グーテンタークの国
飛行機は無事空港へ着陸し、コンコースDを通って恒例の儀式を終え、やっと俺はドイツの街に立った。
「それにしても、日本と違って寒いんだな」
フランクフルト空港から外に出てみれば、誰もが深い外套で身を覆っていた。俺は八条さんの助言に習って厚いコートと、まるでシルクハットのような中央に凸のついた帽子を被って表に出た。手袋はないためポケットの中に手を入れて、その中の温もりを素肌に感じる。
ローランスも同じように紺色のコートとブーツを鞄から取り出し、薄いシャツを覆った。黒いタイツは彼女の紺色のコートを色合いにマッチしている。最後に、小さい角のように頭の左右から伸びた、耳までをきちんと包む耳付き帽子を被り、ドイツの冬を凌ぐ格好の準備は完了した。
街に雪が降り積もるのを見るのは関東に住んでいる俺からしてみれば珍しく、太陽が映し出す白く輝く結晶に心を奪われた。たまにはロマンチックになることもある。
「寒いです。とてもとても」
ローランスは手袋で覆った手で自分の体を抱きしめた。
「とりあえず屋敷に行く前に聞き込みだ。兄妹の親、馬車の運転手、ベルネット一家、テューリンゲンの森付近の住民、ガンダレッドの親、オフィーリアの所属している事務所」
後者の二つは、飛行機から降りてローランスが受付を済ませている間に思いついた対象である。ガンダレッドは『輪廻に閉じ込められた少女』の本で冒頭に、「家族へ」と贈っている。家族がいて、それはまだ生きているのだと彷彿させる文章から、親に当たるしかない。俺はそう思ったのだ。
オフィーリアの事務所に関しては、これはもう当てずっぽうな閃きだ。あれば幸運、なければ元よりと、便利な発想だ。
「動機、から当たっていくというのですね」
「聞き込みは基本だ。お前、道案内はできるか」
「ええ、もう何度も往復した道のりですから、覚えていない訳がありません」
俺は面食らった。雪を踏む足が急に重くなる。
「もう何度も聞き込みをしたのか……お前は」
ローランスは誇らしげに息を吐くと同時に胸を叩いた。意地悪そうな顔をしていないということは、彼女の無邪気な微笑みから分かることだ。
「はい。それはもう、何度も」
即答であった。
「そうか、じゃあ俺は土産コーナーを見てくる。きっと八条さんなら饅頭が好きだろうが、ドイツに売ってるのか?」
「ダンプフクネーデルといった美味しいお菓子なら……。えっと、いえ、マコト? お土産コーナーに何を聞き込みにいくのですか?」
「聞き込みはもう終わってるんだろう?」
「で、ですが、お屋敷のみまわりというか、理解についての意味合いもこめた遠征ではないでしょうか」
屋敷に足を踏み入れずとも、碑文もきっとローランスが把握しているだろう。舞台の現場はローランスに聞けば問題なく推理が可能だ。俺は聞き込みのためにここまできたのだ。
それに、別の世界へ降りる俺の不安は高まっていた。知らない言語で回りは満ちていて、一歩でも迷子になってしまったら二度と戻れなくなるような不安だ。全く旅行する気分にもなれない。屋敷探検は二の次だった。
「それに、質問手によっては内容も変わりますし、答えもきっと変わると思うんです。わたくしはそう信じています」
彼女の熱意ある声の力に、俺の怠慢は勝てなかった。安請け合いのつもりはないし、女性を尊重する騎士道精神のつもりでもなく、探偵としてのプライドが刺激された。
「送ってくれ。ローランスの言うことに間違いはない」
「それでは、バスに乗りましょう。電車でも良いのですが、市内を走るバスならドイツの魅力も伝わるでしょうし。兄妹の親がいる、刑務所へ案内します」
そうか、また無言の空間に包まれなくてはならないのか。乗り物酔いというのは一体人生を何年経験して、何回乗り物に乗れば耐性がつくのか疑問に思う。
「どれくらいだ?」
「さあ……私はバスでは行ったことがないので。でも、限界が近づくまでひどく乗る訳ではないと思いますよ」
バスの停留所につくまで、何度か路面電車を見かけた。ローランスが言うにはトラムという名称らしく、初めてみる新鮮な乗り物を目で追ってしまうのだった。たまに乗客と目が合い、手で挨拶を交わす。
「マコト。翻訳書の、わたくし厳選の言葉は覚えました?」
「グーテンターク、ビスモルゲン、ダンケ……こんな程度だったか」
「Prima, weiter so。よくできました。ドイツでは挨拶が基本です。お店の人とも、運転手さんとも。挨拶は礼儀となります」
日本でも上司等目上の人物には挨拶が基本となっているが、それがドイツでは一層意識が高いらしく、知らない人物でも会う度挨拶は基本だという。たった今、向かって右側の店から出てきた女性も店主に言葉を告げて去っていった。この嫌いじゃない風潮に、ドイツという国に好感を持ち始めた。
「俺は、グーテンターク、とでも言っておけばちょっとは人気者になるのか」
「人気者にはなれませんが、笑顔を返してくれますよ」
まだ見たことのない世界は歩くだけでも新鮮であった。家はどこも寂れておらず、煉瓦つくりの地面は、心なしか日本とはまた違った靴の音を鳴らしているように思える。ここは都市部で人と人とが通り盛っている道で優雅に観賞もしていられないが、八方から聞こえるドイツ語に、映画のワンシーンを歩いているような気分にさせられた。といっても、洋画は最近見てはいないが。
「もう少しでつきますよ」
先ほどより人通りの少ない道に出た時に彼女は言った。
「わかった。なんだか旅気分になれない不安ばっかだったが、踏ん張って外歩いてみると案外解消されるもんなんだな。お前がいるからこその安心感もあるに違いないがな」
「謎を解きにきたんでしょう、マコト。旅に浸っちゃだめですよ」
「分かってるさ。ただ、憧れてもいない国に来たのに、なんだかとても魅力的に感じてしまうんだ。今まで旅行したことがなかったが、たまには新鮮を味わってみるのもいいかもしれん」
「ドイツは本当に良い所ですよ。私は、この国に生まれた事を誇りにすら思いますから」
彼女は母国が褒められたことに素直に嬉しそうにして顔を微笑ませた。お世辞を言った訳ではないことは、気付いているようだ。
ドイツの建築物を眺めながら歩いていくうちに停留所についたようだ。既に何人かの人物が待機していた。
その中の一人が日本人である俺を見つけて、きっと健気であろう柔らかな笑顔を向けて話しかけてきた。
「グ、グーテンターク」俺の挨拶はどうも響かずに流れてしまった。
挨拶が基本だとはローランスからの教えであるが、まさか、市民同士でも挨拶が基本だとは。まさかの出来事に顔をギクシャクさせて挨拶を返してしまった。
相手のドイツ人は挨拶を返してもらったことに親しみを感じてくれたらしく、次に彼が開いた口から出てきた言葉は到底理解の及ばない物となった。ローランスの小脇を軽く突いた。
彼女は手をしきりに動かして、彼と同じ言葉を喋り始めた、すると彼の方は納得した顔つきになり、俺に手を振ると、自分のいた場所へと戻っていった。
「何て言ったんだ? ローランスは」
「日本人と会うなんて珍しい! と彼が言っていたので、この人はドイツ語が喋れませんと言っておきました」
「まるで俺が無知みたいじゃないか。もう少し言い方に気遣いはなかったのか」
「くす、大丈夫ですよ、今は色々と省きましたが、わたくし、彼にはきちんと丁寧に教えたつもりですから」
すると彼女は、おもむろに鞄から財布を取り出した。ピンクを強調した、質のいい素材でできた上品な財布であった。
「チケットを買ってきますね」
どうやらドイツのバスはチケットを購入することによって交通内の移動を行うらしく、彼女は俺を置いてけぼりにして自動販売機の方へ行ってしまった。
いつ健気で友好的なドイツ人が話しかけてきてくれるのか焦燥感に苛まれながら待つと、チケットを購入し終えた彼女が足早に戻ってきた。
「長期券を買いました。一週間有効です」
「へえ、便利なもんだな」
そういえば、探偵として依頼人の依頼を受けていることを今思い出した。依頼人に金を使わせるのは八条さんが好きな事ではないし、俺もそれに同意する。
「今度、換金して返すとする」
「あら、大丈夫ですのよマコト。ハチジョウさんに、もうもらっております。マコトを待っている間に」
元々俺を旅行させる気だったなあの人は。
「でも足りるかわからないじゃないか。足りない分は俺が補う」
「換金方法を調べさせるよりも、まずは推理から始めさせないとって、ハチジョウさんが」
深いため息を吐いた。八条さんの言っていることに間違いはない。俺は換金方法をまるっきり、雀の涙にすら例えられない程の知識しかない。
バスが見えて、それから停留所に近づくとガスを吐く音を出して止まった。日本でも聞く音だ。
「さあ、バスが来ました。マコト、乗りましょう」
励ます感情を全く表に出さないまま彼女は俺の肩を叩いて先を促した。
「チケットを運転手に見せてください。そうすれば、乗れますよ。あと、挨拶は忘れずに、です」
分かった、と相槌を入れて俺は乗車した。挨拶を済ませると、外を見れる窓があるという事を条件にして座席を探した。人は案外混んでいて、ローランスと事件についての話が落ち着いてできるような環境ではない。元より、する気も起きずに、外を眺めている予定であったが。
座席が決まり、ローランスを隣にして腰を落ち着かせた。
「良い席ですね。ここなら出口にも近いので出やすいです」
「ああ、とりあえず目的地の名前だけでも教えてくれ。無知の克服に繋がる」
早速酔いが回ってきた。まだバスは発車してすぐだというのに。多分もう、車内独特の香りが脳を刺激し、酔いの気分を思い出させているのかもしれない。
「エアフルトまでです。マコト。そこに、オースティンを殺した本人がいます」
ドイツの街並みが過ぎ行く中、酔いの気分に嘆きながらも、本格的な捜査の開始という魅力的な言葉に心は次第に高揚していった。




