1. 盲信の勇者
私は魔王だ。これより他に呼び名はない。
この世に数多いる魔物の一匹であった頃には他の魔物と区別するための呼び名があったが、魔王はこの世界に唯一の存在であるから他と区別する必要がない。よって他の呼び名は必要ない。
魔王は魔物を統べる王である。私は全ての魔物の頂点に立つ存在であり、魔物同士の秩序を守る役割を持つ。それについては特に問題ないのだが、魔王の役割には他に厄介なものがある。それは魔物以外の知的な生き物――この大陸では人の子しか確認されていない――との関係の維持。過去には断絶という関係を選んだ王もいたし、もっと積極的に根絶やしにするかのごとく追い詰めた者もいた。だが私は無駄に命を犠牲にすることを好まない。ゆえに共存の道を探している。非常に難しい道ではあるが、必ず開けるはずだ。敵同士に見える者でも、言葉を尽くせば分かり合える。天敵とだって会話によって分かり合えたのだから。
かつてこんなことがあった。
あれは私がまだ小さく弱く、黒々した沼の中で兄弟と共に僅かな食糧を待っていた頃……。
おや、来客があるようだ。
***
「我は神聖王国より遣わされた勇者ヴァルキリウス。魔王よ、観念するがいい!」
玉座の間に現れたのは、筋骨隆々たる戦士だった。魔王になって以来やってくる客は勇者を名乗る人の子ばかりだ。勇者は既に珍しくもないが、仲間を伴っていないのは珍しい。この男、少なくとも勇気はあるようだ。
しかし、勇気があるというだけで何でもできるとは限らない。
「勇者ヴァルキリウス。私に何を諦めろと言うのか、分かるように説明してくれ」
「説明?」
勇者ヴァルキリウスの青い瞳が動揺した。
「観念せよとは、諦めろという意味だろう? この場合は生存を諦めろという意味だろうか。お前が私に死ねという理由は何なのだ? よもや私が出会い頭に『観念しろ』と叫ばれて『観念しました』と答えるようなお人よしだと思っていたわけでもあるまい?」
勇者ヴァルキリウスは驚いているようだった。魔王には言葉が通じないと思っていたのだろうか。だとしたら最初の口上を行った意味はどこにあるのか。
「勇者よ、黙っていては分からん。私は理由もなく自分の生存を諦めるつもりはないぞ」
促せば、勇者は唾を飲んでからまっすぐに私を見返した。
「この世に魔王はあってはならない存在なのだ」
「ふむ。つまり、私が魔王であるから殺すというわけだな?」
ヴァルキリウスは大きく頷いた。
「しかし勇者よ。その理屈が通るのならば、青毛の馬はあってはならないと誰かが言えば、大陸中の青毛の馬が殺されることになる。金髪の男があってはならないと誰かが言えば、お前も殺されることになるぞ。そうなったら、お前は素直に命を差し出すのか?」
「そんな馬鹿げた話はない。金髪の男など五万といよう。あってはならないはずがない」
ヴァルキリウスは憤然と言い返してきた。
「魔王がこの世にただ一人の存在だからいけないというのか? それならばお前の国の王だって世界にただ一人だろう。世界にただ一人という存在を認めないのなら神聖王国の王もまたあってはならない存在だ」
「そうではない! 数の問題ではない」
「では先ほどの金髪の男が存在しても良い理由は何だと言うのだ」
翻って言えば、魔王が存在してはいけない理由は何なのか。人の子はすぐに魔物を悪だと言い、魔王は巨悪だと言う。歴史を言われれば、たしかに褒められた行いをしていない時代もあるが、それを克服して今の魔物の世界があり、私があるということをどうして理解してくれないのだろうか。私が魔王になって以来、この世界は平和であったではないか。
その事実を無かったもののように扱われる度に、私は徒労感に打ちのめされる。
私は心の癒しを求めて深き毛皮の友に目を向けた。
彼は玉座の肘掛けの上のお気に入りの場所でうつらうつらしている。手のひらに収まるほど小さいながらも茶色の毛皮は艶やかで、長いしっぽは優美な曲線を描いている。私はその柔らかい背中を撫でて自ら心を鎮めた。ぴくりとゆれた髭がゆっくりと垂れていく様もまた愛おしい。我が友は私に心を許しているのだ。
我が友の寝姿を堪能したあとで視線を戻せば、勇者はやはり迷いなく私を見上げていた。認めよう、全く勇気だけはある男だ。
「私とお前とでは全く違うのだ。私は勇者でお前は魔王だ。同じように比べられるものではない!」
うむ、それは道理だ。
「いかにも。私は魔王だ。お前と私はまったく違う」
私の同意を得て勇者ヴァルキリウスの顔に少しだけ安堵の気配があった。魔王に認められて安心する勇者というのはどうなのだろうな、ヴァルキリウスよ。
「しかし、それでは説明にならない。そもそも、勇者だから魔王を討って良いなどという道理があるか?」
ヴァルキリウスは目を剥いて答えた。
「私は勇者として魔王を討てと命じられたのだ。それが国の、ひいては大陸のためであると。魔王を討ってはならないのなら、勇者とは一体なんなのだ!」
「知るか、そんなこと」
勇者を名乗ったのは自分なのだから、自分で解決してもらわなければ困る。
黙って見ていれば勇者はこの世の終わりのような顔をして膝を震わせ始めた。何かが壊れてしまったようだ。腕っぷしには自信があるが、おつむの中身はそうでもない男なのだろう。それ自体は驚くべきことでもない。勇者と言えば聞こえは良いが能動的な生贄のようなものだ。選定する側にしてみれば腕が良くて賢いものよりも、腕が良くて愚かなものの方が扱いやすいのであろう。何も疑わず、危険を顧みず、魔王に突撃してくれるような男が相応しい。その理屈は分からないではないが、賛成はできない。そんな者ばかり送りつけられる私の身にもなって欲しいものだ。
私が過去に迎えた愚かな人の子の数を数えている間、自称勇者ヴァルキリウスは青い顔をして立ち尽くしていた。もうこれ以上の問答は無意味だろう。
「私はお前に討たれる理由はないと判断した。勇者ヴァルキリウス、今すぐにこの国を出て行かないのならば、私はお前を力づくで追い返さねばならない」
私は吐息から骸骨の戦士を作りだした。
「平穏に暮らす他国の王宮に攻め入り、大義なく王の命を脅かす行為が勇者の成すべきことか。これが最後の質問だ。答えよ、勇者」
勇者は沈黙し、やがて頭を垂れて帰って行った。
問答に負けても逆上して剣を抜かなかったのは嬉しい誤算であった。賢くはないが真面目で誠実な男であったようだ。自らに大義がないと分かれば剣を収める分別がある勇者など初めて見た。祝いの宴を開いても良いくらいだ。私がこの城で宴を開いたのは魔王になったときの一度きり。手順もすっかり忘れてしまった。
まあ、十大魔将を全て呼び出せば、誰かしら覚えているだろう。いやいや、全員は多すぎる。とくにティフォンは不味い。城が壊れる。常識がある奴を呼ぼう。
「いでよ、サイクロプス。宴の支度だ」
現れた一つ目の巨人は飛び上がって喜んだ。こいつは食べ物に目がない。
「おお、なんだ? なんだ? また勇者の野郎か?」
おお、なんたること。せっかく静かに勇者を追い返したというのに我が深き毛皮の友が目を覚ましてしまったではないか。
「いいや、大丈夫だ。友よ。不作法な巨人が飛び跳ねただけだ。安心してくれ」
すると友はまた瞼を下ろして丸くなった。
不注意な魔物を睨んでやれば、サイクロプスは巨大な体をなるべく小さくするように蹲った。これは本来は真面目で従順な生き物だ。
「適当に仲間を呼んで宴の支度をせよ。静かにだぞ。深き毛皮の友の午睡を妨げずに支度ができたらお前達も宴の席に加えてやろう」
サイクロプスは何度も頷くと、今度はそっと足を忍ばせて玉座の間を出て行った。
***
神聖王国の王は送り出した勇者が無事に帰還したことを非常に喜んだが、落ち込んだ様子の勇者から事情を聞くうちに事態は全く喜べたものではないと悟った。ヴァルキリウスは無傷に見えたが、その心が傷ついていた。自分が何者であるかに悩み、苦しんだ勇者は、とうとう出奔してしまった。自分探しの旅へ出たのである。
この一件により、大陸国家の良心として一目を置かれてきた神聖王国の権威は一気に崩れていくこととなった。




