え込んでいるのだろう。
良い。待つことには慣れている。それに、この程度の問答で躓くようでは話し相手としても不足だ。
やがてヴァルキリウスは顔を上げた。目が驚きに見開かれ、唇が戦慄いている。
「では、仲間としてくれるというのですね。ありがとう、ありがとうございます。魔王よ! あなたとの会話は必ず私の助けとなるでしょう」
***
その後、真の勇者を目指して旅立っていくまでの三年ほどヴァルキリウスは私の良い話し相手であった。彼の素朴な疑問は貴重なもので、ついつい興が乗って話し込み、夜明けを迎えたこともあった。
ヴァルキリウスの例があるから、私はいつまでも勇者に期待してしまう。人の子の中にも話を理解し、真実を見極めようとする者がいると知ってしまったから、あのような礼儀知らずで危険な者達を迎え入れてしまうのだ。
私は甘い夢を見ているのだろうか。




