降り止む雨
翌日。
当たり前な話ではあるが学校は昨日の報道番組で持ち切りだった。教室、廊下、人がいるならどこでも。どこにいても、そんな話題ばかりだった。
もちろん、外は今日も雨。
昨日のあの報道がまるで本当であると頷くかのように雨は今日も振り続ける。
鈍色の世界に閉じ込められた私達。
その中から聞こえてくるのは、不安。
もし、本当にこのままだとするなら、私達はどうすればいいのか。
また雨かー。と冗談まじりで話す人なんかほとんどいない。
これは深刻な問題だと、皆が重く受け止めていた。
もう、雨は私達に取って恵みでもなんでもない。
ただの、檻だった。
「はぁ……」
暗い雰囲気の教室。思わずため息が出る。
皆、昨日の報道を見ていたのだそうだ。
おかげで、学校に来た途端に一方的な会話に参加させられてしまった。
話す暇も与えず、マシンガンのように昨日のことを語ると満足したように解放してくれたが、なんだかどっと疲れた。
とりあえず、一息つくために自分の席へ向かう。
窓際の一番後ろ。そこは、全体を見渡すには最適な場所だ。
そこから教室を見回してみるが、やはり皆の顔に笑顔はなかった。
どことなく苛々しているように感じた。
それは、もちろん私も同じ。
特になんでもないように装ってはいるが、ストレスが溜まっているのを感じる。
これから、ずっと雨を見なくちゃいけない。
それは、あの日の事を毎日思い出すということ。
冗談じゃない。たまの雨ですら嫌に感じるというのに、これを毎日?
自然の悪戯とはここまで質の悪いものだったのか。
だが、逆に考えてみよう。もし、これが日常となる。そして、思い出すのも日常化される。人間とは慣れる生き物だ。もしかしたら、この雨を見る度に感じる痛みにも慣れてしまうかもしれない。
「………」
しばし、目を閉じてそんな世界を想像してみる。
「……最悪ね」
数秒考えた結果、口に出た感想はそんな言葉だった。
結局、雨をどうにかしない限り私の悩みは消えそうになかった。
まぁ、でも。どうにか出来る訳がない。
相手は自然の気まぐれだ。
いくら人間が我が物顔で地球を支配したつもりになったとしても、自然には勝てない。
地球の支配から逃れる事など出来ないのだ。
人間というのは、とても強そうに見えて貧弱な、そんな生き物なんだから。
「……はぁ」
そんな貧弱な私に出来ることと言えば、今も降る雨に対して憂鬱なため息を吐き出すことくらいだった。
「……んで、なんであんたは今日もここにいるのよ」
昼休み。
余り食欲が沸かないが何か入れておかないと午後がもたない。そんなわけでフラフラと食堂を訪れたのだが、あろうことか、またもやこいつと出くわしてしまった。
というか、入口で誰かを待っていたようだった。もしかして、私ストーキングされてる?
「……んー?」
「どうしたの?」
「……うっさい」
というか、なんで私がこんな奴のことで悩まなくちゃいけないのか。もう終了。どちらにしろ、こいつが私を待っていたという事は変わらない。
別に自意識過剰とかじゃない。私はそこまで自分を美人だと思っちゃいないし、かといって卑下にするほどブサイクだと思ってもいない。
そういうの関係なしに、こいつは私を待っていたと思う。
「それで、もう一度聞くわよ? なんでここにいるの?」
「和泉を待ってたんだよ」
ほら。
……いや、何が「ほら」だ。自分の予想が当ってたことを自慢してどうする。むしろ、間違っていなかったことを嘆くべきなんじゃないのか、私。
「私は別に待ってないけど」
「せっかくだし、一緒にご飯食べようよ」
問答無用か。しかも、何が「せっかく」だ。そっちが私のことを待ってた癖に。
逃げ出したいところだが、どうせどこまでも追っかけて来る気がする。それに、食糧を調達するには、どのみちここに来なくてはならないわけで。
「……仕方ないか」
諦めよう。それと、今度からお弁当作って来よう。
おぼんを持って一番後ろの列へ並ぶ。
相変わらずの人気の無さ。これなら数分程度で済みそうだ。
「ねぇねぇ」
私の後ろに並んだ藤代がつんつんと肩をつつく。
「……なによ」
ちょっと不機嫌さをアピールしながら振り返ってみる。
まぁ、わかっていたことなんだけど、全くの動揺もなく喋り出す。
「昨日のテレビの――」
「ストップ」
全てを言い終わる前に口を止める。
「その話はもう聞き飽きたのよ。どうせ喋るなら別の話題にしてちょうだい」
そうだね、と藤代は笑う。
「今、学校中で持ち切りだもんね。それは聞き飽きるよ」
「学校どころじゃないと思うけどね」
きっと、今頃は日本中……いや、世界中でビッグニュースになっている事だろう。
それはきっとネットでも変わらない。
だから今日は一度もネットには繋いでいない。
どうせ、皆の書く事なんか決まっているのだから。
退屈になっちゃったな……。
多分、こんなことを考えているのは私くらいなんだろうな。世界は退屈とか言ってる場合じゃないだろうし。
「いらっしゃい、今日は何にするんだい?」
「んー、カツ丼で」
「あいよ」
……あ、しまった!
「お、おばちゃ――」
あ、もう奥に入っちゃった。
今日は食欲がなかったのに……いつもの癖で頼んじゃったよ。
食べきれるかな……。
少ししてやって来たいつものカツ丼。だというのに、今日はなんだか量が多い気がする。
「和泉ちゃんはいつもカツ丼頼んでくれるからね。今日はサービスで少し多くしておいたから!」
「あ、ありがとうございます……アハハ」
いつもなら大喜びのサービスなんだけど何故今日に限って……。
しかし、せっかくのご厚意に文句を言うわけにも行かずとりあえず愛想笑いでごまかして空いてる椅子に座る。
「いただきます」
別にアイツを待つ必要もない。
私は先に両手を合わせると卵でとじられたカツにかぶりついた。
「………」
カツ丼と対峙して早十分。
丼の中には未だ半分以上のお米とカツが残っていた。
きつい……。きつすぎる。
「どうしたの? なんか辛そうだけど」
つるつるとうどんを啜りながら心配そうな顔を向けて来る藤代。
「だ、だいじょうぶよ……」
こいつに心配されるなんて、私のプライドが許さない。
もうこれは意地だった。
無理矢理に口の中に押し込む。
せっかくのおばちゃんのご厚意を無駄にするわけにはいかない。ついでに、こいつに心配されるのも死んでもゴメンだった。
その二つが私の何かを突き動かす。
手を動かして口に入れて飲み込むだけ……。
そう、ロボットになるのよ和泉。
「ふふ、ふふふ……」
「なんか怖いよ和泉……」
「ご、ごちそうさま……」
あれからさらに二十分かけてなんとか食べ終わる事が出来た。
かなり限界……。もう、動きたくない。
教室に戻るのすら骨が折れそうだ。
「だ、だいじょうぶ? なんか凄い辛そうだけど……?」
「しばらくしたら、治まるから。頼むから今はそっとしておいて……」
正直、喋るのも辛い。もっと言うと息をするのも辛い。
今、割と楽な体勢を取っているのだろうけど、それでも辛い。
「人間の欲求も度が過ぎれば毒になるのね……」
勉強になった。
その代償はとても辛いものだったけど……。
「ほら」
いつの間に持ってきたのか私の前に水を持ってきてくれた。
普通の水でも今の私には恵みの水だ。
両手で持って少しずつ口の中に含んでいく。
「……ふぅ」
ちょっとは落ち着いた。
「……ありがと」
こいつに礼を言うのは少し癪だけど……でも、助けて貰ったし。
「そんなに辛いなら食べなければよかったのに」
「……うっさい」
的を得ているだけに反論出来ないのが悔しい。
「さて、そろそろ戻ろうか」
「ああ、ちょっと先に行ってて……」
「まだ辛い?」
「まぁね。あんだけ食べたし。多分、今日の晩御飯も必要ないくらいに食べた気がするわ」
「そっか」
そう言ってさっきまで座っていた席に座り直す藤代。
「……? なにしてんの?」
「え? 和泉が調子良くなるまで一緒にいようかなと」
「……どんだけお節介焼きなのよ」
私にそんな優しくして何を望んでんの? というか、そこまで構う理由ってなんなの?
私とあんたには何も接点なんかないのに。
わからない。こいつの考えてる事がわからない。
「ねぇ、どうして私に構うの?」
だから、聞いてしまった。
こいつは多分答えてくれると思ったから。
予想通り、藤代は答えてくれた。
でも、それは――きっと。
聞いてはいけない事だったんだと、後悔した。
「僕にはさ。妹がいたんだ」
最初に藤代はそう切りだした。
「いた」と、こいつはそう言った。どうして、過去形なのか。
そんなのは決まってる。
私と同じだから。私と同じような目に、遭っているから。
藤代は続ける。
「その妹とは凄い仲良しだったんだ。周りが羨むくらいに。どうしたら、そんなに兄妹仲が上手くいくのか教えて欲しいって言われたくらいだったよ」
その時の事を思い出しているのか、妹のことを話す彼はとても楽しそうだった。それだけ、大事にしていたというのが伝わって来る。
でも、でも何故その話を今するのか。
どうして、そんな話を――
「その妹はさ……今はいないんだ」
「……」
もう、ほとんど藤代の声が聞こえて来ない。
必死だった。
私にその話を聞かせる意図と、その答え。
頭の中で出来あがっている答えとそれ以外の答えを探すのに私は全ての精神を集中させていた。
早く考えなくちゃいけない。
彼が、答えを口にする前に。
なんとしてでも。
しかし、それは結局無謀な事で、彼が考えを改めない限り現実は変わらない。
そんなことを考える事すら出来ないくらいに、私は焦っていた。
何故? そんなの決まっている。
それは――
「今はもう遠くの場所に行っちゃった。二度と会うことが出来ないくらい遠い場所に。でもさ、その妹に和泉が――」
パシャッ!
藤代の言葉を塞いだのは、コップに入った水。
私の振るったコップから放たれた、水だった。
「和泉……?」
唖然。
ぽかんと口を開けて私を見つめる。
騒がしかった周りの生徒も一瞬の間に静寂へと包まれた。
だが、それも一瞬の内で口々に何が起きたのかと、また騒がしくなっていく。
そんな野次馬達に目もくれず、私はただ一点、藤代の目を見つめた。
「……和泉?」
「最後まで言わなくたってわかってる。藤代が何を話そうとしているのかくらい。 あんたが妹って単語を使った時から、わかってたんだ」
だから今、私はこうして怒ってる。
「私とその妹が似ていたって、言うんでしょ?」
「……うん」
「ふざけんじゃないわよ!」
バンッ!!
怒りに任せて私は思い切り机を叩く。
もう一度、静寂が訪れた。
「それで、あんたは私と妹が似ているから、だからあんなお節介を焼いた。そういうことよね?」
「……」
今度は無言。だが、確かに首を縦に振った。
「それで、あんたは幸せかもしれないわよ。大事な妹が帰って来たとも思うでしょうね。でも、でもさ。それはやっちゃいけないことなのよ」
やっと、わかった。
私がこいつを嫌いな理由。どうしても、こいつを好きになることが出来ない理由が。
私は死人じゃない。
ちゃんと生きてる。ここに足を付けて立っている。
私として、ここにいる。
でも、それを死んだ人と重ねられたら?
ここにいる私は一体どうなる。居場所も存在もなくなったら、私はどうなる。
それはきっと、もう死んだ人と同じ。
だから、私はしなかった。
初めて会った時に兄にそっくりだった藤代のことを重ねたりはしなかった。
こいつは、こいつだ。
私の兄は確かにあの時死んだんだから。
なのに……。
こいつは未だに妹が死んだ事を吹っ切ってなんかいない。引きずってる。
だから、こうやって私で重ねたりするんだ。
それが、どれだけ酷いことなのか知らずに……。
「いずみ……?」
じゃなければ、こんな顔をするはずがない。
どうして、怒っているのかわからないような顔なんて、絶対にしない。
そして、そんな表情をする藤代を私は絶対に許すことが出来なかった。
「そんなに……そんなに会いたいなら」
「自分が死んで、会いに行けばいいじゃないっ!」
「……はぁ」
授業のチャイムが鳴る。
あの後、私は藤代に暴言を吐くだけ吐いて食堂を駆け出した。
入り口近くには野次馬が何人もいたがその波も吹き飛ばして、私は誰も来ない屋上まで走りきった。
もちろん、外は雨。だから、その入り口に座り込む。
外の暑さとは思えないくらいに、床は冷たかった。
セメントで出来た壁も、冷たい。
なんとなく、おでこを壁にくっ付けてみる。
「……つめたいなぁ」
冷えてる。気持ちいい。壁が熱を吸い取ってくれる。
しばらくそのままじっとしてみる。
熱が引いていくと同時に頭も少しずつ冷静になっていった。
そして、それに伴ってやってくる自己嫌悪。
私は何をやってたんだろう……。
私から聞いたくせに勝手にキレて怒るなんて……。
あーあ……。
言ってから後悔。
考えてみると、かなり酷いことを言った気がする。
私の逆鱗に触れてしまったと言っても、あれはちょっと言い過ぎた。
膝を抱えて座り込む。
本当にあんなこと言わなければ良かったな……。今さらな話なんだけどさ。
でも……。
「後悔するくらいなら謝った方がいい、かな」
あれだけ怒っておいて、やっぱりごめんなさいってのもなんか変な話だけど、このままずるずると引きずるよりかはずっといい。絶対に。
「でも、なんて謝ろうか……」
ここまでしたんだ。なんかのお詫びくらい用意した方がいいんじゃないのか?
「って、なに用意してあげればいいんだろ……」
菓子折りとか? そんなクレームの謝りに行くんじゃあるまいし。
でも、まぁ何か奢るくらいがちょうどいいのかも知れない。
今度、昼食を奢ってあげよう。
よく、考えれば頼む時はいつも学食で一番安い素うどんだったし、もしかしたらお金ないのかも。
だったら、たまには高い物でも……。
「よし、これで行こう」
そうと決まれば話は早い。
早速、教室に向かおうとした――んだけど。
「そういえば、まだ授業中だったっけ」
さっきチャイム鳴ったばかりだし。
……うーん。
仕方ない、保健室でも行くか。
「授業をサボるならあそこほど適した場所はないわよね」
さすがに授業中に彼に謝りにいくわけにはいかない。
まだひんやりする廊下から腰を上げて、私は保健室へと向かう。
ちなみに、保健室は一番下、一階にある。
一番大けがしやすいグラウンドから近い方が便利だからとか、多分そんな理由なんだとは思うのだが、上の階から降りて来る時は結構面倒だ。
「失礼します」
静かにドアを開けると、中には白衣を着た先生が一人。
「あら、和泉さん。いらっしゃい」
私に気付くとにこりと笑顔を浮かべてくれる。
普通だったら、こんな授業中に顔を出せばどうしたのと心配してくれるようなものだが……まぁ、それは私がそういう感じの常連になりつつあるわけで。
真面目に授業を受けているつもりだけど、たまにはサボりたくなる時だってある。
「聞いたわよ? 藤代くんと喧嘩したんだって?」
「うっ……」
もうここまで話が流れて来てたのか……。
噂の広まる速度に呆れながらも感心しつつ、こくりと頷いた。
「やっぱり、本当だったのねぇ。駄目よ? いくら、カッとしたからって水を掛けたりしたら」
「すいません……って、どうしてそんな詳しく知ってるんですか?」
「本人から聞いたのよ」
「え? あいつ、ここに来たんですか?」
きょろきょろと辺りを見渡すが姿はない。それどころか、私達以外の人影すらなかった。
「もう出て行ったわよ。制服濡れちゃったから、着替えとかないですか? って顔出したのよ」
「そ、それくらい拭けばいいのに……」
「そんなレベルじゃなかったわよー? 結構びしょびしょだったし。よほどご立腹だったみたいね?」
「や、やめてください……」
くすくすと悪戯っぽく笑う先生。
もう、すぐそうやってからかうんだから……。
「それで? 彼に謝りに来たけど授業中で戻りにくいし、仕方ないから保健室でサボろうってとこかしら?」
「……」
「あれ、もしかして当たり? 私、保険医やめて心理学者にでもなろうかしら……」
「何言ってるんですか」
「うそうそ、冗談よ冗談。それより、謝るなら急いだ方がいいんじゃない?」
「……? なんでですか?」
「彼、今日はもう帰っちゃったわよ。着替えを取りに行くとかで」
「は、はぁ!?」
な、なんで? そ、そんなに濡らしちゃったかな?
それにそもそも、後二時間もしないで終わっちゃうんだからそれくらい我慢して……。
「……ていうか、ドライヤーとか借りてくればいいのに」
「……あぁ」
思い出したようにポンと手を打つと先生はベッドの下からゴソゴソと何かを取りだした。……って、まさか。
「そういえば、保健室にもあったのよね。すっかり忘れてたわ」
「先生!」
「ごめんごめん。そんなわけだからさ、ちょっと探して来てくれない? まだ、そんな遠くに行ってないと思うから走れば間に合うんじゃないかな」
「……車とか出してくれないんですか?」
「私、徒歩だもん」
「……わかりました」
はぁ、とため息を吐いて立ちあがる。
私だって出来れば今すぐ謝りたい。明日に長引かせたらそれこそなんて言えばいいのか困ってしまう。こういうのは勢いが大事なんだ、勢いが。
「それじゃ、先生」
「うんうん、あとの事は任せておきなさい。あと、これ」
ひょいっと何か長いものを私に向かって投げて来た。
「どうせ、教室に置きっぱなんでしょ? 貸したげるから、さっさと行って来なさい」
「ありがとうございます!」
「気にしない気にしない。私と貴女の仲じゃない」
頷くと私は駆け足で保健室を後にした。
そのまま玄関に出て靴に履き替える。
外はやっぱり雨。
こんな中を私は走って追いかけないといけない。
「こりゃ、絶対に濡れるだろうなぁ……」
まぁ、でも仕方ない。
そんなことを考える前に足を動かさないと。
「ここで見失ったら面倒だしね」
この時間帯に制服姿の男子なんかそうそう居ない。見れば一発でわかるはずだ。
とにかく駆け出す。
一応、傘を差してはいるけど、走ってしまっては余り意味がない。
守られるのは肩から上くらい。それ以外はもうあっという間に濡れて来てしまう。
もう、ここまで来ると逆に吹っ切れる。
この何日間分の水たまりの上も構わず走り抜けていく。どうせ、濡れるんだから関係ない。
ただただ一直線に。
走って、走って、走り続けて。
そろそろ体力の限界に近付いて来たところで、私の学校の制服が見えた。
あれだ!
口の周りに手をやって大声で叫ぶ。
「おーい! 藤――」
瞬間、何かが頭を過った。
――あれ? これ、前にもなかった?
何かが私の頭の中に流れて来る。いや、違う。流れて来るんじゃない。これは、掘り返してる? 記憶を?
何? 掘り返すってなにをよ。私が何かを忘れてるっていうの?
そんな、そんな記憶なんてどこにもない。私は何も忘れてなんかいない。
でも、でもこれはなに?
なんで、この光景を見た事あると思うの?
寒気がする。
悪寒がする。
駄目だ。
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!
頭が私に危険信号を送っている。
このままにしちゃいけない。絶対に。そう頭の中にいる誰かが言ってる気がした。
止めなくちゃ!
走り出す。傘も投げ捨てて。全速力で藤代の元へ向かう。
どうして、そこに向かっているのかなんて知らない。
どうして、こんなに焦っているのかも知らない。
これから何が起こるのか、私は何をしなくちゃならないのか。
私は――
キキーーーーッ!!
何かを思い出そうとした。しかし、それは突如鳴り響いた轟音にかき消される。それはまるで心臓をわしづかみにされたような戦慄の音。
その音は……ちょうど、藤代の、辺りから。
「え……?」
赤。
それが強く印象に残っていた。
曇天、セメント、ビニール傘。
全てが灰色に染まったこの世界で、彼の周りだけが赤だった。
時間が止まったのかと思った。
その場所だけ、時間が止まってしまったのかと思った。
だって、動かない。
さっきまで、私と話していた藤代が動かないんだ。
ぴくりともしない。
胸も動かない。目も開かない。
「……ふじ、しろ?」
かろうじて、声を出す。
私の目の前で寝ている、藤代に。
ねぇ、こんなところで寝てたら風邪引くよ? はやく教室に戻ろうよ。
先生に連れてこいって言われたんだよ?
ドライヤー。持ってたんだって。だからさ、そっちで乾かせばいいじゃない。
私も付き合うからさ、ね?
あ、でも。そんなにびしょびしょだったら乾かないかも。っていうか、泥だらけだよ? そんなに汚れちゃって……。
血だって、こんなに……。
「ねぇ……私、まだ謝れてないんだよ……」
どうして、こんなことになってるの……? それじゃ、謝れないじゃない。
ねぇ、返事してよ……。
起きなさいよ……。
ねぇ…。
その日、藤代圭介はしょうもない、本当にしょうもない交通事故で、命を落とした。
もう、会うことも、謝ることも出来ないまま、彼は手の届かない、遠い遠い世界へと旅立ってしまった。
「……」
翌朝。
だるい身体を無理矢理に起こして、私はベッドから起き上がった。
……昨日の事は余り覚えていない。
道路にいたと思ったら病院にいて、そして、気が付いたら家に帰ってた。
ご飯を食べてそのまま寝た、と思う。
わからない。
私は何をしているのかわからない。
どうして、アイツは……。
頭の中に浮かび上がるのは昨日の情景。
灰色の中の赤。
糸の切れた人形ように伏す身体。
通行人の悲鳴。
サイレンの音。
「……っ」
頭を押さえる。
痛い……。
「……本当に」
いつも通りの準備をこなして、家を出る。
お母さんはいつも通り仕事に行っていた。
私の様子が少し変だとは思っていたみたいだけど、体調が悪いからでごまかした。
昨日あった事は、何も話していない。
話せるはずがない。
だって、あれはまるで――
「………」
まるで、なに?
また、何か思い出そうとした?
違う。私は何も忘れてなんかいない。
何も……。
「……行こう」
傘を差す。
昨日投げ出したビニール傘はどこかに行ってしまった。
だから、今日はビニールじゃない普通の傘。
でも、こっちの方がいいのかもしれない。
これなら、雨が見えることはない。
見たくないものを、見ることがない。
ポツポツと水の当たる音だけが聞こえる。
それすらも、今は不快でたまらない。
これから、ずっと私はこの音を聞き続けていかなければならないのか。
これが、私の贖罪なんですか?
毎日、兄と彼を思い出しながら生きて行かなくてはならないんですか?
終わらない雨の牢獄の中で、私はずっと見つめて行かないといけないのですか?
自分を。自分自身を。
教室に着くと全ての視線が私に集まった。
その目は、憐れみ? 同情?
そんなんじゃない。あれは――
「人殺しが来たぞ」
一人がそう呟いた。
私にも聞こえるくらいの声で。
ざわざわと揺れる教室。
「……」
一瞥して、私は自分の席へ座る。
机には油性ペンで書いたものだと思われるが、大きく「死ね」だの「人殺し」だの書かれていた。
「昨日の昼休みにあの人、藤代君と言い合ってたんでしょ?」
「違うわよ。彼女が一方的にキレてたみたいよ?」
「それで、死ねばいいとか言ったんだっけ?」
「そうそう」
ああ、そっか。
昨日のこと、広まってたんだ。
だったら、これも当たり前か。
傷付くというより、納得してしまった。
だって、あの時に私が水を掛けなければ。
もっと早くに謝っていれば。
そもそも、あそこで怒ったりしなければ。
藤代が死ぬことはなかったんだから。
全部、私のせい。私のせいなんだ。
だから、こうされるのは当たり前。
これは罰なんだよ。
だって、私は人を殺したんだから。
暗く重たい空気が流れる。
人気があったクラスメイトと、そこまで人気のない、むしろ藤代に絡まれていた事から嫉妬されていた私。
どちらが生きてどちらが死ぬべきだったか。
そんなことは考えるまでもなかった。
チャイムが鳴る。皆が席に着く。先生が入って来る。
その顔はとても悲しそうだった。
ちら、と私の方を見た後、とても言いにくそうに口を開いた。
「昨日、藤代が亡くなった」
その瞬間、ざわめく教室。中には泣いている生徒までいた。
こんなに愛されてるのに、どうして彼は死ななければならなかったのだろう。
「それで、今度の葬式に出てくれる奴はいるか?」
私達のクラスの代表が二名が決まり、それで今朝のHRは終わった。
教室はHRが始まる前よりも騒がしくなった。
泣いている女子をあやす男子。
皆が、彼の死を悲しんでいた。
……ここには居られない。
鞄を持って教室を出る。
その後ろから「逃げるのか」という声を聞きながら。
昨日の事は学校中に広まっていた。
その経緯も、誰と誰がどうなったのか、そんなことまで全てが筒抜けになっていた。
私が廊下を歩くたびにどこからかひそひそと声が聞こえる。
「人殺し……」
「あの人が……」
「……ひどい」
そんな言葉ばかりが私の耳に入って来る。
わかってる。全部言わなくてもわかってるから。
もう、消えるから……。
玄関に向かう。
「あれ……」
下駄箱に私の靴がない。
どこ、行ったんだろ……。
笑い声が聞こえる。
振り向くとさっきまで教室にいたはずのクラスメイト数人が私を見て笑っていた。
「もしかして瀬川さん、自分の靴がないのー?」
その内の一人が不気味なくらいの笑顔で私に話しかける。
こくり、と頷くと辺りに嘲笑が渦巻いた。
「それだったら、もしかしたらゴミだと間違われて捨てられちゃったんじゃないのかなー?」
ゴミ……。
玄関脇にある小さなゴミ箱。
中を覗き込むとびしょびしょに濡れた靴が捨てられていた。
「うわー、ひっどーい。誰がこんなことしたんだろうねー」
「……」
ぽんぽんと軽くはたいて靴を履く。
ぐしょぐしょに濡れた靴はとても気持ち悪くて、歩くだけで不快感が足元を襲ってきた。
でも、帰らないと……。
私はここにはいちゃいけないんだ。
「そのまま、車に撥ねられて死ねばいいのに」
気が付けば、私は駆け出していた。
背中からはまだ嘲笑が聞こえて来る。
どれだけ走っても、走っても。
私を笑う声は消えなかった。
「……ただいま」
家の中は真っ暗だった。
私が出かけた時よりもさらに。
それは、まるで私の心のようで、とても息苦しくなった。
そんな中に人影を見た気がした。
暗くてよく見えないが、何かのシルエットのように、そこにぼんやりと何かが佇んでいた。
それは、とてもよく見た人影で。
「…ふじしろ?」
ゆらり、とその影が揺らいだ気がした。
「藤代なんだね……」
死んでもまだ、私の所に姿を見せるのか。
どうしたの? 死んだ人って成仏するんじゃないの?
ねぇ、妹さんに会いに行かなくていいの?
「……ああ」
それでか。
私のこと、恨んでるんだね?
また、ゆらりと動く。
そっか。そうなんだ。それで、私を連れて行こうとでもしてるの?
まるで、私に答えてくれるかのように、動く黒。
「でも、私は死ねないよ」
自分勝手かもしれないけど、私が死んだらお母さんが悲しむもん。
お兄ちゃんがいなくなった時のお母さんを知っているから、私だけはいなくなっちゃ駄目なんだよ。
出来れば、変わってあげたいよ。学校でもさ、私なんかより全然人気あるし。
でも、出来ないよ。だから、帰って。
それでも、ここから離れようとしない。その場所から一歩も動こうとしない。
ただ、ずっとそこに居続けている。
「……やめてよ」
どんなに貴方が憎んでいたとしても、私は死にたくない。死ねないんだよ。
だから、もう帰ってよ。
「………」
消えない。いなくならない。ただ、そこにいるだけの、影。
私は、ソレを無視してネットに繋いだ。
反応さえしなければ、きっと諦めてくれるはずだ。
「ネットも……」
昨日までの雨の事なんか一つも書かれていない。
全部。全部が、藤代の、事故の、日記。
そこでも、私は人殺し扱いだった。
人殺し。
ヒトゴロシ。
ひとごろし。
「うるさい!!」
携帯を投げつける。
「うるさいうるさい! 私は関係ない! あいつが、あいつが勝手に死んだんじゃない!なのに、どうして私が責められなくちゃいけないの! 自分の言いたい事だけを言っただけじゃない! それでなんで私が人殺し扱いされなきゃいけないのよ! 文句を言われなきゃいけないのよ! ねえ、どうしてよ!!」
それでも、影は何も言わない。ただ、ゆらりと動いただけだった。
「……何よ。何とか言いなさいよ! 勝手に化けて出て来て! 居座らないでよ! どっか行ってよ! ……なんで動かないのよ!」
たった一日。たった一日で、私の心は限界を感じた。……いや、違う。きっと、 ずっと前から限界だった。
それが昨日という日で壊れてしまっただけ。
普通の状態が、もうひび割れている状態だったのだ。
一度目で兄が死んで、二度目で兄にそっくりな藤代が死んだ。
目の前で。交通事故で。
もう、それだけで私の心はボロボロだった。
それでも、もしかしたら耐えられたかもしれなかった。
だけど……。
もう、ここに私の居場所はない。
学校も、ネットも、家にさえ。
全部、無くなってしまった。
彼らにとって、私は人殺しだから。何にも知らない癖に……!
私がどうしてあんなことを言ったか、理解なんかしていない癖に!
もうやだ! こんな世界いらない!
全部投げ出して、私は自分の部屋に閉じこもった。
ここだけは、誰にも、入れさせない……っ!
鍵を掛けて、そこら中にあるものでドアを塞いだ。外からじゃ誰も入って来れない。
「はぁ……はぁ……」
ドサっとベッドに腰を掛ける。
死にたくない。私は兄のようになりたくない。
でも、でもさぁ……。
「今、なんで私……生きてるんだろ……」
今日は疲れた……。
急な眠気に襲われた私は、そのまま深い眠りへとついていった。
どうか、このまま……目を覚ましませんように……。
――雨が降っていた。
鈍色の曇り空の下、私とお兄ちゃんは出掛ける約束をしていた。
もうすぐ私の誕生日だったから。その誕生日を買ってあげるって言われて。
そういうのって内緒にしておくんじゃないのー?
私はそうやってクスクス笑ってた。
お兄ちゃんは、だって女の子の欲しい物なんてわからないよって困り顔だったけど。
私は、お兄ちゃんがくれるものなら何でも大切にするよ。
口には出さなかったけど、私はそう思った。
だって、お兄ちゃんは私の嫌がるような物くれたりしないもん。
それは妹の私が一番よくわかってるから。
だから、楽しみだなぁ……。
だけど、それは叶わなかった。
喧嘩を、してしまった。
それは、今にして思えばとてもくだらない事。
どうして、こんなことで怒ってしまったのかと思うくらいにくだらない事。
余りにくだらなさ過ぎて、もうその内容すら覚えていない。
ただ、一つだけ覚えていることがある。
その喧嘩の後に、お兄ちゃんは。
お兄ちゃんは――
「ん……」
目が、覚めた。
だるい身体を無理矢理起こす。
そっか、寝ちゃってたんだっけか。
もう日が落ち電気を付けていない私の部屋は、完全な闇に包まれていた。
そんな闇の中でゆっくりと頭が覚醒していく。
「そうだ……」
私は、もう。
昨日の事。学校での事。そして、私の家での事。
全部、思い出した。鮮明に。
やっぱり、夢ってわけにはいかないらしい。
時計を見る。
時刻は九時を回った辺り。
「そういえば、今日は私がご飯作る当番だった……」
あのまま寝ちゃったから結局、何も作ってない。でも、こんな時間ならもう帰って来ちゃってるか。
じゃあ、いいや……。
このまま、ここに。
「あぅ……」
ぶるり、と身体が震えた。
この時期でも布団を掛けずに寝たせいだろうか。尿意が……。
「トイレ、行こ……」
ドアの前に置いてある障害物を全てどかして部屋を出る。
その先も真っ暗だった。
電気一つついてない。
「……なんで?」
それどころか、人の気配すら感じなかった。
慌てて、スイッチを入れる。
やはり、そこには誰も居なかった。……あの影以外は。
「お母さんは……?」
この時間なら、もう帰って来ててもおかしくない時間なのに……。
むしろ、帰って来てないとおかしい時間だ。
冷蔵庫に貼ってあるスケジュール表を見る。
「……え?」
そこには今日の日付で早番と書かれていた。
早番だったら、それこそもう帰ってきていないとおかしい時間のはずじゃ……。
「お母さん! ねぇ、返事してよ!」
怖くなった私はたまらず叫んだ。しかし、返って来るものは何もない。私の声すら、壁に吸い込まれて消えていった。
なんで? なんでお母さんがいないの!
「やだ……やだよ。一人にしないでよ……」
目から涙が零れる。
……さがしに、いかないと。
お母さんの仕事場は知ってる。たまに、忘れ物を届けに行ったりする内に自然と覚えた。
そこを辿って行けば、お母さんは見つかるはず。
泣いている場合じゃない。
ぐし、と袖で涙を拭く。
「行こう」
傘を持って家を出る。その時、ちらっと後ろを見たがやはり影はその場をゆらゆらと漂っているだけだった。
「……酷い雨」
土砂降りだった。前を見るのも一苦労しそうな程に空から水が降って来る。
傘一本じゃ心もとないが、今さら戻っている時間もない。
一刻も早くお母さんを見つけて安心したい。
傘を開いて仕事場を目指す。
ほんの数歩歩いただけで傘から水が垂れ始めた。
それが肩に当たって少しずつ染み込んでいく。
冷たい……。
「さみしいよ。おかあさん……」
私は一人になれないし、出来ないよ。
もう、どこにも居場所がないのに、これでお母さんまでいなくなったら私はどうしたら――
「……あ」
その時、道路の向こう側に見知った顔を見つけた。
お母さんだ。
良かった、ちゃんといてくれたんだ。
向こうも私を見つけたのか手を振ってくれる。余りに嬉しくて私も手を振り返す。
急いで駆け出す。
お母さんが。
信号は――
――赤。
「……え?」
真っ赤だった。
誰が?
私が?
違う。
お母さんが。
真っ赤に染まっていた。
スーパーの白いビニール袋も、さっきまで使われていた傘も、お母さんだったモノも。
全部。全部。全部。
真っ赤に染まっていた。
「うそ……だよね?」
「……あ、れ?」
気が付いた。
ここ、どこ? ベッドの上? 私、寝てた?
自分の部屋?
……さっきのは夢?
「本当に?」
夢だなんて信じられないくらいリアルな光景だった。
まだ、頭に鮮明に残っている。
吹き飛ばされたお母さんが重い音をたてて地面と激突するところが。
そこから赤い血がだらだらととめどなく流れて来る映像が。
私の脳に焼きついて離れない。
こんな酷い悪夢は初めてだ。質が悪いにも程がある。
昨日の事が、それほどまでにショックだったってことなのか。
「おかあさん……」
そうだ、お母さん。どこかにいるはず……。
だって、死んでないもん。あれは、夢だもん。
ガンガンする頭を押さえながら立ちあがる。
一瞬、ぐらっと倒れかけたが、壁に手をついて体制を立て直す。
もう、心身とも限界だった。
辛い。
苦しい。
「……おかあさぁん」
もう、疲れちゃったよ……。
早く、休みたいよ。
ドアを開ける。
そこは、いつものリビングだった。
テレビがついてて、料理があって、ソファーではお母さんが寝転がってて。
「……はは」
その余りにも日常的な光景に思わず笑みが零れる。
今までの事が全て夢だったよう。最悪で、最低な悪夢から、やっと目が覚めた。そんな感じ。
いや、きっと夢だった。
全部。全部、夢だったんだ。
そう思うと心が落ち着いた。
「おかーさん!」
私は、日常に帰ってこれたんだ!
もう、あんな目に遭う事もないんだ!
「ねえ、お母さん! 私、お腹空いちゃったよ。ご飯食べようよー!」
ソファーで寝てるお母さんを揺する。
ホントにもう、いつまで寝てるんだろ?
「ほら、お母さん! 起きて起きて!」
もう、こんな時間だよ? 時計見てよ。
もう、夜中の三時だよ……。
テレビだって、ほら……砂嵐が…。
お母さん、そんなに濡れてたら風邪引いちゃうよ? そんな、びしょびしょで……。
「……うぁ…あ、あああぁぁぁぁぁぁっ……」
その場に崩れ落ちる。
なんでよ……。
なんで、みんないなくなっちゃうのよ……。
兄も、藤代も、お母さんも……。全部、全部いなくなって……。
それも、全部……全部私の――
「……え?」
何かが、私を見下ろしていた。
「あんた……」
影だった。
ずっと、同じとこに漂い続けていた影が初めて動いた。
「ねぇ……。殺してよ」
「……」
「私もそっちに連れて行ってよ。こっちにはさ、誰もいなくなっちゃったよ。私のことを大切にしてくれる人は皆いなくなっちゃった。だからさ、辛いんだよ。悲しいんだよ。ねぇ、私を殺しに来たんだよね? 私のせいで死んじゃったから呪いに来たんでしょう? ほら、早く殺して、殺してよ! ねぇっ!」
「………」
「どうして! どうして殺してくれないの! あんたはなんでここにいるの! 私を、私を殺す為にいるんじゃないの! それとも、これが呪いだっていうの! こんな……私以外の人ばかりが死んでいくのが私への呪いなの! そんなの……酷いじゃない……」
それでも影は動こうとしない。
ただ、じっと私を見つめるだけ。
「お願い……お願いだよぉ…。やだよ。全部、全部私のせいなんだよぉ……。私が、私が何もしなければ、みんな死ななかったのにぃ……。お母さんも、藤代も……」
「お兄ちゃんだって……死ななかったんだ!」
え? 何言ってんの、私。
お兄ちゃんは、ボールを追っかけて道路に出て、それで……。
違う。
お兄ちゃんはそんなことで死んでなんかいないし、そもそもそんなこと起きてなんかいない。
そう、あれは全て私の妄想。
最初からわかっていたんでしょ?
もう、目を背けるのはやめようよ。
気付いているでしょ?
だから、だから私は――こんな世界を作ったんだから。
喧嘩をした。
ホントにホントにささいな事だ。
私の誕生日プレゼントを買いに行く約束を、反故にされた。
たった、それだけの事。
でも、楽しみにしてた。
プレゼントを買って貰うことなんかよりも、お兄ちゃんと出かけるという事の方が何倍も嬉しかったから。
ずっと前から計画してた。
プレゼントを買うだけじゃなくて、色んなところに連れて行って貰おうって。
一緒に行きたいところ一杯あったんだ。
水族館とかウィンドウショッピングとか。
お兄ちゃんに私の似合う服決めて貰うのもいいな。
それで、晩御飯はちょっと豪華なところで二人で……。
そんなことばかり考えてた。
ずっとずっと楽しみにしていた。
でも、それが叶わなかったから。
私はお兄ちゃんに当たり散らした。
「お兄ちゃんなんか! 死んじゃえばいいんだ!」
もちろん本心なんかじゃない。
カッとなって言ってしまっただけ。
だけど、それを聞いたお兄ちゃんは酷く悲しそうな顔をして出て行ってしまった。
しまったって思った。
でも、止めることはしなかった。出来なかった。
変なプライドが私の行動を許さなかった。
それでも、どこかに悪いなと思っている気持ちも残っていた。
しょうがなかったんだ。しょうがないことだったんだ。
だからだろうか。私はその事を日記に書き綴った。
喧嘩したことと、その事に対して後悔しているということを。
そしたら、すぐにコメントがついた。
『素直に謝れば絶対に許してくれます。大切な家族なんですから大事にしてください』
「……」
それを見て、私はすぐに立ちあがった。
謝ろう。謝って、また今度一緒に行けばいい。
外は雨が降っていた。余り雨の日は出掛けたくないけど……今はそんなことを言っている場合ではない。
傘を出して、私は外へ飛び出した。
「はは、はははは……」
思い出した。
全部、思い出した。
そうだ。私はお兄ちゃんに謝りに行こうとして、それで。
目の前でお兄ちゃんが車に撥ねられたんだ。
そしてそのまま……。
そうだよね……。雨が嫌いだってのに、その思い出の中のお兄ちゃんがサッカーのボールを追いかけるとか、わけがわからないもの。
雨の中でサッカーなんかするはずがないじゃない。
一つが分かると連鎖的に全ての記憶の鍵穴が開いていく。
隠していた記憶が。改竄してきた記憶が全て元通りになっていく。
それが、少しずつ私の世界を壊していく。
「私は……私は…」
全部、私のせい。
私が怒らなければ、喧嘩にならなければ、あんなこと言わなければ。
お兄ちゃんは死ぬ事はなかった。
お兄ちゃんが死んだのは私のせいだ。
ぼろぼろ。
小さな音を立てながら、壁が崩れて行く。
全てが分かった今、この世界はもう意味を成さない。
少しずつ、少しずつ壊れて。
「……ごめんなさい。おにいちゃぁぁん……」
その時、影が動いた。そこに漂っていた人のような影の腕のようなものが静かに ゆっくりと私の方へと伸びる。
そこで気付いた。
ああ、これは藤代じゃなくて……。
「お兄ちゃん……」
影が晴れる。もやだったものが霧散して、そこからお兄ちゃんが姿を見せた。
あの日のあの時の服装のままで。
「和泉……」
影が――お兄ちゃんが私に声を掛ける。
「お兄ちゃん……。ごめんなさい、ごめんなさい!」
そのお兄ちゃんに私は謝ることしか出来なかった。
だって、他にどうすればいいの?
お兄ちゃんを殺した私はどうやって罪を償えばいいの?
きっと怒ってる。憎まれてる。
それだけの事を私はした。取り返しのつかない事をしてしまったんだから……。
「和泉……」
「お兄ちゃん?」
でも、その怒っているはずの、憎んでいなければおかしいはずのお兄ちゃんの顔は笑っていた。
とても、優しい。あの時のままの笑顔。
いつも、私にしてくれた笑顔で私の名前を……。
「おこって……ないの?」
怒ってるでしょ? だって、私はお兄ちゃんを――
「ごめんな、和泉」
なんで?
なんでお兄ちゃんが謝るの?
「ずっと、謝ろうと思ってたんだ。でもさ、謝れなくなっちゃって、しかもそれで責任感じちまったみたいで」
違うよ。謝らなくちゃいけないのは私の方なのに……。
お兄ちゃんは何も悪くないじゃん……。全部、全部私のわがままで……。
「ごめんな。すぐにでも謝れば良かったんだ。そうすれば、こんなものをお前が作ることはなかったのに……」
こんなもの……?
「雨の牢獄だよ。和泉が自分自身を罰する為に作った世界、そうだろ?」
「……うん」
気が付いたら、私はここにいた。
雨の降る――いや、雨しか降らない世界。
時間軸も何もかもがバラバラなこの世界に私は立っていた。
でも、不思議だとは思わなかった。これが、当たり前で日常なのだと、ずっと思い込んでいた。
何故なら、私はここで罰せられなければならないから。
お兄ちゃんと同じくらいに自分を酷い目に遭わせないといけないと思っていたから。
それで、初めて私は許されるのだと思ってた。
「ずっと雨が降り続いているのも、俺によく似た人間が死ぬのも、お前の大事な家族が死んだのも、全部自分を罰する為だったんだな」
「……だって、死ねなかったもん。私は、お兄ちゃんの後を追っかける事が出来なかったんだもん」
もう、ずっとこの世界に居たせいか本当の現実に何が起きていたのかを、もう余り覚えていない。
だけど、お兄ちゃんの後を追いかけたのだけは覚えている。
自分のマンションから飛び降りて――
「お前は、まだ病院のベッドで寝てるよ」
「そうなんだ……」
「お前がずっと自分の世界に閉じこもっているから、目を覚ませないんだ」
「そうだったんだ……」
「なぁ、もう終わりにしよう? こんな世界、お前には必要ないんだ」
「でも、私はまだ自分に罰を――」
「もう十分だろ!」
私の肩を強く掴む。
「……お兄ちゃん?」
なんで、泣いているの?
「お前はもう苦しんだだろ! 死にたいって! 殺してって言うまで、苦しんだんだろ!だったら、もういいいだろ! 俺は、お前の事を恨んだりも怒ったりもしてない!」
「……え?」
怒ってないの? 許してくれるの?
あんな酷い事をしたのに……。
「私は、お兄ちゃんを殺したのに……」
「殺してなんかないだろ! あれは、事故だったんだよ……」
「でも! 私と喧嘩さえしなければ!」
「あれは関係ないんだよ! 例え、お前と喧嘩して外に出たとしても、それと事故に遭った事は別の問題なんだ」
「お兄ちゃん……」
「もう一度言うぞ。俺は怒ってもない、恨んでも無い、こんな辛い思いを和泉にして貰いたいなんて思ってない! だから、もう自分を責めるのは止めてくれ……」
私は、許されたの?
もう、こんな思いをしなくてもいいの?
「許すも許さないもあるか。俺はお前のせいで死んだんじゃないんだから」
それじゃ、もうこの世界に居なくていいの? 私は普通に生きていいの?
「当たり前だろ」
私は……私は……。
「もういいから、俺の為に苦しまなくてもいいんだ……和泉」
ぎゅっと、優しく私はお兄ちゃんに包み込まれた。
そこで、何かが折れた気がした。
ぽきりと。
きっと、それは今までの涙の栓。
本当の感情と、涙と、記憶。
その全てを塞いでいた長い長い栓の折れた音。
それが、一気に私の身体を駆け巡った。
「う……お、おにいちゃっ……おにいちゃぁぁぁぁぁんっっ!!」
それは、私の身体には収まりきらず、塩辛い水と叫びとなって外側へと出ていく。
お兄ちゃんはその全てを、優しく……ただただ優しく受け止めてくれていた……。
「落ち着いたか?」
「……うん」
ぐし、と袖で涙を拭く。
気が付くと、もう家はほとんど崩壊してた。
お母さんだったモノも消えていた。
いよいよ、この世界も限界らしい。
きっと現実の世界に戻るんだ。
そこで、またやり直す。私、一人で。
そこには藤代も、お兄ちゃんも居ない。
というか、藤代に至っては私の作った妄想だから、現実にいるはずがないんだけど。
だから、この世界の崩壊は――
「そろそろ、時間だな」
「お兄ちゃん……」
「少しだけど、お前に会えて嬉しかったよ」
「私も……嬉しかった」
嬉しかったけど……。
「また離れ離れになっちゃうんだね」
「仕方ないだろ? 俺は死んでる身だしな」
「そんな軽く言うことじゃないよ……」
「そうかもな」
そう言いながらも口元はニヤニヤしてる。だから、そういうのが軽いって言ってるのに。
「そういえば、どうしてここに来てくれたの?」
「どうしてって……。そりゃ、お前が心配だからに決まってんだろ」
「いや、そうじゃなくて……。死んだら成仏するんだよね? どうして、この世界にいるの?」
「何言ってんの? お前」
そんな私の質問にお兄ちゃんはわけわからんみたいな反応をした。ちょっとムカつく。
「決まってんだろ。お前が心配だったから今まで漂ってたんだよ。でも、もう心配なさそうだしな。これでやっと成仏出来る」
「ま、まってよ……っ! 私、まだ駄目な子だよ? また、こんな世界作っちゃうかもしれないよ! だから、だからまだ――」
「和泉」
「だ、だって! だって!!」
このまま離れ離れになるなんてやだ! 見えなくてもいい! 見えなくてもいいから近くにいてよ! そうじゃないと、寂しいよ! こうやって謝ることも出来たのに、なのに、もうお別れだなんて――
言葉に出来ない。
声が出ない。
それは、本当に限界が近づいていると言う事。
もう、辺りには何もない。
私と、お兄ちゃんだけ。世界を作った本人とその本人が一番大事だと思ったものだけが、残った。
「和泉、お前は強い子だから。もう、一人でもやっていけるよ」
なんで? なんでお兄ちゃんは喋れるの? ずるいよ! 私は、私はそんなこと 思ってないのに!
違う! 違うよ! お兄ちゃんが思ってる程、私は強くないんだよ!
「ずっと、遠くから見守ってるから。どうか、幸せになってくれ。そして……」
そこで、お兄ちゃんの声も途切れた。
もう、お互い見つめ合う事しか出来ない。
片方は笑顔。もう片方は涙をぼろぼろ流しながら。
ずるいよ。こんなエンディングで現実に帰るなんて……。
私は、ずっとお兄ちゃんと――
光に包まれた。
真っ白な光。
もう、お兄ちゃんの姿は見えない。
このまま、お別れなんだ……。
そう思うと涙が出て来る……気がした。
感覚がないから何もわからない。
そして、そのまま……私の意識も、飲み込まれていった。
目が覚めた時、私の隣にはお母さんがいた。
「……和泉!!」
そのまま思い切り抱きしめられた。
頭がボーっとしてて最初は何がなんだかわからなかったけど、次第に脳みそがゆっくり覚醒して……。
「ただいま、お母さん」
私は、そう言った。
まぁ、その後はお母さんが号泣して、それに釣られて私も一気に泣いてしまって、慌ててすっ飛んで来たお医者さん達が私の検査をするのに一時間も掛かってしまったのは、ちょっとした思い出になりつつある。
とりあえず、どこにも異常は見当たらなくその後の経過も良好。しばらくしたら、家に帰ることが出来るらしい。
お兄ちゃんと二人で。
そう。お兄ちゃん。あの後、私とほぼ同時に息を吹き返したらしい。
霊安室がやけに騒がしいということで見に行ったらお兄ちゃんが歯をガチガチ鳴らしながらそこにいたらしい。ちなみに、発見されたのは夜中。
もう、病院中は大パニックである。
そんなパニックの中、お兄ちゃんはひょっこりと私の所に顔を出してくれた。
その時の最初の一言。
「よっ。元気してるか?」
感動よりも何よりも、まず呆れた……。
お兄ちゃんはずっとこうなんだなぁ。って、思った。
もしかしたら、私の作った藤代って人間は、私の理想のお兄ちゃんだったのかもしれない。
だとしたら、納得である。
それをお兄ちゃんに言ったら軽くいじけてたけど。
それで、そう。二人とも、あの時の事を覚えていたんだ。
あの世界の中での事を覚えていたってことは、あれは夢なんかじゃない。
でも、普通はあり得ない世界。なのに、どうしてそんなものが生まれたのか、今でもよくわかっていない。
まぁ、一番不思議なのはお兄ちゃんが生き返ったって事なんだけど……。
話に聞くと、意識が途切れる直前、おばあちゃんのような声を聞いたらしい。
「そういえば、こんなものが胸元に置いてあったんだよ」
そう言って取り出したのは小さなお守り。
そのお守りは、あの世界で私が坂田さんから貰ったお守りだった。
……もしかしたら、あの坂田さんって人は私が作った世界の住人じゃないのかも知れない。
ここは病院で、死の集まる場所だ。
その時の魂がなんらかの拍子にこの世界に入って来てしまったのかもしれない。
それは、この病院の記録を見ればもしかしたらわかったかもしれない。
でも、私達はそれをしようとは思わなかった。
奇跡は奇跡のままでいい。
今はただ、その奇跡を産んでくれたであろう坂田さんに、感謝の意を伝えるだけに留める事にした。
そして、屋上。
「ここを出たら学校か……。だるいなぁ」
「何言ってんの。ちゃんとして卒業しないと!」
「って、言ってもここに入院してる間の勉強、どうすんだよ」
「……言わないでよ」
これまでの事は全部チャラでまた新しい一歩を。
そんなに現実は甘くない。
引き継がなくちゃいけないことはこれからたくさんある。
今の人達より大きく引き離されてしまったのだから、その人達の何倍も頑張らないと。
「まぁ、でも。そんなことよりも先にやることあるけどな」
「……? なに?」
「決まってんだろ?」
そう言って空に目を向ける。
私も同じように空を見上げた。
そこには、もう鈍色の空なんか欠片もない。
あるのは、どこまでも続く。
青と白のスカイブルーだった。
「誕生日だよ」
……一件のコメントの返信が届いています。
「コメントありがとうございます。私達は、ちゃんと仲直り出来ました。コメントするのが遅くなったけど、報告してみました。これからは、大事に二人仲良く生きて行きます。本当にありがとう!」