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終わらない雨

 六月。

 梅雨も真っ只中のこの季節。

 もう見慣れたこの景色を私――瀬川和泉はうんざりしながら歩いていた。

 左手に持ったビニール傘に水滴が溜まっては落ちていく。サイズがあってなかったのかその水滴がたびたび私の肩を濡らして少しうざい。

 今日は雨。

 それももう三日目だ。

 うんざりにもなる。

 乾いている道路など一つもなく、濁った水たまりがところどころに溜まっている。ずっと降り続けているからだろう、その水たまりも道路を挟むように大きく広がっていた。

 なるべく靴を濡らさないように渡ろうとするが、その小さな川は容赦なく私の靴を飲み込んでいく。いくらローファーでも下から上から水が攻めてくればどうあっても防ぎきれるものではない。

 浸水してきた雨のおかげで、あっという間に私の靴の中はびしょびしょになってしまった。

「はぁ……」

 これから学校だって言うのに……。

 自然とため息がもれた。

 また上履きに履き替える時に陰鬱な気分になるに違いない。

 ぐっしょぐっしょ。

 歩くたびに気持ちの悪い感触が足に触れる。

 ……ああ、うざい。

 朝からなんて気分だ。もう少し、すっきりさせてくれやしないのか。一日の始まりがこんなんじゃ、やる気なんて出やしない。

 ……いや、元々やる気なんかあってないようなもんか。

 勉強する為に、わざわざ堅苦しい制服を着ていくようなとこだし。そんな堅苦しい服を着ながら何時間も束縛される生活。それがほとんど毎日。

 学校なんかそんなとこ。

「私服で行けるような学校なら良かったのに」

 受験する高校を選ぶ時、確かにそういう所もあった。

 でも、そこはここからかなり遠いところで。

 結局、私は学力も同じくらいで家からとても近い、この学校に決めたのだった。

 今でもこの選択は間違ってなかったと思う。

 思うけど……。

 やっぱり制服はめんどい。

「はぁ……」

 美容院で数時間掛けて染めたブラウンの髪をいじりながら小さくため息を吐く。

 今日も髪が酷いことになっているに違いない。今は鏡を出せないから見えないけど、きっとそうに決まってる。

 教室に着いたらまた癖を直さないと……。

 朝にいくら直そうとも、少し歩くだけでこの調子だ。

 これだから癖っ毛は……。

 あ、そうだ。今日、体育じゃん。

 この天気だし、外は絶対にないとして残るは体育館か。あそこって夏はすっごい蒸してるのよねぇ……。

 それじゃあ、着いてから梳かしてもどうせまた癖つくんだろうなぁ。

 ああもう……。

 雨の日は最悪だ。

 特にこの時期は。

 癖っ毛の私には毎日が地獄だし余計な荷物が多くなるし酷い時はいくら傘をさそうと靴の中に知らないうちに水が入ってたりするし、荷物を意識しすぎると肩の辺りとかびしょびしょになるし。

 さらに雨上がりなんか蚊は飛ぶわ、ただでさえ蒸し暑いってのに気温が上がるわ。

 良いことなんかありゃしない。

「……もう」

 そうじゃなくても、私は雨が嫌いなのに……。

 思い出してしまうから。

 あの日の事を……。

「……おっと」

 また思い出そうとしてしまった。

 ただでさえ陰鬱な気分だってのに……。

 もう、さっさと学校に行ってしまおう。

 クラスメートと話していれば少しは気が紛れる。

 さっきよりも歩くスピードを速め、私は学校へと急いだ。



 兄が死んだ。

 それはもう何年も前の昔のお話。

 兄のいない家が普通に感じてしまうくらいに前のこと。

 私は兄の事が大好きだった。

 優しくてかっこよくて人気もあって。

 いつも私のことを気にかけてくれていて大事にしてくれる。そんな兄のことをいつも慕っていた。

 兄が遊びに行く時はいつも後ろをうろちょろと付いて行ったものだ。

 それくらいに、私は兄が大好きだった。

 だけど……。

 ある日のことだった。

 兄は友達とサッカーをしていた。

 その日は学校が休みで、兄は一日中公園で友達とサッカーをする約束だった。

 もちろん、私も一緒について行ったが男の子の相手は私にはできない。

 兄と一緒にいることさえ出来れば満足だった私は近くのベンチで観戦をしていた。

 楽しそうに駆け回る兄を私は笑顔で眺める。

 時折、兄が私の方に手を振ってくれる。

 それだけでなんだか幸せで、自然と笑顔になった。

 そんな笑顔のまま私は兄に手を振り返した。

 ありふれた、でも特別な休日。

 今日もきっとそうなると、そう思っていた。

 しかし――

 そうならなかった。

 兄の友達が蹴ったボールが車道に飛び出し、それを追いかけた兄は……。

 私はそれを見てしまった。

 間近で。至近距離で。

 車に跳ねられ宙を舞う姿を。

 ドサっという重たい音を立てて転がる兄の身体を。

 一度、大きく動いた後、再び動くことはなかった。

 まるで電池の切れた人形のように赤く染まったその身体は機能を停止させた。

 訳が分からなかった。

 私も、友達も。

 何が起きたのか、理解できなかった。

 泣くことも叫ぶことも出来ず、ただ無感情のまま兄だったモノを見つめる。

 あの時の私には死というものが理解出来ず、それに気付いたのは結局、葬式の日に隣で泣いている母の姿を見た時だった。

 ああ、居なくなってしまったんだ。もう帰って来ないんだ。

 私を置いて行ったんだ。

 そして、私は一人ぼっちになった。



 下駄箱はやっぱり地獄だった。

 びしょびしょに濡れた靴下を脱いで、タオルで拭いて新しい靴下に履き替える。

 これだけ対応がよくなったのは皮肉なことに三日間に及ぶ雨のおかげでついた知恵だった。最初の一日が、それはまぁ悲惨な事態に陥ったため、今日は予め濡れることを想定した準備をしていたのだ。

 それでも、ぐしょぐしょに濡れてしまった靴だけは乾かす術がない。

 また、帰る時にはまた生乾きの靴で帰らなくちゃならないのか……。

「あー、やめやめ!」

 そんなことばっか考えると今の空以上にどんよりとした気分になってしまいそうだ。もう、考えるのはよそう。

 考えたところで何かいい案が出るわけでもないし。

 今は、目の前にあるものから順番に処理していこう。……それくらい前向きでいないと、もうなんだか色んなことを諦めてしまいそうだ。

 いつもの登校より少し遅めの時間。しかし、同じ時間に登校してきた人も多く、周りには少し濡れた制服の学生で賑わっている。

 私も適当にクラスメイトに挨拶をしながら階段を上っていく。

 私達の教室は階段を上った二階。

 一階が一年、二階が二年、三階が三年という感じだ。

 これが、新しく入って来た生徒が覚えやすいようにか、はたまた先生達が覚えやすいからかは知らない。

 知らないが、とにかくそういう構成なのだ。だから、年が重なる毎に上る階段が増えていく。一年の頃は楽だったのに、私達二年以上の生徒は膝を上げて上の階まで行かなくてはならない。出来れば汗はかきたくないのだが、そうも言ってられない。

 外以上に蒸している階段を上って廊下、そこから二番目の教室が私のクラスとなる。

 スライド式のドアを開くと同時に何とも言えない熱気が身体を包んだ。

「うわ……」

 思わず声に出た。それほどに蒸し暑い。

 雨のせいで窓を開けられないのだろう。湿気によって上昇した暑さが肌に纏わりつく。

「だからって、ドアくらいは開けられるでしょうが……」

 なにも、完全に密閉しなくても……。

 とりあえず、私が入って来たドアだけでも全開にして中に入る。

 この時間にもなると、もうほとんどの生徒が集まって来ていた。

 来ていないのは遅刻常連者くらい。

 もちろん、私は遅刻なんか死んでもごめんなので常連者には含まれない。

「おはよー」

 適当に挨拶を済ませ、私は自分の席へと着く。

 基本的に置き勉してるので鞄から取り出す物は特になし。何もすることがない私は制服のポケットから携帯電話を取り出す。

 どこの学校でも同じことだとは思うが、我が校ももちろん携帯電話は禁止である。持ってきてはいけない。

 だけど、そんなルールはあってないようなもので、携帯を持っている生徒がほとんど。教師側も特に注意したりはせず、ほとんど黙認状態だ。

 まぁ、授業の邪魔にならなければ問題はないということなんだろう。

 そんなわけで、私は堂々と携帯をいじることにする。

 メニューを開いてネットへ。

 繋いだ先は今、流行りのSNSサイト。

 簡単な日記からつぶやき、コミュニティなんかで遠くにいる人とも交流をはかることができる。そういうサイトだった。

 特にこれと言って興味は無かったのだが、クラスの友達に薦められて渋々登録してみたものの、これが意外と面白かった。

 と言っても、日記を書くのが面白いわけではない。

 私は、そんなはちゃめちゃな人生を送っているわけでもないし、何か日記に書けるような素晴らしい体験談もない。

 私が面白いと感じたのは日記を読む方。

 人の暮らし、他の人の感情、どんなことを考えて生きているのか、それを見ることが好きになった。この世全てに起こっている大きい事件から小さい事件まで、良い事悪い事全てが詰まっているんだ、この日記には。

 私の知らないものまで教えてくれる。

 いつの間にか、私は暇さえあればこのサイトに足を伸ばすようになった。

 最初はちょっと面倒とか思っていたけど、今はこのサイトを紹介してくれた彼女に感謝したい。

「……と、また面白そうな日記見っけ」

 画面をスクロールさせながら面白そうな日記を探す。

 うん、今日もたくさん面白そうな物が――

「こら」

 日記を読もうとボタンを押したところで私の視界から携帯が消えた。……話したくない奴の声と共に。

「……何よ?」

 不機嫌な表情を一切隠さずにそいつの方を向くと、そこには私の携帯を持つ男子の姿。

「学校に携帯を持ってきちゃ駄目だろう? 生徒手帳にも書かれている事なんだから」

「うっさいわね……」

 自分でもわかるくらいに不機嫌な声を発する。

 多分、いつもより二つくらい音が下がったんじゃないだろうか。

 それくらいに低い声だった。

 周りの生徒も私の声に反応したのか、チラとこっちを見るがすぐに視線を外していつもの会話に戻ってしまう。

 きっと、皆こう思っている。『ああ、またか……』と。

 そう、『また』なのだ。

 それくらいに、私とこいつ――藤代圭介は、いつも衝突していた。

 いや、衝突とはちょっと違うか。

 彼は別に私に怒鳴り散らすわけではない。まるで子供に言い聞かすように優しく注意するのだ。

 だが、それが気に入らない。

「誰も迷惑してないんだからいいでしょ? 授業中はしてないんだから」

「迷惑かけるかけないの問題じゃないよ。ルールはルールなんだから」

 ああもう、うっさいな!

 いつもいつも、同じことばっか言いやがって!

 そのくせ、少ししたら仕方ないなと言って返してくれる。

 本当にお前はどっちなんだと言いたい。

 本気でそう思っているなら先生に言うなりなんなりすればいいのに。

 ……はぁ、かったるい。

 まるで、暇つぶし相手にされているかのような、そんな感じ。

 まるで生涯の敵を見るような顔で藤代を見つめる。

 そんな私を彼は笑顔で見つめ返す。

 整った外見で、正直な話イケメンの類にまちがいなく入るであろう、その顔立ち。性格も良くこうやって何でも仕切るリーダーシップも持ってる。

 裏では女子達からの人気も高いこの野郎にこんな顔で睨めるのはきっと私くらいだろう。

 だって、本当に嫌いなんだ。

 誰だって嫌いな奴にこんなこと言われたら嫌悪感を剥き出しにした表情をするはずだ。

 だってのに、このせいか最近女子達からは裏でぐちぐちと言われているらしい。

 別に陰口は女の得意分野なとこもあるし、やめろって言ったところでやめるわけないし、私だって陰口叩いたりしてるわけだから気にはしないけどさ。

 視線が痛いんだよなぁ……。

 特に女子グループからの視線が。

 どっかの漫画であった主人公が超絶美人のヒロインにちやほやされて周りから嫉妬の視線を感じる。きっとそんなのと一緒なのだろう。

 それもあるから絡まれたくないのに……。

「はぁ……」

「……? どうしたんだ、そんなため息吐いて」

 お前のせいだよ!

 ……っとに、ぶん殴ってやろうかしら、こいつ。

 嫌悪感がちょっとした殺意に変わり始めた頃、そのタイミングを見計らったかのようにチャイムがなった。

「おっと、もうこんな時間か。それじゃ、あんまり携帯ばっかいじってたら駄目だよ?」

 そう言って私の机に携帯を置く。

「……ふん」

 やれやれ。私の態度にそんな表情で頭をかいて自分の机へと行ってしまった。

 ……本当に腹の立つ奴ね。

 結局、私が見つけた日記を見る時間はなくなってしまった。

 仕方ない。また後で見よう。

 携帯を閉じてポケットにしまうのと担任がドアを開けるのは、ほぼ同時だった。



 何度も言う通り、私は藤代が嫌いだ。

 あの爽やかな笑顔も、態度も何もかもがむかつく。

 だが、どうして嫌いなのか、その理由がわからなかった。

 何を言ってるんだと思うかもしれない。

 だが、別に生理的に無理なわけでもなければ、あいつに何か本気で嫌なことをされたことなんか一度もない。

 こんな見た目をしているが、一応の分別はしっかりしているつもりだ。

 だから、あいつの言うことはわかる。

 言ってることは全て正しいのだ。

 それを子供みたいに無茶苦茶な理論を立てて反論するつもりなんかない。

 ……いや、さっきしたけども。

 さっきの自分の態度を思い返してちょっと反省。

 なんで私はあんな態度を取ってしまったのだろう。……どうして、あんな反抗期の子供のような。

 それは、家族に向けるものであって他人に向けるようなものではないのに……。

 だけど、その相手が私の家族に似ていたら?

 姿も声も、何もかもがそっくりだとしたらどうだろう?

 例えばそう……藤代圭介のような。

 あいつは、私の死んだ兄に凄く似ていた。

 見た目も成長したらあんな感じになるんだろうなという私の想像そっくりで、声もあの時の兄が声変わりをしたかのような感じで、そしてなにより、少ししつこいくらいに世話焼きのところが……。

 もしかしたら、彼は私にとっての雨なのかもしれない。

 私が雨を嫌いな理由と同じように、彼を見ると思いだしてしまうから。

 あの時の惨劇を。

 でも、なんとなく。

 なんとなくだけど、それとは違う感じがする。

 何が違うのか分からないし、それに対しての自信もないけど。

 だけど、その答えには違和感を感じる。

 それじゃないって、言われてる気がする。

 じゃあ、なんなのかと聞かれても結局わからないんだけど。

 結局、そんな堂々巡りが永遠と頭の中で回っていくだけ。

 そして、最終的な結論は――

「私はやっぱりあいつが嫌いだ!」

 ――ということだけだった。



 昼休み。

 だるい授業(特に体育)が終わりようやく一段落がつける休憩時間。

 私は足早に食堂へと駆け込んだ。

 この学校の食堂は一階にある。

 故に教室が一階にある一年が間違いなく有利なのだが、そこは先輩の腕の見せ所。

 同じ部活の後輩に頼んで買ってきて貰うのだ。

 簡単な話がパシリ。

 しかし、これが先輩達にとっても重要らしく、先輩と後輩の信頼が試されるある種の試験のような習慣になりつつあった。

 つまり、先輩からのお願いを後輩が素直に聞くかどうかによって、そいつが部活内でどれだけの権力を持っているか、というレッテルを貼られてしまうのだ。

 もしも、それで後輩が言う事を聞かなければ……いや、全ては言うまい。

 そんなわけで、この学食に二年以上の先輩は少ない。

 ほとんどが一年で埋め尽くされた食堂内を私はフラフラと歩く。

 さっきの習慣のおかげで、ここに二年以上が足を運ぶのは、そういったレッテルを貼られた人間だけという訳分からん汚名を着せられるわけなのだが私は別にそんなの気にしないし、第一部活に入ってない私に後輩など出来るはずもない。

 手近にあったおぼんを取ってカウンターに並ぶ。

 ここは従来の学校みたいに食券で買うのではなく口頭でおばちゃんに言わなければならない。

 コミュニケーションが取れて非常に良い、とは思うのだが。話したい盛りのおばちゃん達が熱を入れて話し始めるといかんせん会話が止まらない。

 毎度毎度のことではないにせよ、それが麺類を頼んだ後に始まったりするともう地獄である。

 なるべく会話を弾ませないように注意しながら昼食を受け取る。

 今日の昼食はカツ丼。

 年頃の女の子が頼むような物じゃない気がするけど、いくつもお皿があるものよりも一つに纏まってくれる丼系統は片付ける時に楽だし食べやすい。

「この歳から楽することばかり考えちゃいけない気がするけど……」

 そんなことを考えながら隅っこの席に着く。

 一年でひしめき合っている食堂だが、皆先輩に食べ物をお届けしなければならないらしく、食堂内で食べる生徒は意外と少ない。

 というか、普通の生徒は定食ではなくお手軽な惣菜パンを買って自分の教室に行って食べている。

 おかげで、いつもそこまで並ぶことなく食堂のご飯にありつけるわけだ。

 未だに激しい戦闘を繰り広げるパンコーナーをボーっと眺めながらカツ丼を口にする。

 味はまぁ、普通ってとこ。

 一般の学校の学食にそれほどの味を期待してはいけない。

「庶民には庶民の味ってね」

 高くてもの凄く美味しいご飯よりも値段が安くて相応の味の方がいい。

 根っからの庶民である私にはこれくらいが調度いいのだ。

「……あ、そうだ」

 ポケットから携帯を取り出す。

 さっきはあいつに邪魔されたから見れなかったけど、今は私の周りに人はいない。

 と、言うわけで少し行儀悪いが携帯を操作しながら昼食を頂くことにする。

 カタカタと携帯を打ってさっきの日記を探し出す。

 しかし、昼休みまでの間にかなりの人が日記を書いていてなかなか辿り着くことが出来ない。

 その途中、いくつか面白そうな日記もあったがとりあえずスル―。

 こういうのは新しいのから順に読み進めていくとあっという間に埋もれてしまうのだ。

 せっせと前のページに移動して十分くらい経った頃、ようやく、さっきの日記まで戻って来た。

「全く……どんだけ時間取らせるのよ」

 予想以上に新着日記が多かった為に時間が掛ってしまった。

 ながら作業で食べていたカツ丼ももう残り少ない。

 まぁ、とにかく見つけることは出来たのだ。あとはそれを見ながらゆっくりしよう。

 日記のページを開く。


 タイトルは『兄妹喧嘩してしまいました』。

「今日、久々に喧嘩をしちゃった。理由はとても些細な事。些細過ぎてここでは書けないくらい。でも、そこで私、お兄ちゃんに大嫌いって言ってしまった。両親の居ない私にとってお兄ちゃんはとても大事な人だったのに。その時のお兄ちゃん、なんだか凄く悲しそうな目をしてた。……はぁ、なんて謝ろう」


「……」

 失敗したと思った。

 何が面白そうな話なのか。ただ思い出しただけじゃないか。

 自分の兄のことを。

 もしも、両親の居ないこの子の兄が帰って来なくなったらどうするんだろう。謝る事も出来ずに、会う事も出来ず、ただずっと後悔として残り続ける。

 そんなこと、誰も望んでいないというのに。

 気が付けば、昼休みも残り少ない。

「もどろっか」

 日記に「素直に謝れば絶対に許してくれます。大切な家族なんですから大事にしてください」とだけコメントして、私は自分の教室へと戻った。



 その日の放課後。

 何の変わりもない、いつも通りの日常が過ぎ去っていく。そんな時間。

 夏が近づいているおかげか、外はまだ明るい。……と、言ってもどんよりと曇った雲と今朝と変わらず飽きることなく振り続ける雨は健在なのだが。

「結局止まなかったなー……」

 これで明日も雨なら四日連続だ。さすがに異常なんじゃないの?

「でも、最近異常気象多いって言うしね」

 常に異常が発生し続ければそれはきっと正常なんだろう。

 なら、そんなに悩む事でもない。

「どうせ、あと何十年かすれば今の世代はほとんど生きてないだろうし」

 そんな先の事を考えても一庶民の私にはどうしようもない。そういうことはもっと偉い学者さんとかが考えるべきだ。

 当面の私が考えなければならないことは……。

「どうにかして濡らさないで学校に来れないものかしら」

 そんな小さなことくらいだった。

 ――もしかしたら止むかも。

 そんな無駄な期待を胸に放課後から一時間ほど校内で待ってみたがやっぱりというかなんというか止む気配は一向にない。

 窓から見える校門は傘がまるで花が咲いているようで、とても綺麗とか乙女チックなことを考えて暇つぶしをしていたが、それも十分程度で飽きてしまい、結局図書室で雨の音をBGMに今まで本を読んでいた。

 しかし、閉館の時間も訪れ司書さんに追い出されてしまった私はもう行くあてもなくフラフラと彷徨うことくらいしか出来ず、そんなんだったらもう帰ろうと玄関にやって来たのが今現在。

「うっわ……」

 靴箱を開けて靴を取り出す。案の定、靴は乾ききっておらず生乾きみたいなことになっていた。

「こんな中途半端ならびしょぬれで居た方がまだマシだわ……」

 おそるおそる靴に足を通す。

 ぐちょ。

 その瞬間、やな感触が足裏全体に広がって思わず顔をしかめてしまう。

「あぁー、やだやだ。早く帰ろう」

 こんな状態が果たしていつまで続くのか……。

 早く手に傘を持たない生活がやって来ないかしら。

 真剣にそう思いつつ傘を開く。

 コンビニで売っているようなビニール傘。

 今朝付いた水滴を飛ばして大きく花開く白く曇った透明の花。

 それは、他の生徒がさしている傘よりも醜い色だけど、なんだか自分らしくて好きだった。

 別にお洒落するつもりもない。自分を着飾る事もしない。

 ただ、ありのままの自分。

 だから、こういう普通の安っぽい傘が一番気兼ねなく使える。

 傘は傘なんだから。

 さっきよりも酷くなった雨の中、一歩を踏み出す。

 ピチャという水音。地面はコンクリだというのに水たまりがいくつも出来ている。

 その水を流す役割を持つ排水口もここ数日の雨の影響か溜まりに溜まって溢れかえっていた。

「ホント、このまま水没でもしないでしょうね」

 まぁ、そんなこと現実に起こるはずがないんだけど。

 とにかく、これで今年の水不足は免れたんでしょうね。

 そんな前向きなことを考えながら、私はまっすぐに帰路へと着いたのだった。



「えーっと鍵は――あった」

 傘を閉じて鍵でロビーの自動ドアを開ける。

 どこにでもあるような普通のマンション。そこの五階が私の住んでいる部屋だ。

 エレベーターのボタンを押して来るのを待つ。

「こう早く帰りたい時に限ってエレベーターって上の階で止まってるのよね」

 こっちはさっさと家に帰って靴を脱いでしまいたいのに……。

 もう自動ドアを開けたらそれを感知してエレベーター来てくれないかしら。

 そうすれば、こうして待たなくて済むのに。

「と、きたきた」

 エレベーターに乗り込み、五階のボタンを押してドアが閉じていく。

 数十秒もしない内に扉が開く。そこから右に曲がって二つ目が私の部屋。

「ただいまーっと」

 鍵を開けて中に入るも返事はない。

 どうやら、お母さんはまだ帰って来てはいないようだ。

「今日、遅番だったかな」

 玄関で靴下を脱ぎ、濡れた足を前もって用意しておいたタオルで拭き、ようやくフローリングの床に足をつける。

 とりあえず、濡れた衣服を全部脱いでしまおう。

 縛られたような堅苦しい制服から下着まで全部はぎ取ってタンスから新しい下着、あと動きやすいお気に入りのジャージを取りだした。

 それに着替え終わると今度は脱ぎ捨てた衣服をもって洗濯カゴへ突っ込む。さすがに制服は洗うことは出来ないので、それはハンガーにかけて自然乾燥。まぁ、明日の朝には乾くでしょ。

「さて、と」

 普段のスケジュール表なんかは大体冷蔵庫に貼られている。

 それを見て、お互いが今日何時くらいに帰ってくるのかを把握、そして早く帰って来た方が夕食を作る。それが、我が家の決まりだった。

 どうやら、今日はお母さんが遅番のようだ。なら作るのは私か。

「……冷蔵庫の中に何も入って無かったってのは止めてよ?」

 正直、この雨の中買い物にだけは行きたくない。死ぬほどめんどくさいし。

 両開きの冷蔵庫を開ける。

 そこには、ちょっとした調味料と卵。

 下には冷凍食品とお肉。野菜室にもしっかりと野菜がしまわれていた。

「なんだ。ちゃんとあるじゃない」

 これなら買いに行かなくてもなんとかなりそうだ。

 ニンジンとか玉ねぎとかもあるし、まぁ野菜炒めでも……。

「本当は電子レンジで楽したいんだけどねぇ」

 怒るんだよなぁ。お母さん。

 帰って来たときに、どうして手作りじゃないのよぉって……。

 以前、手作りの味! みたいなキャッチフレーズの冷凍食品があった時も一発で見抜かれちゃったからなぁ。

 あんなにレベルの高い冷凍食品は初めてだったのに。

 そんな訳で、非常にめんどくさいのだが仕方なく台所に立つ。

 ぶっちゃけ、自分だけレンジでお母さんだけ作ってあげてもいいのだが、どうせ作るなら一人分も二人分も変わらないし、だったら私もちゃんとしたご飯を食べようと思うわけで。

「これと……あとこれかな」

 さっき見つけたニンジンと玉ねぎ、ついでにピーマンも取り出す。

「お肉は解凍してっと」

 皿に移してレンジの中へ。今の内に材料を切ってしまう。

 うーん、この材料なら片栗粉欲しいけど、あったかなぁ。

 棚を探してみるけど見つからない。どうやら小麦粉はないらしい。

 仕方ない、普通の野菜炒めにするか。

 野菜を適当に切って肉も適当に切ってフライパンに投げ込んで炒めるだけ。

「はい、出来た」

 作り方も何もない。だって、野菜炒めるだけだし。

 こんなに簡単な料理でもお母さんは十分満足してくれるだろう。

「今、何時かな」

 ダイニングに掛けてある時計を見ると時刻は夜の六時半。ちょうど夕食時だ。

 時間もいいし、もうご飯にしてしまおう。

 野菜炒めを二つのお皿に盛り分けて一つだけダイニングに運んで行く。

 棚からお茶碗も取り出してご飯をよそう。

 これが今日の晩御飯。

 一見、少なそうに見えるけど私には十分過ぎる量だ。

 お昼にガッツリ食べたし。

「では、頂きます」

 テレビを付けてそれを見ながらご飯を食べる。

 行儀悪いけど、でも何か音がないとちょっと不安になるのよね。一人は静かすぎるし。

 大体七時くらいにはバラエティーやってるんだけど、この時間だとニュース番組が多い。

 別に何か見たい番組があるわけじゃない。とりあえずのBGMが欲しいだけなので特に番組を変えることなく放置する。

 マンション相応の広さとテレビ。それに家具が数点。

 そんな世界に私だけ。

 一人で居るには少し広すぎる部屋はテレビをつけてもやっぱり寂しいものだった。

「ごちそうさまでしたっと」

 手を合わせて台所にお皿を置く。

 ついでに、お母さんの分の野菜炒めにラップをして冷蔵庫へ。

 いつも帰って来るの遅いから冷蔵庫へ入れておかないと駄目になってしまう。

 この時期は湿気も多いし、食べ物腐りやすいし。

 熱は入れてるから大丈夫だとは思うけど念のため。

 さて、これでやる事は全てやり尽くしてしまった。

「もう、何もすることがねー」

 だらんとソファーになだれ込むように寝転がる。

 宿題とかあるんだけど、やる時間を決めているのでそれ以外の時間にやる気がしない。

 結局、つまらないテレビをだらだらと眺めることくらいしか出来なかった。

「……あ、そうだ」

 そういえば、昼休みに日記にコメントしたんだった。

 時間も結構経ってるしそろそろコメント来てるかも。

 自分の部屋から携帯を持ってきてさっきのサイトに繋げる。

 コメントを付けた日記は自動的に行けるようになるのでさっきみたいに探す必要はない。

「えーっと」

 自分のコメント履歴から彼女の日記に飛ぶ。

 昼休みに見た時と変わらない喧嘩の日記。

 その下にあるコメント欄。しかし、そこには私しかコメントが載っていなかった。

「うーん。返信無しか」

 これだけの時間が空いたら返信来てると思ったけど。

 もしかしたら、返信しないタイプの人間なのかもしれない。

 だったら、待ってても仕方ないか。

 自分のページに戻って、新しい日記を探しに行く。

 結局、お母さんが帰って来るまでこうやって暇を潰していたのだった。



「うわ……」

 次の日。

 部屋のカーテンを開くとそこは太陽が煌めいていて――いたりはせず、昨日と変わらない雨粒が窓を強く叩いていた。

「これで四日目か……」

 もう一週間の半分が雨ということになる。

 本当に勘弁して欲しい。

 と、愚痴ったところで雨が止むはずもなく。

「準備しますか」

 小さくため息を吐いてベッドから降りる。

 リビングに行くと目玉焼きと食パンだけがテーブルに残されていた。

 どうやら、お母さんはもう仕事に行ってしまったらしい。

 テレビを付けて一人で朝食をとる。

 朝のテレビもほとんどニュース番組。ここ最近の連続した雨によって発生した土砂崩れの報道をしていた。

 被災地の映像を上空から撮影し、レポーターが興奮気味に現状を伝えている。

 そんな映像を眺めながらの朝食。

 なんか朝から気分悪いなぁ……。

 ピッピッピっとチャンネルを変えてみるも、ニュース系統は全部この報道。

 やはり、マスコミ的にもここまで連続で続いた雨はスクープになるようだ。

「こういう日くらいハッピーな話題見させてくれてもいいじゃない」

 結婚報道とか動物園で赤ちゃんが生まれたとか。

 朝からこんなの見せられちゃ気も滅入るよ。

 ただでさえ、これからこの雨の降りしきる中、学校に行かなくちゃならないってのに。

 窓から外を見る。

 さっきと変わらず、ただただ降り続けている雨。

 ……なんで止まないんだろう。

 なんとなく、そんな事を思った。

「……って、何を考えてるんだ」

 止まないのに理由なんかあるわけないってのに。

 自然の気まぐれに理由を付けても仕方が無い。

 そんな事よりも、そろそろ学校に行かないと。

 食べ終わった食器を台所に持って行く。

「あ、そうだ。靴下も持って行かなくちゃ」

 学生の朝に、そんなことをのんびり考えている時間なんてないのだから。


「さて、行きますか」

 家の戸締りを確認して外を出る。

 私がドアの鍵を閉めていると、隣からピンクのカーディガンを羽織った白髪のお婆さんが顔を出した。

「あら、和泉ちゃんおはよう」

「おはようございます、坂田さん」

 この人は私の隣の部屋に住む坂田さん。もう七十歳くらいになるお婆さんだ。

 マンションって同じ建物に住んでる割にコミュニケーションが少ない。

 一軒家に住むご近所同士の井戸端会議とか、そういうのが本当にあるのか疑ってしまうくらいにマンションというのは冷たくて静かなのだ。

 でも、この人はそんな所に住んでいるのにも関わらず気さくに話しかけてくれる。

 遠いところに行った時にはお土産もくれたりするし。

 そういう付き合いをとても大切にする人なのだ。

 私も、どちらかと言えば挨拶をしないタイプの人間だったけど坂田さんに会ってから考え方が変わった。そして、気が付いたら自然と挨拶するようになった。

 だから、この人にはとても感謝しているのだ。

「今から学校かい? 大変だねぇ……」

「雨じゃなかったら、もう少し楽なんですけどね」

 そう言いながらエレベーターのボタンを押す。

「最近は頻繁に雨が降るからねぇ」

 少し待つとすぐにやって来た。

 ゴウンと言いながら開くエレベーターに二人して乗り込む。

「坂田さんは今からどこかにお出かけですか?」

 歳をとっているからだろう、その腰は深く折り曲がっている。だから、私が坂田さんと目を合わせて話そうとするといつも上から見下ろす感じになってしまう。それがなんだか妙に申し訳なくて、いつも少し目を逸らすのだ。

「いんや、ちょっと新聞を取りに行くだけだよ」

「あ、なるほど」

 マンションやアパートっていうのは一階の隅に纏めて投函口を設置していて、そこに新聞とかチラシとかを入れたりするんだけど。それは上の階の人間であればあるほど不便な物になってしまう。

 坂田さんみたいなお婆さんだと尚更だ。

 エレベーターがあるにしても毎日取りに行くのは大変だろう。

 手伝って上げたいのは山々なんだけど。やっぱりプライバシーだし、そういうのは大事にした方が良い気がする。

「それじゃ、いってらっしゃい」

 オートロックの前で別れる。

「はい、行ってきます」

「あ、ちょっと待った。これ、貰っておくれ」

「これは……?」

「水難のお守り。雨が多いから、事故に気を付けなさいね。それじゃ、今度こそ行ってらっしゃい」

「ありがとうございます! 行ってきます!」

 笑顔でしわくちゃな坂田さんに別れを告げて私はマンションを出た。

 外は相変わらずの土砂降り。

 家から見ていた時よりも少し強く感じる。私の頭上を覆うビニール傘も昨日より大きい音を奏でていた。

 これもたまにならいいんだけど、こう四日も連続で続けられちゃ趣もへったくれもない。

 コンクリートに溜まった水たまりを避けながら、風で向きの変わった雨粒に当たらないようにしながら少しフラフラとバランスをとりながら学校を目指す。

 普段なら駅前を通って行く方が近いのだけど、雨の日の人混みは大変まずい。

 それは初日で思い知った。

 だから、なるべく人の少ない細道を通っていく。

「本当に、今度合羽でも買ってこようかしら」

 家の中を探してみたものの、我が家に合羽は無かった。だから買ってくるしかない。しかし――

「もしかしたら、明日止むのかもしれないし……」

 そう考えるとちょっと勿体ない気がする。

 そんなに使う事なんてないし、大概の事は傘で済んでしまうし。

 なにより、雨の日に買い物なんて行きたくない。

 だから、今回だけの為に合羽を買うのはちょっと……。と、少し躊躇。

 それで、また明日に雨が降ったら買えば良かったと後悔して結局買わずじまい。

 そんなループ。

 わかってはいるのに抜けられない。それは結局、買う気がないからで。

「諦めてずぶぬれになれってことですか……」

 すでに靴下はびしょびしょ。

 風も吹いているせいでスカートの下の部分も若干濡れてきてしまっている。

 さすがに制服の替えはないから、これは我慢するしかないけど……。

 ああ、憂鬱だ……。



 学校内も雰囲気はドヨーンとしていた。

 連続した雨の影響で若干涼しいながらも湿気が増えて蒸してきているのは変わらない。

 外ならまだしも室内なら尚更だ。

 じわーっとやな汗が背中を流れる。

 今すぐ制汗スプレーを使いたいところだが、残念ながら今は授業中。

 ただ、ひたすらに時間が過ぎるのを待つしかない。

 こういう時の時間の進み具合の遅さと言ったら……。

 服が肌に纏わりついて気持ちが悪い。授業に集中することも出来やしない。それ が、さらに時間の感覚を狂わせる。

 私の斜め前でぐっすり寝ている武田君が羨ましい。

 どうしてそんな両腕を枕にする体制で寝れるの? それ、暑くない? 背中とかワイシャツがくっついて気持ち悪いでしょ?

 それを気にしないなんて……。

「……ん?」

 よく見たら下にシャツ着てる?

 ああ、それで汗を吸い取ってるわけだね。それはさぞ気持ちいい事だろう。

 女子には到底真似出来ない芸当だ。

 ああいう、ちょっとした自由が許されている分、夏は少しだけ男子に有利なのかもしれない。

 ……いや、長袖長ズボンの事を考えたら冬も男子のが有利か。

 こっちはスカートの下にジャージ履くのも禁止されてるし。

 まぁ、さすがにやらないけどね。

 いくら、私がそういうの気にしないって言っても限度がある。

 あれはダサい、うん。

 あんなの着て堂々と廊下を歩ける女子の度胸には感服するよ、ホント。

 とにかく、女子は全体的に気温に弱い。

 そこらへんをもう少し考慮して、新しい制服を作って貰いたいものだ。

「……と」

 変な事を考えている間に黒板には大量の計算式が。

 私の数学担当の教師は言葉で説明するよりも、どんどん文字を書いて教えるタイプの先生だ。

 それに加えて、授業のスピードが恐ろしく早い。

 書いたそばから消していく。少しでも目を話せばお終いだ。

 武田君なんかはもう完全に終了だろ。というか、本人もそれわかってて寝てるんだろうか。

 きっと、テスト前とかに大慌てするんだろうなぁ。

 そんなことを思いながら私も急いで黒板の文字を書き写す。

 先生も喋らずただひたすらに黒板にチョークを立てているので、教室内はとても静かだ。

 シャーペンの音とチョークの音、後は外から聞こえる雨粒の音。

 たまに、ひそひそと喋る声が聞こえてはいるけど、静かな事に変わりはない。

 これが冬だったら素晴らしい事なんだけど。

 ……ああ、だからか。

 皆も暑くてそんな気になれないのか。

 寒さとは逆に暑さは体力と活力を奪っていく。

 そんな教室に居る私達の思う事はきっと一つ。

 『早く冬にならないかなぁ(武田君除く)』



「やっと終わった」

 授業終了の鐘と共に先生が教室を後にした。

 長い長い数学の授業を終えた解放感に浸りながら机に頭をつける。

 あー……冷たい。

 木製の机は少しひんやりとしていて気持ちがいい。

 ただし、頭だけ。

 背中は未だに汗をやんわりとかき続け非常に気持ち悪い。

「スプレースプレーっと……」

 鞄の中から制汗スプレーを取り出す。

 幸いにも私は窓際の一番奥の席なので、スプレーによる他人への被害は少ない。

 制服の中にスプレーを入れてプッシュする。

「あー……気持ちいい」

 肌に噴霧された制汗スプレーが汗を冷やしていく。

 それがとても心地よくて、いつまでも続けていたい気分になるのだが、余り過剰に続けていると身体に悪いらしい。

 冷気に浸っていたい気持ちをぐっと堪え、スプレー缶を鞄の中に戻した。

「こーら」

 頭の上から嫌な声が聞こえる。

 見上げると、その声の主が私の机の前に立っていた。

「……なによ」

 一気に不機嫌モードに変わる。

 今の私を余り怒らせないで欲しい。せっかく冷えた身体がまた火照ってしまう。

「教室の中でスプレー使ったら他の人に迷惑だろ?」

「ちゃんと端っこで使ったし、そんな決まりは生徒手帳にも記されていないと思うけど?」

「ま、まぁ。それはそうなんだけど……」

 なんなんだ、こいつは。

 もう少し自分の言葉に自信持ちなさいよ。あんたの言っている事は間違いじゃないってのに。

 ……って、そんなことを言えた義理じゃないか。

「じゃあ、問題ないよね?」

「うん……」

 こいつは本当になんで私ばっかりに付きまとうのか。

 とぼとぼと帰っていく彼の後姿を眺めながらもう一度ため息を吐いた。

 あーあ、またスプレー使わないと。



「ふぅ……」

 そんなこんなで昼休み。

 昨日と同じく私は食堂で昼食をとる。

 そう、風景はいつもと同じ。

 昨日と同じように雨が降って、昨日と同じように一年生がパン争奪戦を繰り広げていて、そんな光景を見ながらカツ丼を食べていて。

 全く同じ。

「あれ? 和泉?」

 ……こいつさえ、いなければ。

 手にうどんの乗ったトレイを持ちながら、彼はこっちを見て笑顔で会釈した。

 そして、そのまま私の真向かいに座る。

「……なんで、ここで食べようとするのよ」

「せっかく知り合いがいるんだ。一緒に食べるのは当たり前の事じゃないか?」

「私はそうは思わないけどね」

「そうかなぁ……」

 そう言いながら首を傾げた後、特に気にする様子もなく、そのままうどんに手を付け始めた。

 だから、どっか行けっちゅーに!

 そう目で訴えてみるが、当の本人は爽やかな笑顔を返すだけ。

 駄目だ……。

 これは、もうどっか行ってくれるような雰囲気じゃない。口で言えば席を外してくれるだろうけど、それはそれで後味が悪い。

 私に残された手段はもう自分の世界に浸ってこいつを無視するだけだった。

 会話さえしなければ苛々することもない。

 そうだ、隔離するのよ。自分を。

「なぁ、和泉?」

「……」

 無視する。

「おーい?」

「………」

 無視する。

「和泉?」

「…………」

 無視する……。

「おーい、いず――」

「ああもう! うっさいわね! なによ!」

 無視出来なかった。

 というか、しつこすぎでしょう!

 こっちは話したくないのに!

「いや、全然反応ないからどうかしたのかと……」

「いいから、そういうの気にしてないでさっさと食べなさいよ」

「う、うん」

 ったく。

 もう、さっさと食べて教室に戻ろう。

 残ったカツ丼を思い切りがっつく。

「お、おい? そんなに一気に食べたら――」

「…ッ!? ゴホッゴホッ!!」

 気管に詰まらせて思い切りむせる。

 み、水を……。

「だから言ったのに……。ほら、これ」

 私がこうなるのを予め予測していたかのようにタイミングよく水を出してくれる。

「んっんっんっ……ぷはー」

 な、なんとか落ちついた。

 はぁ、死ぬかと思ったわ……。

「大丈夫か?」

「う、うん……。ありがと」

「全く、そんな一気に食べるからだよ。ゆっくり食べないと」

「それはあんたが……っ!」

「……?」

「なんでもない……」

 今回の事は私がいけない。これは、ただの責任転嫁だ。

 そう。だからこいつには罪はないのだ。うん……我慢だ我慢。

 言いたい事は山ほどあるが、とりあえず大人しく昼ご飯を食べる。

「はぁ……」

「どうしたの? ため息なんか吐いて」

「なんでもないわ、気にしないで」

 もう怒る気も失せてしまった。

 結局、ご飯を食べ終わったのは彼の方が早く、だというのに、私が食べ終わるまで待っていたものだから、最終的に一緒に帰る事になってしまった。

 私の貴重な孤独の時間が……。

 ……早く帰りたい。



 それから、時は流れて。

 暑苦しい教室での授業を終え、放課後。

 どうせ、止むはずなんてない。そう思いながらも何かに期待して校内を徘徊している。

 人が居なくなった廊下はとても寂しい。

 ざわめきが消え、無人となった教室。そんな中に一人で居るととても怖くなる。

 もしかしたら、私はここにずっと一人でいるんじゃないかと。

 あの時みたいに、私は誰かに置いて行かれてしまうんじゃないかと。

「そんなこと、ないのにね」

 わかってる。

 置いて行かれたんじゃないってことくらい。

 あれは、仕方のない事故だったんだ。

 そう。吹っ切れたんだ。私も、お母さんも。

 兄を轢いたドライバーさんは、今でも命日に足を運んで来てくれる。

 全面的にこっちが悪いというのに。

 それだけでも、報われてる。

 だというのに……。

 はぁ……。

 未だに雨を見ると思いだすし、変な気分になる。

 まるで、何かを忘れているかのような。

 とても、とても大切な何かを――

「……なんなんだろう」

 でも、思い出せない。

 それは、濁った沼の奥深くに沈んでしまって、私一人では取りだせない。

 何も見えない。

「……別の場所に行こう」

 この廊下を後にして、私は図書室へ向かう。

 ふと、窓から見上げた雲も、まるで何かを隠すように濁っていた。



「ただいまー」

 しばらく待ったものの、やっぱり雨は止まず諦めて帰って来た。

 結局、びしょぬれである。

「あーもう」

 靴と一緒にびしょびしょに濡れた靴下も脱ぐ。

 またこれ乾かさないとな。

 水の入った靴。

 脇に置いてある要らない新聞紙を下に敷きながら一緒にリビングまで持っていく。

 少しこなれた感じになってきてしまったのが凄い悔しい。

 そんなよくわからない悔しさを噛みしめながら、リビングに行くと――

「あら、和泉。遅かったわね」

 母親がソファーでくつろいでいた。

「あれ、お母さん? 仕事は?」

「今日は早番なのよ」

「ああ」

 そういえば、今朝居なかったもんな。

 ということは、今日はお母さんがご飯作ってくれるのか。

「あら、また濡らしちゃったの?」

「うん」

「本当に不器用ねー。どうやったら、そんな濡らすのよ」

「うーるーさーい」

 クスクスと笑うお母さんに横目で睨んでからドライヤーを取りだす。

 スイッチを入れ、靴の中に。

 大体これで十分。それだけあれば乾くはずだ。

「それじゃ、私はご飯の準備をしましょうかねー」

「あ、今ドライヤー使ってるんだからブレーカー落とさないようにしてよ?」

「わかってますって」

 ……本当にわかってんのかなぁ。

 プチン。

「へ?」

 瞬間、テレビも電気も、もちろん私が今使ってたドライヤーも全ての電気が息絶えた。

 そして、台所からは何か慌ててる声が。

「い、いずみ~。電子レンジ使ったらブレーカーが~」

「そんなの使ったら落ちるに決まってるでしょう!」

「と、とどかない~……」

 もう、しょうがないな……。

 洗面所の端に置いてある脚立を持って、台所へ戻る。

「ほら、ちょっとどいて」

 今が、夏場で良かった。これが、もし冬だったらとうに真っ暗になっていただろう。それはそれで面倒そうだ。

「よ……っと」

 ブレーカーを上げる。と、さっきまで息絶えていた全ての電化製品が活力を取り戻し、再稼働を始める。

 そのまま急いで戻ってドライヤーの電源を切った。

「これは後でやるからお母さん先にご飯作っちゃってよ」

「ごめんね~」

 両手を合わせて謝ってから台所に姿を消す。

「さて、と」

 やることなくなっちゃったな。

 まぁ、いつものことなんだけど。

 さっきまでお母さんが寝転がってたソファーにダイブして携帯を取り出す。

 チラッと付けっぱになっているテレビを見てみると今朝に引き続き土砂の報道。

 雨が止まない為に作業が進まないのだとか。

 そんな事をレポーターが語り、画面がスタジオに戻る。

「大変だねぇ……」

 他人事のように口を零して携帯のサイトに目を戻す。

 こっちでも、言っていることはほとんど同じ。

 雨による被害報告、愚痴。

 なんか、面白くなくなってきちゃった。

 みんなが違う世界を生きていて、その世界を見るのが好きだから日記をみているのに。

 全員が同じ世界を見ているんじゃ何の意味もない。

「本当に……早く雨止まないかなぁ」

 早く、私の日常を返して欲しい。

 だって、これが日常になるわけが無い。雨は、いつか止むものなのだから……。



「ごちそうさま」

「はい、おそまつさま」

 二人手を合わせて食への感謝。

「っていうか、今日も野菜炒めだったんだね」

 そして、早速の料理への愚痴。

 食材への感謝とは一体何だったのか。

「だって、楽なんだもん」

 食器を重ねながらお母さんはそう答えた。

 親子揃って考える事は同じらしい。

「楽したいなら冷凍食品でもいいじゃない」

「それは駄目。手作りだからこそ家庭は暖かく育っていくのよ」

「じゃあ、なんで買ってきてるの? 冷凍食品」

「見栄えがいいじゃない。冷凍庫開けた時に」

 どうやら、あの冷凍食品達は冷凍庫の中を彩る為だけに購入されてきたものらしい。

 ということは、使われる事など無いに等しい訳で。

「お母さんは自然界に土下座した方がいいと思う」

「なんで!?」

 食品は、食べるものです。

「それより、もうドライヤー使っていい? さっさと乾かして宿題やらないと」

「ん、いいわよー」

 食器を持って台所に消えるお母さんを見送った後に、私も椅子から立ち上がる。

 さっきの状態のまま放置されている自分の靴。

 あれから時間経ってるし少しは乾いてるかなと思っていたが、以前靴の中は濡れたまま。

 この調子じゃやはり自然乾燥は期待できない。

 ドライヤーをつけ直して、もう一度乾かす。

 靴の中で跳ね返った熱気がこちらに向かって返って来る。

 ただでさえ暑いってのに……。

 でも、まぁ湿気を含んでいないだけドライヤーの方が何倍もマシなんだけど。

「なんで、この国はこんな蒸した季節があるのかしら」

 どうせ、暑くなるならドライヤーみたいにカラッとした暑さになればいいのに。

 ……まぁ、そうなったらなったできっと文句言うか。

 人間とは欲に支配された動物なのだ。

「……まだやってる」

 靴ばかり見てても飽きて来るので乾くまでの暇つぶしにとテレビに目を移すと、さっきまでのニュース番組は終わり、また別の報道番組が始まっていた。

 今、始まったばかりなのか画面一杯にでかでかと「何故、雨は止まないのか。専門学者に聞いてみたSP!!」とタイトルが映し出されていた。

 普段なら、この時間帯はバラエティーをやっているはずなんだけど、どうやら特別番組が組まれてしまったようだ。

「そんなに、凄い事なんだ……」

 自然災害でこんな特番が組まれるのなんて滅多にないことだ。

 地震とか、そういう大きな被害になりかねないものだけだと思っていた。

 少しだけ、今の状態が危うい事なのだと認識する。

「……缶詰とか買っておいた方がいいかな」

 マンションでも上の階に住んでるし、床下浸水とかそういうのはありえないとは思うけど。

 何が起こるかわからないから自然災害は恐ろしいのだ。

 もしかしたら、私の知らないところでとんでもない事になっているのかもしれない。

 なんか、だんだん怖くなって来た。

 他人事のように見ていたテレビ番組に少し真剣に目を向ける。片手間で靴を乾かしながら。

 テレビの中の司会者が深刻そうな顔をしながらゲストで呼ばれた専門学者に話を聞く。

『単刀直入で聞きます。どうしてこうまで雨が降り続けているのでしょうか? そして、いつ雨は止むのでしょうか』

 それは多分、今テレビを見ている視聴者全員が気にしている問題のはずだ。

 私も少し身を乗り出す。

 理由が分からずとも、大体どのくらいで雨が止むかくらいは分かっているだろう。終わりの見えないマラソンもこれで終わり。

 しかし、その専門学者さんは少し答えにくそうにしている。解はあるが、それに自信がないようなそんな感じ。

 なんでそんな顔をするんだろ。

 ちなみに、これは生放送。その専門学者さんが口を開いてくれない限りいつまでも話が進むことはない。

『あ、あの?』

『……動いていないんです』

『……はい?』

『これを見て下さい』

 下からボードを取りだす。

 そこには、よく天気予報なんかで見かける天気図が描かれている。日本全体を覆うような雲。これも、普通によく見る光景だ。私のような素人目では何がそんな深刻なのか全くわからない。

『これは一番最初に雨が降り始めた時の天気図です。そして、これが――』

 また、もう一枚のボードを取りだす。

『昨日の天気図です』

 そこにも同じように日本を包み込むように雲が展開している。……うん、こっちも特におかしいところなんかないと思う。

 他のゲストも怪訝な顔で見つめる。

 他の人もわかっていないようだった。目で次の説明をするように求めていた。

『同じなんです』

 小さく、彼はそう言った。

 その時点で分かった人は果たして何人いただろうか。

 私は、わかった。

 わかってしまった。

 だからこそ、それがわかってしまった時、身震いが止まらなかった。

 鳥肌がたった。

 テレビの中のゲスト達の中にも理解した人がいたらしく驚愕を露わにしていたが、わからない人は「どういうこと?」と首を傾げていた。

 わからなくても無理はない。こんなこと、ありえないのだから。

 皆のざわめきが収まるのを待って、その人は説明を始めた。

『この写真とこの写真。これをそれぞれ重ねたものが、これです』

 スタジオの中央に設置された巨大なモニターにそれが映し出される。

 傍目には一枚だけの写真、そのように見えるがそうじゃない。

 日本以外、周りの国々に浮かんでいる雲は形も場所も、全く違う。

 ここだけ。この国だけが、覆われていた。

 スタジオはさらに混乱の渦に飲み込まれる。

『み、みなさん! 落ちついてください!』

 司会者である男性がなんとか場を静まらせようとするが、その本人さえも相当動揺しているのがわかる。

 結局、すぐにCMが流れ、その後は予め用意されていたのだろう、この雨による被害の映像が流れ始め、それが終わる頃にはスタジオから専門学者さんの姿は消えていた。



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