浅葱、搭乗ロビーにて
「大丈夫ですか? マコト。無理して読んでくださることはないのに」
「あぁ……大丈夫だ。少し知恵熱を起こしてしまっただけにすぎないからな」
著者ガンダレッドの小説の表紙はドイツ語で彩られているが、中身はどうやら日本語訳がなされているようで日本人に優しい作りとなっていた。そのため、いつでもどこでも気軽に俺は小説が読める。
そのおかげで俺は熱中しすっかり乗り物酔いを起こしてしまった。長らく乗り物の類には乗っていなかったため、乗り物酔いすることを忘れてしまっていたせいだ。
搭乗受付をローランスに任し、ロビーで椅子に座りながら、飛行機が来る前に酔が覚めることを祈っていた。
「マコト、飛行機が来るまでお話してましょう。どこまで小説をお読みになりましたか?」
ローランスが興味旺盛な目でこちらを見てくるもので、酔を我慢して頭を動かさなければならなくなった。
「えっ……とだな、あぁ、そうだ。多分、プロローグなんじゃないかな。一日目で書き手、ガンダレッドがこれからの一週間に嘆いたりしたところ、だったっけか」
一応酔うまではきちんと読めていて、それなりに物語は頭に入っている。それでいて、質問点が両手では数え切れないほどに膨らんでいる。というよりも、読みにくいと表現したほうが妥当だろうか。ローランスに向けて書かれた文章ということでローランスが知っている知識を読者の俺にも求めてくる。情景などの想像が難しく、人物像も全然定まらない。
ローランスは「ああ、あの部分までですか」と納得した顔になると、空いた席の隣に腰を下ろし、酔に苦しんでいる俺の背中をさすってくれた。
「それで、少し質問があるんだ。お前ならきっと分かることなんだろうけど、この、モーニンガードについてだ。どう質問すればいいかも今は思いつかないから、モーニンガードについて教えてくれ」
そう、この物語の始まりはモーニンガードという人物の登場により装飾されている。まるで全員が久しぶりの再会といったそんな雰囲気が描かれている。このモーニンガードについては、推理する上で必要な人物となってくるはずだ。
「モーニンガード君は、ダン・スカイと双子です。小さい背で、それでいて子供っぽくて。あぁそうそう、写真がありますからそれをお見せしましょう」
別に容姿に興味があって聞いた訳じゃないのだが、念のため目を通しておくことにする。本題はその後から入ればいい。
雨に濡れたバッグの中からローランスは一枚の写真を取り出す。写真立てに入れるにはもってこいの大きさだ。
すぐにローランスが写真をこちらに寄越さないのは人気が多いためだろう。警察に相談できないほどの事情ということで、あまり人に見られたくないという意識が強いのか。
やっと落ち着いてきたところで、写真をこちらに手渡した。
十人が並んでいる背後に、大きな屋敷がある。多分ここが作中に描かれているステージだろう。人が飛び越えられないほどの高さがある門を後ろに、それぞれ個性的なメンバーがいる。何も知らされずにこれを見ると、きっと大家族の集合写真と言うに違いない。
「じゃ、ガンダレッド氏の代わりにローランスが人物紹介をしてくれ。そうだな、一番左の……この紳士に見える方から頼む」
紳士のように見える、と表現したその人物は、高身長でシルクハットを被り白髭を伸ばした、さながら映画で出てきそうな本物の紳士をした風貌だ。杖をつきながらカメラ目線で微笑んでいる。
「この方はジャック・ミドルラードさんです。そのお隣にいる、ノーラさんの夫です。ミドルラード夫妻はとても愛し合っておられます。この愛は物語を見ればすぐお分かりになるでしょうね」
彼女がいう、その隣にいるノーラという人物を見てみる。夫が紳士なため、どんなプリマドンナが登場するのかと思えばそれは的を外した考えであった。頭に可愛らしい水色のヘアバンドをつけており、黄金色のネックレスを身につけている。
庶民的ではなく、かといって高貴な風貌をしている訳ではない。
ローランスに言われないと見えなかったのだが、高価そうな指輪と、ブランド物の化粧品を使って、難しい技術を要する化粧を施しているらしい。Dr.ハウシュカと言われたところで、どうして俺がその名前を知っていようか。
とりあえずの印象としては、二人ともお金持ちに見えた。生活に苦になる部分は一見見当たらないのに、なぜこの催しに参加するのだろう。これは俺の主観的な考えに過ぎないが、貧乏人が自分の知恵を振り絞って正解に辿り付き大金を得る、そんなイメージをこの大会に寄せていた。
このミドルラード夫妻も、退屈な日常の暇つぶしということなのだろうか。
もしくは……。
「じゃあ次だ。この、ノーラ婦人の隣にいる男の子……いや、もう男性か。こいつは?」
次に、ノーラの隣でこちらに向かって右手をあげている人物を指した。隣にいるノーラやジャックのせいで小さく見えるが、その男の隣にいる女の子と比べると、男の子から男性に格上げしたほうがいいだろう。
「あ、彼はドルフです。……少しやんちゃでわたくしは苦手でした。そして、礼儀に欠けている所があるのです。というのも、彼とその隣にいる、あ、アンちゃんって言うのですが、このお二人は孤児で、孤児院で生活しているのです」
「親がいないのか。その理由についてローランスは知ってるか?」
「いえ、わたくしは何も……ただ、彼らの住んでいた孤児院にいけば多少は分かるかもしれません。今もきっと残っているでしょうから」
「で、このアンっていう子は?」
「ドルフの妹です。お二人は兄妹、なのです」
作中に描かれていたが、なるほどドルフがやんちゃなのは理解できる。そして妹のアンがそんな兄を叱責していたのか。
アンは、しっかりものでそれ相応の礼儀は備わっているだろうと一目で分かる。元気そうな兄の横で、律儀に前に手を組んでこちらを向いて微笑んでいるその姿から、兄のように血の気の多い若者を想像することは難しい。
この二人のイメージは、孤児という部分を抜けばどこにでもいる普通の兄妹だろう。
「じゃ、次。あぁ……こいつはガンダレッドか」
アンから視線を隣に移すと、メガネをかけて長い髪を後ろに束ねた物語の主人公の姿が写っていた。
「マコト、ご存知で?」
「あぁ。実は、今日は偶然ガンダレッドの小説を見させてもらっていたんだ。八条さんに勧められてな。それで、その本の背表紙にガンダレッドの顔が映ってたから覚えてる訳だ」
「……そうでしたか。なんというタイトルでしょう?」
「ええっと確か……。"輪廻に仕舞われた少女"だったかな。まだ半分くらいまでしか読めてないが、ガンダレッド氏が書きそうな重い話だったよ」
その時、搭乗ロビーにアナウンスが鳴り響いた。どうやら、ドイツ便の飛行機がここに到着してしまったようだ。まだ人物紹介が終わっていないというのに。
それよりも今一番大きな問題がある。
「マコト、飛行機がきました。もうお体は大丈夫ですか? これから十二時間、乗り物の中です」
酔の他に、目眩がする。
「上等だ、何時間でも乗ってやるよ」
キャリーバッグの取っ手を手に持ち、勇敢に立ち上がる。
「まるで、マコトは勇者です。世界を支配しようと企む魔王に真正面から挑むみたいで面白いです」
どちらかというと、そういう奇妙な例えをするローランスのほうが面白いんじゃないかと思う。
そんなやり取りをしたまま酔の覚めない足取りで門をくぐり、魔王城に入っていった。