1: どこまでも続く道
どこまでも広がる青天の下。
うねうねとうねりながら、一本の街道がまるで立ち昇っているかのように延々と続いていた。
一体この道はどこから伸びているのかすら、もう分からない。
整地されているとは、とても言えない茶色の道が、前後どこまでも続くばかりである。
そんな道の上を往く影があった。
地面に伸びる影は二つ。
前後街の影すら見えない果てない道を、その影の主達はのんびりと歩いていた。
いや。その内の一人は、この移動速度に関しては不満を抱いているらしい。連れに対して、何事か強い口調で非難している。
非難の声を挙げているのは、黒髪の男である。
大き目の布袋を紐で括り、背負うようにして担いでいる。
その右の腰には一本の剣が提げられており、鞘には家紋なのか、剣を形どったような紋様がある。
男は青年、というにはトウが立ちすぎている。
中年と言われても仕方の無い年齢だった。
一応、充実していると言えるだろう短めの髪の中には、いくつかの白が散見される。
それが理由であるのか、温和そうな顔立ちだが、どこか苦労人といった感じを受ける。
事実、彼は非常に苦労していた。
そんな彼に、増やしたくも無いだろう白色の髪を増やさせている要因は、今正に小言を言われながらも、どこ吹く風の様子でただ前方を見つめていた。
ただ、時折ピクリと眉が動いている所を見ると、まるっきり平静ともいえないらしい。
歳は、男の半分も達していない。
親子といっても通用する程の年齢差で、まだ少年と言うのが相応しい年齢だった。
服装は男と同じ簡素な旅人風のものだが、荷物らしきものは、両腰に提げている二本の剣だけなようである。
少年の容姿で特筆すべきはその双眸。
その力強い深い蒼色の瞳は、一目見たら誰しもが強く印象を残すに違いない。
力強く、覇気に溢れている。
しかし、その表情は純粋な少年というには少々、ふてぶてし過ぎた。
まるで、自分以外の全てを見下しているような、そんな表情にも見える。
ただ、顔立ちは整っている方だろう。
後、数年もすれば、さぞかし精悍な青年に成長するに違いない。
だが、強すぎる眼光と、地に在って輝くような金髪を、ぐしゃぐしゃに荒れ放題の有様にしている事が、その印象を感じにくいものにしていた。
「――――だから、私は何度も言ったでしょ!? あんな場所に繋いでいたら、そりゃあ盗んで下さいと言ってるようなもんです!!」
中年の男。セドリックの声が二人以外、誰も居ない街道に虚しく響く。
セドリックは少年が何か言う前に、再び言葉を重ねた。
「今、時世は決して安定しているという訳じゃないって事ぐらい、いくら坊ちゃんでも分かるでしょう!? それなのに、まさかあんな場所で馬を繋いでおくなんて……。盗まれて当然ですよっ! どうするんです!? 路銀も余分はありませんし、これからずっと歩きですよっ!? もうそれほど時間も無いのに! このままじゃ間に合いませんよ!? 大体坊ちゃんは…………」
セドリックの憤りは収まりをみせそうに無かったが、そこで中断を余儀なくされた。
それ以上の怒声が割り込んだからだ。
「やかましいっ!!」
黙って叱られ続ける事に耐えられなくなったのか、少年は瞬時に怒りの火を双眸に灯す。
右の腰に下げていた鉄剣を鞘ごと抜いて、それをセドリックの頭目掛けて振り下ろした。
「あいたっ」
少年を怒るのに夢中になっていたセドリックは、その攻撃に反応するのが遅れ、頭を強打される事になった。
頭を押さえ、そのまま地面に蹲る。
「グチグチグチグチと! 済んだことをイチイチうるせえんだよっ! それに大体アレは俺の所為じゃねえ! そうだ! お前がしっかりと見張ってねえから悪いんだろうがっ!!」
「ぬあっ!? 何を人の所為にしているんです!? アレはどう考えたって坊ちゃんが……」
「うるせえっ!!」
再び少年はセドリックの頭に剣を振り下ろす。
セドリックは突然の罪の擦り付けに唖然としていた為か、またもや防ぐ事に失敗し、強かに頭を打たれてしまった。再び悶絶する。
「い、痛い……ひ、酷いですよ坊ちゃん!!」
「うるせえうるせえ! 馬を盗まれた罰だと思え!!」
「酷い……。自警団の人にも最近窃盗が多いから気を付けてくださいって忠告されてたのに、あんな人通りの少ない路地裏に馬を繋いだのは坊ちゃんでしょ……? 私は何度も止めたのに、『ここでいいんだ!』って強引に……」
蹲り頭を撫で擦りながら、セドリックが弱々しく反論する。
二人が責任を押し付けあっている出来事は、つい一刻ほど前まで滞在していた町で起こったことだった。
ここまで二人が乗っていた漆黒の良血馬二頭を、何者かに盗まれてしまったのだ。
事の発端は、少年とセドリックが町に一軒だけあった食堂をすれ違った時。突然少年が”腹が減った”と騒ぎ出したことにあった。
丁度、昼頃のことである。
ただ、今朝は少年が寝坊した所為で遅めの朝食となっていたので、まさかもう空腹を訴えてくると思っていなかったセドリックは、唖然としながらも必死に馬を預けられる場所を探した。
少年には、空腹を我慢できるほどの忍耐がないのを分かっているのだ。
それを遮ろうものなら、その怒りは全て自分に向く。
怒り狂った少年ほど、性質の悪い存在はない事をよく知っているセドリックが、それを望むわけも無かった。
だが、突然言われても預けられる場所など見つかるわけも無く。
運悪く、道行く人も見当たらなかった。
どうしようか、と思案に暮れたセドリックを尻目に、少年は勝手に鞍から下りて、食堂横の細い路地の奥の建物の柱に、馬の手綱を結びつけてしまった。
こんな場所に繋いだら怒られるし、盗まれますよ、と必死にセドリックは説得した。
しかし、努力虚しく、少年に無理やり馬上から引き摺り下ろされてしまい、乗っていた馬は同じように勝手に柱に繋がれてしまった。
そのままセドリックは引きずられるようにして、店の中に連れていかれることになった。
戻って自分は見張っていようと考えたものの、店の奥から漂ってくる美味しそうな匂いを嗅いではそれも無理というものだった。
仕方なく昼食を終えて、再び戻った時には馬の姿は無く……。
まさか馬が噛み千切った訳であろう筈が無い。盗人の仕業だろう。
残っていたのは、柱に固く結ばれた手綱の切れ端だけだった。
当然慌てて必死に探した(セドリックのみ)ものの、結局馬達は見つからず、二人はここまで重宝してきた馬の足を失ってしまったのだった。
「……気立ての良い、娘だったのに…………」
シクシクと泣きながら、セドリックは可愛がっていた愛馬を想う。
もはや戻ってくる事は諦めているが、ただ馬の今後の幸せを祈っていた。
そんなセドリックを鬱陶しげに見つめて、
「俺が歩き疲れたら、お前おぶってけよ」
少年は更に鞭打つ言葉を吐いた。
セドリックの涙の水量が一層増した。
+++
それからは、暫く互いに無言で進んだ。
セドリックのみならず、流石に少年もこの先ずっと歩きということがどれ程辛い事なのか、身に染み始めたのだろう。
二人の目的地はまだ遥か彼方にあるというのに…………。
更に半刻経過した。
二人は相変らず、誰ともすれ違わずに街道を進んでいた。
今二人が歩いている街道の周囲は、背の高い樹々で囲まれており、ちょっとした林が両脇に広がっていた。
まだ昼をいくばくか過ぎた位だったが、高い樹に陽の光が遮られており、街道は樹の影で一面が覆われている。
ずっと歩いていた所為か、熱を持っていた体が、日陰のお陰で丁度いい具合に冷め始めた事に、内心喜んでいたセドリックに対して、
「……次の街には、いつ着くんだ?」
突然、少年が呟くように尋ねた。
隣を歩くセドリックは、疲労の篭った溜息を一つ吐いた後に答えた。
「次の街は、当分先になりますね。馬の足なら一日半って所だったでしょうけど……」
つい、皮肉気な調子が言葉に混じってしまうのは、無理からぬことだろう。
だが、セドリックは少年の瞳に不穏な光が宿り始めたのを見やって、慌てて言葉を続けた。
「た、ただ、小さな村がこの先に在るようです。恐らく歩きでも夜には着くんじゃないかと思いますが……」
「ふんっ。村か」
まるで蔑んでいるかのような呟きを漏らした少年だったが、本心では少しホッとしていた。
別に野宿が苦だという訳ではなかったが、それはそれとしてやはり寝床があるというのは体の休まり具合も違うというものだからだ。
少年のそうした口と本音の違いを重々把握しているセドリックは、特に何も言おうとせず、ただ怒りを回避できたらしいことに一安心していた。
そうして、再び静寂が訪れる。
元来、決して無口とは言えない、言い換えれば常時うるさい少年には珍しい事だった。
もしかすると、馬の事に関して、多少なりと良心の呵責があるのかもしれない。
セドリックはそんな事を一瞬考え――――直ぐにその考え一笑に伏した。
少年にそんな殊勝な感情があるのだとしたら、どんなに扱いやすく可愛い気のある事だろう。
結論から言うと、その読みは正しかった。
少年としては馬を盗まれた原因はセドリックにあると考えており、それが結論となっていた。
なので、良心などが揺さぶられよう筈も無かった。
寧ろ、自分が歩く羽目になった事に対する責任を取らせる為に、一体どんな罰を与えようかを考えていたのだった。
流石に、そこまで責任転嫁していようとは、夢にも思っていないセドリックは、どこからか微かに聞えてきた動物の鳴き声に俯き気味だった面を上げた。
ただし、どこから聞えてきたのかは特定できなかった。
鳥か? と空を見上げる。
そこに広がるのは染み一つ無い青空だった。
気のせいか、とセドリックが忘れようとした時――――
ヒヒン、と。
再び鳴き声が聞えてきた。
今度は間違いない。
しかも、どうやら馬のようだ。
「坊ちゃん。坊ちゃん」
セドリックは隣の少年に呼びかけた。
少年は何度目かの呼びかけで、ようやくセドリックに顔を向ける。
「何だ? 今いい所なんだ。邪魔をするな」
「なんですか、良い所って……。そんな事より、ほら坊ちゃん。馬のいななきが聞えませんか?」
「ああ?」
セドリックの促しに、少年は一旦思考を中断し、セドリックが指差す道の前方を眺めた。
耳を澄ます。
道は少し先から下り坂になっているようで、まだ姿は見えない。
しかし、確かに、その先から馬のいななきらしき声が聞えてきた。
ここいらは、野生の馬が生息しているような場所ではない。
貴族か、商人か。
判断はつかないが、人間が操る馬の声に違いない。
「なるほど」
「ね? 聞えるでしょ?」
「ああ。助かったぜ」
「そうですね……もしかしたら、この先の村まで連れて行って貰えるやもしれません」
セドリックは希望を言葉にする。
そうなれば、夜まで歩き通しにならなくて済む。
少年も当然喜ぶと思ったセドリックだったが、少年はあからさまに不服そうな表情になって言った。
「連れて行って貰えるかも……じゃねえ。連れて行かせるんだ」
もし断った場合は……などと言いながら、少年は右の腰にぶら下がっている剣を抜こうとする。
「わあぁぁ!? 何をするつもりですか! 絶対暴力は駄目ですよ!?」
セドリックは少年の進行方向に立ちふさがるようにして、両手を左右に振りながら慌てて少年の暴走を止めようとした。
そんなセドリックを暫くジッと睨んだ後、
「冗談だ」
と、少年は言いながら剣を再び収めた。
冗談、と言うものの、少年の目の奥は至極真剣だった。
セドリックの額を、一筋の汗が流れ落ちる。
(坊ちゃんは……きっとやる……)
セドリックは確信していた。
少年に常識など通用しない。力ずくでも馬の主に協力させようとするだろう。
(何としてでも止めねば……)
その時は命懸けになるであろうことを、セドリックは嫌がおうにも理解していた。
馬のいななきが聞えてきた先。
下り坂を登りきった何者かが、二人の方に小走りで近づいてくる。
その人物の身なりから、平民である事が分かる。
体にくくりつける様にして、多くの荷物を持っている様からすると、商人なのかもしれない。
セドリックは隣人に対して警戒を続けていた所為か、その人物に気付くのが少し遅れてしまった。
その為、先に少年の傍若無人な質問を許してしまう事になった。
「おい。お前。何でそんなに慌ててるんだ?」
商人はどうみてもセドリックと同年代か、それ以上の年齢の男性である。
年上の人間に対しての言葉遣いではない。
本来であれば、随分年下の少年にそんな台詞を吐かれたのであれば、よほど人が出来ていない限り、不快な感情を抱く事は免れないだろう。
そのことで、これまでどれほど無用の騒動に巻き込まれる事になったか数えきれない。
今回こそはそうならないように、慌てて横から口を挟もうとしたセドリックだったが、どうやらその心配は杞憂に終わりそうだった。
少年が尋ねたように、商人と思われる男は何故か非常に動揺しており、寧ろ少年に取り縋ってきたからだ。
「は、はぁ。はぁはぁ……」
ただ、商人は少年の足を掴んだまま地面に崩れ落ち、荒い息を繰り返すだけだった。
この様子からすると、何か重大な問題でも起きたのかもしれない。
男はそこから逃げて来たのだと思われた。
「……た、た、助けてくれっ!」
男は乱した呼吸を必死に整えて、少年の顔を見上げて救いを求めてきた。
我を忘れているらしい。
でなければ、年下の少年ではなく、セドリックにこそ助けを請うたことだろう。
そのまま、まるで抱きつくように少年に乞い縋る。
そんな男に対して――――
「鬱陶しい!」
罵声一言、少年は男の手を強引に振り解いた。
「あうっ」
その反動で男は地面に倒れ込む。
「ぼ、坊ちゃん。乱暴は駄目ですよっ」
「うるせえ」
セドリックが慌てて駆け寄り、男の体を助け起した。
「どうしました? そんなに慌てて」
「あ、あ、あ……あの。こ、この先に魔物が……。突然襲われて……。それで仲間が……。皆やられて、必死で私は……」
男の説明は支離滅裂で要領を得なかったが、辛抱強くセドリックは話を聞いて、ようやく理解に及んだ。
どうやら、仲間内の商人で徒党を組んで街へ行商に向かっていたが、突然魔物に襲われて仲間が次々に襲われてしまった、という事だった。
「ふんっ。で、てめえは仲間を助けようとせず、商売道具だけ持って逃げてきたのか」
「……そ、それは」
確かに突然襲われて逃げるのに必死だったという話の割りに、男の荷物は多い。
少年はそれを指摘しているのであった。
男も自分でも困惑しているのか、答えに臆していた。
荷物を手放さなかったのは、欲を発したのではなく、無意識下の行動だったようだ。
もしかすると、商人の性なのかもしれない。
セドリックはそう考えた為、明らかに軽蔑の眼差しを向けていた少年を宥めた。
「まぁまぁ。この方も必死だったんでしょう」
一息吐いて、セドリックは少年に提案する――――
「それより、坊ちゃん。魔物が居るのならこれ以上先に進むのは危険…………」
が、セドリックが言い終わる前に、少年は右手で左腰の剣を抜いていた。
思惑を悟ったセドリックは、慌てて少年を止めようとする。
「ぼ、坊ちゃん。馬鹿な真似はよしましょうよ!? 危ないですから、一旦私達も下がりましょ!?」
「へっへっへ。丁度いい。馬を盗まれた鬱憤。そいつらで晴らしてやるぜっ!」
少年はまるで聞く耳を持たない。
挙句、
「おいっ。その魔物はこの先にいるのかっ!?」
と、まだ動揺収まらない男に尋ね同意を得ると、そのまま歓喜の声を上げながら走り出した。
セドリックが止めるのも聞かずに、坂の向こうに消えていく。
「坊ちゃん! 坊ちゃんっ!! ……全く、もうっ!」
セドリックも男から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
少年が向かった以上、自分がそれに同行しない訳にはいかないからだ。
それがセドリックの役目でもあったし、何より――――
「……はぁ。私は行きたくは無いんですが、行かなかったら後で酷い目に合わされますからね……」
セドリックは自分を見つめてきた男に対して、どんよりとした顔で告げると、
「坊ちゃん! 待ってください! 坊ちゃん!!」
などと叫びながら、少年の後を追って走り出した。
ただ一人、その場に残された商人の男は、ぼんやりとセドリックの後姿を見届けていた。
どうすれば良いのか少し迷っていたが、やがて立ち上がると再び走り始めた。
無論、魔物の居ない方向へと。
確かに仲間も心配だった。
しかし、仲間といっても前の街で行動を共にすることになったばかりの、浅い関係の者達に過ぎない。 まだ恩の貸し借りなど無いし、自分が命を掛ける必要性など全く感じなかった。
とは言え顔見知りが、魔物に殺られることを考えると、多少夢見は悪いが……言ってしまえばそれだけだった。
ただ――――
商人達と一緒に行動していた、ある二人の安否だけは多少なりとも気になった。
馬車の中で、最も自分と親しくしていた二人だったからだ。
「…………」
男は目を閉じて胸に手を当て、運命を司る神に祈った。
少しして目を開けると、もうそれらの存在を忘れてしまったかの様に、走り出したのだった。