探偵「浅葱 真」
ふと、空を見上げる。午後二時、満点の曇り空なのは都合がよかった。ここで晴れられでもしたら落ち着かない気分のまま読書を続けなくてはならなかっただろう。
次に、例によって机の上の散らかった紙を見て長いため息をついた。静寂に包まれたと表現するにはうってつけの部屋の中、紙を奥に追いやり目線から隠すと、椅子にもたれかかった。
その拍子に、机の上から何かが床に落ちる音が聞こえた。木製の床に、眠気を覚ます程度には大きな音が鳴る。重い体を起こし、落ちたものに手を伸ばした。
"浅葱 真"――そう記されたプレートは鉄製だが、角が剥げており、所々傷のついたどこか古めかしい雰囲気が特徴的だ。
そして、本を読みながら長いため息をついた主こそ、そのプレートに記された浅葱だ。
プレートに反射した自分を見てみる。細く鋭い目、銀髪を交えた黒髪で、いつかヘアスタイルに詳しいお客さんがきた時に教えてもらったのだが、ウルフカットのアレンジ版と言われる髪型をしている。ヘアスタイルについては専門外だから、聞いてもよくわからないが、どうやら好感度が男女共通で高いらしい。
再び襲ってきた眠気に、細かった目が、一本の線のように更に細くなる。
「……昼寝にはもってこいの時間か」
眠気により顔を歪ませたまま長い欠伸をする。そして席を離れると、部屋の隅にある自分専用のベッドに横になり眼を閉じる。
そのままうつろうつろ、俺は眠りの中に誘われていく。だんだん、夢の中に……。ゆっくりと、眠りに落ち……。
「浅葱君、いるんでしょう? あなたにお客様よ。早くここを開けなさいよ」
突然、激しいノックと共に聞き覚えのある声が部屋中に響き渡る。なんの慈悲もなく現実に引き戻されることになった。
この声のトーン、上から目線な態度……八条さんだろう。八条さんは、今いる私立探偵事務所のオーナーだ。
「わかりました、わかりましたよ。今開けますんで、お静かに願います」
面倒くさそうに返してやる。誰だって微睡みの中を漂っている間に起こされると苛立ちもするだろう。
机の正面にある木製の扉を開け、八条さんを迎える。
「うわ、相変わらずお客様を招くには最悪な場所だねぇ。まるでこの部屋に空き巣でも入ったかのように見えちゃうよ浅葱君。いつも言っているだろう私は部屋を綺麗になさいと。ほら、机の上なんか紙束が踊ってるよ」
"八条 二十"――さっきも説明したが、この事務所のオーナーだ。女性で、ロングヘアに端整な顔立ち。年齢は40代だが、少し化粧を入れるだけでいつでも三十代、いや二十代に戻れる天に優遇されたお人だ。巷では美人探偵と呼ばれているらしい。
「……八条さんも、相変わらずスーツを綺麗に着こなしていますね」
「相変わらず」その言葉で反抗しようと試みたが彼女のどこにも指摘を入れる隙は見当たなかった。結局褒め言葉になってしまう。
「あら、そう? ふふふ、なかなか浅葱君もセンスのある褒め言葉を覚えてきたじゃない、素直に嬉しく思うわ」
こういってはなんだが、八条さんは扱いやすい。
「でも、今浅葱君が磨かなくちゃいけないのは片付けのセンスよ。お客様は私が対応しておくから、その間に部屋を片付けておきなさい」
「はい、わかりましたよ。ちなみに……お客さんはどんなご要件で?」
「大丈夫大丈夫、ちゃんと殺人事件についての依頼だから。それも冷やかしとか悪戯とかそんな類じゃないわ。私にはわかる」
開きっぱなしになったドアのプレートには太く力強い文字でこう書かれてある。"殺人事件担当"と。
尋ねてくるお客さんは、警察には言えない事情で依頼してくる事が多い。理由はわからないが、ほとんどの場合が警察が信用できないといった曖昧な理由だろう。
しかし、殺人事件担当という言葉に勘違いする奴がたまにいる。ゴキブリ退治を希望するやら、シロアリをどうにかしてくれやら、酷い時には幽霊退治さえ希望されたこともある。殺人事件担当といっても、一応探偵だ。"殺す"のではなく"暴く"を目的としている。
「それじゃあ、準備が出来たら教えてちょうだいね。私はロビーでお客様とお話でもしてるわ」
手を振りながら八条さんは出ていった。
改めて言われてみると、部屋の散乱状態はひどかった。そこかしこに落ちた本と紙々。脱いだまま放置した服が多数に、束にされた雑誌の山。月に一度のお片づけの時間だ……。
住む家がない俺にとって、この事務所の居候を許されたのは幸運だった。過去を全て語ると長くなるため端的に言うと住んでいた家を奪われたのだ。
八条さんとうちの家族は古くからの交友関係があり、俺が子供の頃からよく家に来ては長い語らいを親としていたものだった。一人っ子である俺をよく可愛がってくれたのを覚えている。しかし運命の日、無残にも日々の日常は一瞬にして壊れてしまった。両親が何者かの手によって殺害されてしまったのだ。当時俺は十五歳、一人で生きていくには知識も金銭的余裕もなかった。一旦今いる事務所に寝泊りさせてもらえることとなり、生活は保証されることになった。
俺が探偵になるきっかけは八条さんにある。
親を殺した犯人を許せなかった俺は、八条さんに依頼する。犯人を捕まえてほしいと。そして自分も同行させてほしいと希望した。
八条さんは最初同行について深く悩んでいたようだが、快く希望を通してくれた。ワトスン役として八条さんの側にいることになったのだ。
そして、事件から約一年後真犯人を捕まえる。捕まえたのは八条さんではなく、この俺だった。ワトスン役として参加した物語で、そのワトスン役が犯人を暴いてしまうという例を見ない快挙を成し遂げた。
その結果、俺が探偵に向いていると信じた八条さんはこの事務所の生活を認め、六年後の今にいたる。
「こんなもんだろ」
昔を思い出したのは、床に散らかった紙の中で見つけた、小さなアルバムのせいだった。
部屋を片付け、ロビーに向かう。八条さんと、そのお客さんと思わしき人物が待ち構えていた。後ろ姿しか見ることができないが、清潔感が漂う、お上品な人に見える。短い金髪は、日本人というよりも西洋人らしいという印象を持つ。
近づく俺に気づいた二人は、八条さんが席を立ち、それに続いてお客さんも席を立ちこちらを向く。
「遅くなってしまい申し訳ございません。こちらが、今回あなたの依頼を聞いて頂くこととなる、浅葱探偵です」
「まぁ、お若い、この方が?」
お客さんは女性だった。彼女はこちらの姿を見て予想外で驚いた……という顔をしている。淡い水玉模様のオーバーシャツを無理なく着こなし、傘のように開いたスカートは彼女の太腿から膝までをきちんと覆い隠してくれている。シャツの上から着るピンク色のコートは、彼女の美しさを更に際立てていた。
どちらかというと驚いたのは俺の方だった。彼女は本当に西洋人で、それにしては流暢な日本語で話しかけてくる。更に驚かされたのは、年齢は俺と同じ20代で小柄の女性ということだ。八条さんと並ぶと、彼女の方が際立って綺麗さが目立つ。
確かに、彼女は散らかった部屋は似合わない。咄嗟にそう思った。
彼女がこちらに近づくと、短いツインテールが揺れる。
「よろしくお願いいたします、わたくし、アニマ・ローランスと申します。あなたのことはよく聞いております」
「よろしく。あなたのことは何と呼べばいい」
「わたくしはローランスで結構です。あなたのことはマコトと呼ばさせてもらいますね」
「わかった、よろしくローランス」
いつも無駄な話はせず淡々と済ませている俺だから八条さんはまったく気づいていないが、かなり緊張している。六年間探偵として座っているが、外人と接するのはこれが初めてだったからだ。
「それじゃあ後は浅葱君に任せたよ。彼は優しいからね、気軽になんでもいうといいよ」
八条さんは気づいていないのだろうか、それとも気づいているが意地悪をして知らんふりを続けているのか。
「それじゃあ案内するから、後についてきてくれ」
二階の自分の部屋へ続く階段を登っている最中、どう話かけてやろうか悩んでいた時、突然彼女から話題を振ってきた。
「マコトは、今から七年前にドイツのテューリンゲン州で起きた連続殺人事件をご存知……ですか?」
「ドイツで起きただって? ……いや、知らないな。それがどうかしたのか?」
「いえ、詳しくは後ほどお話しましょう」
俺はよく事情の掴めない、何とも形容しがたい気分を思い出しながら、彼女を部屋に通すこととなる。