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偶然が生んだ贈り物

作者: 喬本 渉

 ぐんっ、と後ろから引っ張られたような気がした。

 それは本当に一瞬で、特に気にかけるようなことではないと思った。

 通り抜け参拝という名前のせいで余計に足を止める気にはならず、一歩進んだその瞬間。


「ぐえっ」


 情けない声をあげてしまった。

 何故か急に絞まったマフラーの首元を緩まるようにぐいぐいと引っ張った。だが一向に緩む気配はない。なんでだよ、もう。ひとりごちるが何も変わりやしない。

 それは本当に突然のこと。

 思わず、今が『通り抜け参拝』の真っ最中だということすらも忘れて足を止めた。人の流れが遣えることすら、一瞬にして頭から抜けてしまっていた。こんな急なことに対応できるほど、できた人間でもない。

 苦しさを緩和するために、首とマフラーの隙間に手を差し込んだ。これで少しは我慢できる。

後ろを振り返ると、同じように立ち止まっている青年が真後ろにいた。まだ若い――きっと高校生くらいだろう。背が高く、細身な彼はあまりにも近い距離で立っていた。振り返ってこちらが詰まる程度には。

 その青年のダッフルコートの腹部に視線を落とした。その釦に引っ掛かっているのは、明らかに自分のマフラーだった。毛羽立っていた水色の糸が幾重にも、というかぐちゃぐちゃに絡まっている。

 ――そういえば、さっき引いたおみくじ、凶やったわ。

 振り返ったことに気付いたらしい青年は慌てて頭を下げてくれた。


「大丈夫ですか。すみません、引っ掛かってもうたみたいで」


 顔を上げた彼を見て、思わず反応できなかった。

 あれ、けっこうなイケメンですね。

 そんなしょうもないことを考えながら、空いている片手を上げて笑顔を作った。


「いいえー、大丈夫です。取れそうですか?」


 いくつか年上だろう青年は見上げなければならないほどに背が高かった。自分が平均身長もないせいかもしれないが、それにしても高い。そして、端正な顔立ち――いわゆるイケメンだったりしたものだからこそ、少し驚いた。

 これって役得? とか考えてしまう自分はきっと馬鹿なのだろうと思う。

 細くて長い糸がぐちゃぐちゃに絡まってしまっているせいで、なかなか解けないらしい。青年は必死で解こうとしてくれていたけれど、やはり苦戦していた。


「うん……なあ、ちょっと端っこ寄ろか」


 これでは邪魔になると判断したらしい青年に手を引かれ、御堂の隅に移動した。

 『通り抜け参拝』というだけあって、人の流れは激しい。邪魔になっていたのは一目瞭然だった。一気に人が流れ出て、また同じだけの人が入って来た。

 せめても御堂の隅に寄ったことで、人の流れをせき止めることもないだろう。

 まあ、残る問題が重要で。

 青年の奮闘する手元を見た。どうやら毛糸はしっかりと絡まっているらしく、引っ張っても何をしても無意味なようだった。彼の指先が赤くなっていた。力と、糸が食い込んでいたのかもしれない。


「切るもの持ってませんか?」


 切るのは釦か、マフラーか。どちらを切るのか解りかねるが、この際さっさと解けてくれさえすればどちらでも良い。

 マフラーとはいえ、絡まっている部分は一番端っこについている飾りのびろびろした部分だけだった。もしそこを切ったとしても、さほど問題はない。見た目が多少不恰好になる程度の被害だ。

 しかし、切るもの。鋏。カッター。そういったものは普段使わないせいで、持ち歩きはしない。鞄の中に可能性はほとんど、ではなく確実にゼロだ。

 首を左右に振って、持っていないという旨を示した。リュックの中に入っているのはMP3プレイヤーと参考書、単語帳、筆箱。

 役に立たないリュックですみません、と内心で謝罪する。


「……うん、じゃあ千切るしかないなあ」


 困ったように眉を下げて笑い、青年が自分のコートの釦を勢いよく引っ張った。

 どうせならマフラー引っ張っていいのに。釦とか、取れたらあたしのやつより不恰好やん。

 そんなことを言うに言えず、ただ見守るだけである。しかし、どちらを引っ張るにしても頑固なこれは取れそうにない。少しだけ、微妙な沈黙が流れた。

 やっとコートの釦から視線を持ち上げた青年がまた苦笑いを零した。それから控え目に差し出される、未だマフラーが引っ掛かったままのコート。もちろん脱いだわけではなく、距離を詰められただけなのだが。

 イケメンに耐性がなく、じりじりと後退した。そんなことに気付いていないのか、気付いていて尚も距離を詰めたのか。

 意味を汲めずに首を傾げてしまったのは、致し方ないことじゃないのか。


「これ千切れますか?」

「えっ、あたしがですか!?」

「お願いします」


 いや、そんなんお願いされても!

 困る、と言えずに口を噤んだ。

 確かに目の前の青年は細い。体育会系でないことは一目瞭然で、申し訳ないが体育が得意そうなタイプには見えなかった。ひょろい、という言葉がぴったりな体格なのだ。

 きっと彼と比べてしまえば、あたしの方が力があるだろうと自分でも思う。

 ――でも、でもさ。

 それを実際にお願いされても困るのだ。こんなことで見込まれたって嬉しくない。当事者だからこそ手伝えという意味かもしれないが、そもそもどうしてこうなった。解せぬ。

 コートを差し出されたということは、またもや釦千切りということを示されているのだろう。その手段の中にマフラーを引っ張るという項目はないのか。

 さすがに、人のコートの釦を千切るなんて気が引けた。

 ましてや知り合いでもなんでもない、ついさっき初めて見た人のもの。

 しばし逡巡して、小さく息を漏らした。息が白くなるほど寒い。

 仕方なく引っ張ったのは、自分のマフラーだった。項目がないなら作ればいい。人様の釦を千切る度胸は皆無だ。

 力任せに引っ張った割に、マフラーは全く以って解ける様子はない。

 この水色め、頑固だな。


「くっ……」


 無理やけど! ってか、外れても何か虚しいけど!

 でも諦めたら帰れる気がしないので粘ってみるしかない。指が赤くなっても、細い糸が食い込んでも、解けるか千切れるまで粘るしかなかった。そうでもしないと、このくそ寒いところで立ち往生し続けなければならない。

 すると、強い願いが通じたかのように案外簡単にマフラーは解けてくれたのだ。するりと、思わず後ろに力が逃げてしまうくらい簡単に。

 ――どうせならお兄さんの時に解けて欲しかった……!

 頑固さは何処へやら。意図も簡単に解けたマフラーをまじまじと見つめる。千切れていないということは、本当に解けたのだ。青年は何もなかったコートの釦を、ただぼんやりと見て静止していた。

 何と間抜けな構図か。そんなことも考えられずに、二人してただ俯いていた。


「外れましたね、」


 先にポツリと呟くと、お兄さんは弾かれたように顔を上げた。そして漸く我に返ったように眉を下げた。


「ほんまですね、よかったです。すみませんでした」

「いえ、こちらこそ。じゃあ」


 もう用は済んだ。参拝も賽銭を投げ込み、散々拝んだ。

 さっさと踵を返せば「あっ」という彼の短い声。それとほぼ同時に、着ていたコートの袖口を掴まれていた。

 振り返れば、自分でも驚いているらしい青年の顔がはっきりと見えた。


「あの……受験生、やんな?」


 首を傾げたお兄さんが、そう言った。


「……なんで、」


 わかったんですか。

 そう聞こうとしたが、その言葉の続きは彼によって阻まれてしまった。


「リュック、いっぱいお守りぶら下がってるから。色んな神社のやつあるし」


 ベージュとブラウンという地味なツートンカラーのリュックにぶら下がっている、たくさんのお守り。それは大阪、奈良、京都と関西圏だけでなく、北海道のものまで幅広い。親や塾の先生が地元で買ってきてくれたものばかりだった。

 実力より少し背伸びをしたところを受けると決めたせいか、親や先生たちは神頼みもしておけとたくさんのお守りを揃えてくれたのだ。だからこそ、こうして時間を詰めて通り抜け参拝にまで顔を出したわけなのだが。

 その中の大阪天満宮と北野天満宮のお守りを指差して「俺も持ってる」と笑っていた。

 大阪天満宮のものはさっき付けたばかりの新品。それを見ながらお兄さんは思案顔をしていた。それからすぐに視線は持ち上げられた。


「……お詫び、にしたらシケてるけど、これどうぞ。御利益あるように祈ってます」

「え、ありがとうございます」


 手渡されたのは小さく折りたたまれた紙。似たような紙が、自分のコートの右ポケットに居座っているはずだ。そういえば、今年のそれは最悪だったと嫌なことを思い出す。

 彼はそれを手の中にそれを押し込めて、満足したようにスタスタと歩いて出て行ってしまった。その後ろ姿を見送って、とりあえずその場から抜け出した。

 もはや通り抜けじゃなくて普通の参拝になってもうた。

 ぼんやりと御堂を振り返る。だが、通り抜け参拝をできるのは一人一回。つまり、もう戻れないというわけで。まあ、散々祈ったわけだしもう良しとしておくしかない。

 ――そういえば、なんで引っかかってんやろ?

 理由を聞きそびれてしまった。あんなことは滅多にないはずなのに、よりにもよってあんな場所で絡まってしまった偶然。その偶然が起こった経緯を、もう知る由もなかった。

 そんなことを考えながら、手の中に押し込まれた紙を開いてみた。


「うわあ、大吉やん」


 自分とは正反対のおみくじ。書いてあることもいいことばかりだ。

 ちょっとだけ、運分けてもらったようなもんかな。

 その紙をまた綺麗に折りたたんで、ポケットに押し込んだ。無くさないように、ご利益があるように後で財布に入れて持ち歩こう。そう心に決めて。





 あれから数週間が経ち、財布に押し込んだおみくじのことも忘れて受験に挑んだ。


「うっそ、合格してるやん!」


 実力か、お守りか、あのおみくじのご利益だったのか。何にせよ、受かってよかった。その時はそう思うばかりだった。

 自分のおみくじは凶だった。学業の一文はいたたまれず、自信も削げるような内容。

 彼のおみくじは大吉だった。学業の一文は自信を持てるような、良い内容。

 ――少なからずご利益はあったのかもしれない。

 それに気付くのは、あれから少し経ってからのことだった。



                             【終】

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