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アサガオの咲いた日  作者: 玲瓏
四輪目
55/73

水染の死

 水染君は死を選んだ。事実は私にそう告げた。

 朝起きた私は、何もない一日だと思っていた。相変わらずの人通りの少ない住宅街の景色を眺めながらスズメを鑑賞し、昼になると亜紀ちゃんを迎え、数少ないお客人の相手をして終わるのだと思っていた。悪い予感など無かったし、虫の知らせさえ私には訪れなかった。

 私が気付かなかっただけなのかもしれない。運命づけられた今日という日に。

 電話が掛かってきたのは朝だ。亜紀ちゃんからの電話だった。この時もまだ、平穏な一日を思い描いていた。

「モーニングコールなら必要はないよ。心配になってくれるのは嬉しいんだけどね」

「違う、違うんです八条さん」

 この時、既に亜紀ちゃんは涙声になっていた。常にヘラヘラと――明るい笑顔しか現さない彼女が悲しむということは、更に、取り乱しているということは、それだけで尋常でないことを物語っていた。

「どうしたの?」

 私は口調を強めた。

「大変です。あの、あの……。俊ちゃんが、学校の窓から飛び、飛び降りたみたいで、死んじゃったみたいで……」

 亜紀ちゃんは支離滅裂なことを言っていて、日本語としてはその力が不足しているが、俊、飛び降り、死という言葉から後に続く言葉が連想できた。

 後に続く言葉は、私の頭の中に入っていなかった。

「学校に、私今朝来たら、なんかすごい、たくさん人がいて、警察もいて、ちょうど私俊ちゃんの足が見えて、血だらけで、面白くなかったんですけど、あの、俊ちゃんってすぐわかって、周りの友達も俊ちゃんって言ってて。今、近くのコンビニにいるんですけど、私どうすればいいのかわからなくて」

「わかった。亜紀ちゃん、今日は学校を休んで家に帰りなさい。バイト先の私が言うことでもないんだろうけど、講義なんて受けられないでしょ?」

「教授にもおなじこと言われました」

「そう。なら尚更よ。早く帰って落ち着きなさい。今の亜紀ちゃんに必要なことは何かすることじゃなくて、何もしないことよ」

 彼女は静かに「はい」とだけ返事をした。そして別れの挨拶をすると、携帯の電源を切った。初めて気づいたのだが、私の手は少しだけ震えていた。

 人の死はこれまで何度も経験しているが、身内の人物が死ぬと決まって私は恐れる。トラウマになっているのだ。身内の死が。

 電話を切った私は、急いでテレビをつけた。けたたましい笑い声が聞こえる。バラエティ番組は、今は不愉快そのものであった。

 ニュース番組に変えてみるが、どこもまだ報道をしていない。

 それを確認すると私は水染君の家に電話をした。親はもうこの事について知っているのだろうか。気がかりなのは、昨夜私の事務所に来るという嘘をついたことだ。普通の親なら原因がこの事務所であると考え、糾弾も覚悟しなければならない。

電話は繋がった。

「もしもし?」

 聴こえてきたのは若い男の声だ。水染君の弟だろうか? 兄弟がいることは聞いたことがある。

「八条探偵事務所オーナー、八条です。水染君の家で間違いないでしょうか」

「ええ、そうですけど」

 平凡な声だ。まだ何も知らないのだろう。

「水染俊君のことなんですが、少しお伺いしたいことが――」

 彼は割って入った。

「すみません、親に変わるので、待っていてもらってもいいですか」

「お願いします」

 好都合だ。私は以前水染君の母親と電話で話したことがあるのだが、常識人であり、感情だけで自論を展開する人物ではない。そして透き通った声は私とおなじ四十代とは言えないような膨らみを持ち、特徴的で、緊張が解ける効果があるのだ。

 この弟君もそれに近い声をしているが、まだ常識人ではない。論理的に話し合える人物を求めている。

「もしもし、水染の母ですが」

 取り乱した様子はない。亜紀ちゃんとは違って声が裏返ることがなく、丁寧に応答した。

「水染俊君について、数点お聞きしたいことがあるのですが、お時間を頂けますか」

「少々お待ちを」

 数分の時間を待ち、すぐに彼女の声が戻ってきた。

「はい。大丈夫です。昨夜は夜遅くに訪ねさせて、迷惑をおかけしました。そちらに俊はいますか?」

 母親のその言葉に胸が締め付けられる。彼女の中でまだ息子は生きているのだ。まだ生きて、私のところにいると思っているのだ。いなければならないのだ。

「いえ、いません」

 私は努力して声の調子を保った。

「それなら、大学でしょうか」

「ええ、多分……」

 それ以上言葉を続けることができない。

「これからそちらに向かいます。電話で話すよりも、直接会った方がいいと思うので」

「分かりました。御足労をすみません。では、お待ちしています」

 母親の、その後に続く言葉を聞かず私はすぐに受話器を下ろした。一刻も早く受話器を置いてしまいたかった。

 今のところ、まだお客人は誰もいない。もし来てしまったなら、別のバイトの子に頼もう。こういう時に浅葱君がいると便利な物なのであるが。

 浅葱君に電話をしようか迷った。多分、今浅葱君はまだ起きているはずだ。まだ日本は朝の九時なのだから。

 私の手は受話器を掴むことすらなかった。今浅葱君に知らせて、彼になんの得があろうか。事件で忙しいところに水を差すことになるかもしれないのだ。彼は彼で集中するべきだろう。それは浅葱君に限ったことではない。

 私が私室で準備をしていると、事務所のチャイムが鳴った。

 まずい。まだお茶を用意するどころか、たった今歯を磨き終えたところで、朝食がまだだ。パンを食べながら水染君の話が私にできるだろうか。

 仕方なしに私は普段着のまま玄関まで走り、扉を開けた。

 普段着のセンスに自信がないので、恥ずかしそうな顔を表面に出しながら扉を奥にゆっくり押し、顔だけ外に覗かせた。

 私の予想は驚くほど外れていた。てっきり水染君の母親が訪ねにきたのかと思えば、全く違ったのだ。というより、あの電話が終わって少ししか経ってない。確かにこの短時間で来るのは難しい話であろう。私はそれができないほどに、予想を越して心が乱れているのか。

 姿を見せたのは亜紀ちゃんだった。

「亜紀ちゃんじゃない。家に帰るんじゃなかったの?」

「そのつもりだったんですけど、多分家にいても落ち着かないと思うのできちゃいました」

 亜紀ちゃんらしいくだけた言葉だが、覇気に欠けている。心なしか下を向いているようにさえ思える。

「でも、お客人がきても相手はさせられないよ? 給料もでないし、家じゃないから気分的にも落ち着かないんじゃないかな」

「仕事できないのは分かってますよ。なんか言葉出てこないです。ですけど、ここはいつもより落ち着けるんです。第二の家って思っちゃってます」

 私は少し微笑んだ。第二の家と言われるのは嬉しい。言葉には出してやらないが。亜紀ちゃんは私が喜ぶ言葉を選ぶセンスに長けている。気落ちしていても、そのセンスは削がれていないようだ。

 自分が喜ぶ言葉を選べばいいのに、彼女にはそれが見つからないのだろう。

「迷惑ですか?」

 私は大きく扉を開いた。屋敷内へ流れこむひんやりとした風は心地良い。

「そこまで言われたなら追い返せないよ。おいで」

 これからどう可愛がってやろうか。

 亜紀ちゃんを事務所に入れると、私は彼女の部屋まで付き添うことにした。他のバイトの子は今日は休んでいる。後二人いるのだが、二人とも就職活動が終わらず焦っているそうだ。私に相談してくれないのは癪だ。

「そうそう、これから水染君のお母さんがいらっしゃるよ」

 私は階段を上りながら言葉を切り出した。亜紀ちゃんはすぐに反応し、私へ顔を向ける。

「な、なんでです? もしかして、俊ちゃんが死んじゃって、それをオーナーのせいにしてるんじゃ」

「考えすぎだよ。そもそも、母親はまだ亡くなったことを知らない。呼んだのは私」

「それもまたびっくりです。俊ちゃんの自殺についての調査ですか? 事件じゃないですから、あの、暴言になっちゃいますけど、わざわざオーナーが関わることのない事件だと思います」

「確かに、余計なことに首突っ込んでるのかもしれないけど、このまま自殺でしたで終わりにするのも納得行かないでしょ?」

 亜紀ちゃんは黙ってしまった。私は彼女の部屋の扉を開けて、仲へ催促する。うーん、と唸ったまま彼女は中に入り、すぐに椅子へ座った。

 良い匂いのする部屋だ。香りというのは、それが良いものであるならば人間の心を落ち着かせる効果を持つ。確かに、この部屋ならば落ち着くことができるだろう。

 ただぬいぐるみが複数個机の横に置いてあったり、カーテンの模様が兎が描いてあったり、なかなか幼い乙女の部屋なのが厳しい点といったところだろうか。硬派な事務所を気取る私にとってみれば、難点しかない。

 今はその話は避けておくことにした。

「そんな悩んだ顔しちゃってどうしたのよ」

「だって、なんだかその、今回は探偵の出番だとは思えないです。だって、俊ちゃんの内面的な問題ですよ? トリックとか、犯人とかなしで」

「探偵はね、事件を解決することだけが仕事じゃないんだよ。どんなトリックを使って、どうやって人を殺したのかだけを暴くのが仕事じゃない。犯人はお前だって言うのだけが仕事じゃない。その犯人の心を理解してあげることも、立派な仕事なんだよ」

 亜紀ちゃんは、ほとんどきょとんとした顔になった。彼女の唸りに拍車をかけてしまったようだ。

「殺人事件の話をしてないです、オーナー。俊ちゃんは殺されたんじゃないんですもん。犯人の心なんてないです」

「水染君は自分自身を殺した。犯人であり、被害者でもあるんだよ」

「でも、私は反対です。オーナー。だってなんか、違います。オーナーが出ちゃいけないと思うんです」

 亜紀ちゃんは私の目を見ずに、机に額をくっつけながらそう言った。

「どうして?」

「俊ちゃんはきっと、打ち明けられないことがあったに違いないんです。それを隠すために、こうなっちゃったのかもしれません。死んでまで守った秘密を探るのは、私は反対です」

 彼女は顔を上げた。私を睨んではいない。失望している訳でもなさそうだ。

「言いたかったのに言う勇気がなくてこうなったなら、私がしようとしてることは悪い事って言えるのかな」

 彼女は黙って私の言葉に耳を傾ける。彼女を一人にしてあげたくて、私は早めに話を終わらせようと努めた。

「水染君が守っていたのは秘密じゃないと思うよ。秘密を守る自分を守っていたんじゃないかな。それが守りきれなくなると分かったから、死を選んだ」

「秘密を明かしそうになったってことですか」

「うん。昨日、ここに来るって母親に言ってたのを亜紀ちゃんは嘘だっていってたけど、半分本当だったのかもね。秘密を明かすために私に会いに来ようとして、途中で気が変わった。結局勇気が出なかった。それに苦しんで、死を選んだ」

 亜紀ちゃんは今度こそ黙してしまった。言い返す言葉がないのか、気力がないのか。まだわからない。ただ、私は一言だけ添えることにした。私には彼女を喜ばす言葉のセンスがないから、励みにすらならないと思うけれど。

「亜紀ちゃんの言うことも最もだよ。今の私は仮説で、そもそも水染君が秘密を持っていることすら分からないんだからね。だからこそ、母親から話しを聞くんだよ。明かしていい謎か、駄目な謎か。その確認のためだけに呼んだの」

 亜紀ちゃんは伏せた顔を上げようとしない。

 私は話を強引に区切り、扉から出ていこうとした。

 つい数分前に鳴ったチャイムが再び響く。今度こそ皆染君の母だろうと確信する。

「じゃあね。具合が悪くなったら私に教えるのよ。亜紀ちゃんの健康管理も私の仕事なんだから」 

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