悪役令嬢は、嘘だけはつかない
1 わたくし、正直ですの
紅茶が、ぬるい。
ヴィオレッタ・ド・アルヴェールはカップを口元まで運び、一口も飲まずに受け皿へ戻した。磁器の触れ合う音が、朝の食堂に硬く落ちる。
「ミレーユ」
「はい、お嬢様」
背後に控えていた侍女が、すべるように前へ出た。膝を折る角度も、伏せた睫毛の位置も、教本のように正しい。
その内側で、赤黒い色が渦を巻いていた。
――このクソ女。またなにか難癖をつける気だ。
声が、聞こえる。唇は動いていない。動くはずもない。それは彼女が心の底に沈めたはずの言葉で、けれどヴィオレッタには、口に出されたものと寸分違わぬ明瞭さで届いていた。
物心ついたときからそうだった。人の本心が、色と声で視える。母の慈愛の下に沈む嫌悪も、父の威厳の下で震える保身も、司祭の祈りの下でうごめく金勘定も、ヴィオレッタは6歳になる前に見尽くしていた。
だから彼女は、この世に善人がいないことを知っている。
「お前、いらないわ」
「……は」
ミレーユの顔から表情が落ちた。赤黒い渦が、一瞬で凍りつく。
「今日限りで結構よ。荷物をまとめて出ておいき」
「お嬢様、あの、わたくし、何か粗相を」
「紅茶がぬるかったの」
沈黙が落ちた。長テーブルの端で控えていた執事の背が、ほんのわずかに強張るのが視える。灰色の諦念。またか、という色。
「……それだけの、ことで」
「ええ。それだけのことよ」
ヴィオレッタは笑った。心底、楽しそうに。
「勘違いしないでちょうだい。お前の淹れた茶がぬるかったから解雇するのではないわ。お前を解雇したかったから、茶がぬるいことにしたの」
ミレーユの心が、破裂するように赤く濁った。憎悪。純度の高い、混じり気のない憎悪。ああ、いい色だ、とヴィオレッタは思う。取り繕う前の人間は、いつだって正直で美しい。
「わたくし、性格が悪いんですの」
彼女は立ち上がり、ドレスの裾を払った。
「ですから、嘘だけはつきませんわ」
◇
その日の午後、王城の庭園で茶会が開かれた。
白い円卓が芝生の上に7つ。集まった令嬢たちは扇の陰で微笑み合い、ヴィオレッタが通るたびに道を空けた。
――来たわ、悪魔が。
――どうか目を合わせませんように。
――どうしてあんな女が公爵令嬢なのかしら。
色とりどりの、けれど中身は一様に濁った声。ヴィオレッタは優雅に会釈を返しながら歩く。誰も彼も、口では「ごきげんよう」と言う。心では別のことを言う。この世界はそういう仕組みで回っている。
東の円卓で、細い肩がびくりと跳ねた。
マリアンヌ・ド・ロシェ。子爵家の令嬢。淡い色の髪をした、小柄な娘だった。
ヴィオレッタは迷わずそちらへ向かった。
「まあ、マリアンヌ様。そのお召し物」
「……ヴィオレッタ様。ごきげん、よう」
「昨年の夜会でも、それでしたわね」
同じ卓の令嬢たちが、扇の陰で息を殺した。誰も止めない。止める理由がない。この場で公爵令嬢に逆らえる人間はいない。
「わたくし、お前が嫌いですの」
ヴィオレッタははっきりと言った。声を落としもしなかった。
「その怯えた目が。何を言われても謝る癖が。嫌いで嫌いで仕方ありませんわ」
マリアンヌの目が潤んだ。心の色は、薄い水色。恐怖と、羞恥と、そのどちらよりも大きな諦め。
――どうして。わたくしが何をしたの。
何もしていない、とヴィオレッタは思う。だからだ。この娘は何もしていないのに存在しているだけで人を苛立たせる才能がある。そういう人間がこの世にはいる。
周囲の卓から、無数の声が届いた。
――かわいそうに。
――でも、次はわたくしかもしれない。
――誰か止めればいいのに。
誰も止めなかった。同情の色は全員が持っていて、行動は誰も起こさない。
いつものことだ。
「ごきげんよう」
ヴィオレッタは満足して、その場を離れた。
◇
円卓の向こうに、見慣れぬ娘がいた。
平民の出だという聖女。教会が発見し、王家が召し上げた癒やしの奇跡の持ち主。名をセシリアといった。栗色の髪に、鹿のような目。粗末とは言わないまでも、この場では明らかに格の落ちるドレスを着て、それでも臆した様子がない。
ヴィオレッタは足を止めた。
――出た。悪役令嬢ヴィオレッタ・ド・アルヴェール。実物、めっちゃ顔がいい。というか怖い。
……なんですって?
言葉遣いが、違った。
この国の言葉ではあった。意味は通る。だが響きが違う。抑揚が違う。まるで別の国、別の時代から流れ込んできたような、耳慣れない平坦さ。
――えーと、確か第一段階が毒殺未遂で、次がドレス破りで、それから階段。断罪イベントは冬の建国祭。うん、覚えてる。大丈夫、私は知ってる。
「……ごきげんよう、聖女殿」
ヴィオレッタは微笑んだ。完璧に、優雅に。
「ごきげんよう、ヴィオレッタ様」
セシリアも微笑み返す。その心の色は、聖女の名にはおよそ似つかわしくない、鈍く粘つく緑だった。
2 遊びの規則
その夜、ヴィオレッタは自室の窓辺で長いこと立っていた。
あの娘は、未来を知っている。
それは疑いようがなかった。断片的に流れ込んできた声のなかに、まだ起きていない出来事の名が並んでいた。毒殺未遂。ドレス破り。階段。そして冬の建国祭での断罪。
誰が誰を毒殺し、誰が誰を階段から突き落とすのか。そんなことは考えるまでもない。この国で「断罪される側」に用意された椅子は、ずっと前から自分のものと決まっている。
面白い、と思った。
嫌悪でも恐怖でもなかった。ヴィオレッタは自分の破滅にさして興味がない。彼女が興味を持ったのは、もっと別のところだった。
――あの娘は、未来がそのとおりになると信じている。
なら。
そのとおりにならなかったら、あの娘はどんな顔をするだろう。
ヴィオレッタは声を上げて笑った。侍女が扉の外でびくりと立ちすくむ気配がしたが、どうでもよかった。
毒を盛らなければいい。ドレスを裂かなければいい。階段から突き落とさなければいい。
簡単なことだ。もともと彼女は、そこまで手間のかかることをする気もなかった。人を追い詰めるのに毒など要らない。言葉で足りる。
未来を知る女が、未来どおりにならない世界に置き去りにされる。それを特等席で眺められる。
それだけの理由で、ヴィオレッタは決めた。
◇
ただし、ひとつ厄介なことがある。
ヴィオレッタは羽根ペンを取り、羊皮紙に線を引いた。
――わたくしの目は、証拠にならない。
これは幼いころに学んだことだった。8歳の年、屋敷の銀器が消えたとき、彼女は犯人を即座に言い当てた。庭師の心が、盗んだ夜のことを大声で喚いていたからだ。
だが誰も信じなかった。父ですら信じなかった。「証拠は」と問われて、彼女は何も出せなかった。庭師は無実を主張し、代わりに別の下働きが疑われて追い出された。
人の中身が視えることと、それを他人に納得させることは、まったく別の技術だ。
だから今回も、セシリアの心を読んだところで何の役にも立たない。「あの娘は未来を知っております」と訴えたところで、正気を疑われて終わる。
必要なのは、外から見える形にすることだった。
ヴィオレッタは羊皮紙に3つの見出しを書いた。毒。衣。階段。
その下に、空欄を作る。日付。時刻。同席者。
――何もしないだけでは足りない。何もしていないところを、大勢に見せなければ。
彼女はゆっくりと微笑んだ。
不在は、それ自体では無だ。無を証拠に変えるには、目撃者が要る。しかも、格の高い目撃者が。国王。王妃。大臣。この国で誰も嘘つき呼ばわりできない者たち。
3度。3度とも、疑いようのない場所にいればいい。
1度なら偶然。2度なら奇遇。3度なら――それはもう、相手のほうが説明を求められる番になる。
インクが乾くのを待ちながら、ヴィオレッタは笑い続けていた。
◇
「珍しいな。君が自分から呼び出すとは」
王城の東棟、使われていない音楽室で、アルベール王子は窓枠に寄りかかっていた。
金の髪、青の瞳、完璧な微笑。国中の令嬢が夢に見る第一王子。
その内側は、氷点下だった。
――さて。何を企んでいる。使えるなら使う。使えないなら切る。
温度のない、計算だけの色。ヴィオレッタが知る限り、この男の心が一度でも熱を持ったところを見たことがない。
「聖女殿を、どうお思いですの」
「有能な駒だ。教会が握っている以上、王家としては手元に置きたい」
「まあ、正直ですのね」
「君相手に取り繕っても仕方がないだろう」
ヴィオレッタは目を細めた。
この男は、気づいている。確信はない。だが、ヴィオレッタが人の中身を覗いているらしいということに、彼だけは早くから察しをつけていた。だからこの男は、ヴィオレッタの前でだけ嘘の量を減らす。
「殿下」
「なんだ」
「わたくし、しばらく大人しくいたしますわ」
アルベールの眉が、わずかに上がった。氷の中に、初めて小さな渦が生まれる。興味、という色。
「理由を聞いても?」
「聖女殿が、わたくしの罪を予言なさっているようですの」
「それは剣呑だな」
「ええ。ですから、予言どおりにして差し上げるのは、あまりに芸がないでしょう?」
ヴィオレッタは笑った。
「未来を知っている方が、未来どおりにならないのを見るのは、さぞ面白いでしょうねえ」
アルベールは長いこと彼女を見ていた。それから、初めて温度のある声で言った。
「君は私を怖がらないな」
「殿下の中身、まあまあ醜いですもの。わたくしと大差ありませんわ」
「……なるほど」
彼は笑った。氷が、ほんの一片だけ溶けた。
3 不作為
秋が来ても、何も起きなかった。
当たり前だ。ヴィオレッタが何もしていないのだから。
彼女は毎朝、東の温室で一人で本を読んだ。昔からそうしている。人の中身が視える娘にとって、誰もいない場所というのは、この世で唯一静かな場所だった。昼は父の代理で書類に目を通し、夜は退屈な夜会に出て、退屈な令嬢たちに退屈な嫌味を言った。それだけだ。
毒も、刃も、階段も、彼女の日常には一度も現れなかった。
変わっていったのは、聖女のほうだった。
◇
「ヴィオレッタ様。今日は、ずいぶんご機嫌がよろしいのですね」
9月の回廊で、セシリアが行く手を塞いだ。
「そう見えます?」
「わたくしのような平民が王城にいるのは、さぞ目障りでしょう」
――ほら、怒って。いつもみたいに罵って。
心の声が、露骨に急いでいた。
「まあ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「目障りですわ。心の底から」
セシリアの顔が輝いた。
「ですけれど、それだけですの。ごきげんよう」
輝きが凍った。
――え。
ヴィオレッタは横を通り過ぎた。振り返らなかった。背中に叩きつけられる焦りの色だけで、十分に楽しかった。
◇
挑発は、それから何度も続いた。
紅茶をヴィオレッタのドレスにこぼしてみせたときも、ヴィオレッタは「よろしくてよ」と言っただけだった。王子との会話に割り込んできたときも、席を譲って下がった。教会の集まりで公然と「悪しき心を持つ者がおります」と説教されたときも、拍手をして「まことに」と応じた。
何も起きない。
何ひとつ、起きない。
◇
10月の半ば、ヴィオレッタは礼拝堂の裏でその瞬間を視た。
セシリアが柱に背を預け、両手で顔を覆っていた。
――どうして。どうして何も起きないの。
――このままだと断罪イベントが来ない。断罪が来なかったら、私は。
――ただの、平民のままだ。
――教会に飼われて、王家に使われて、それで終わる。
黄色が、暗く沈殿していく。ヴィオレッタは息を殺して、その色が変わりきるまで待った。
――違う。順番が狂ってるだけ。あの女がやらないなら。
――筋書きどおりにするために、私がやるしかない。
ああ、とヴィオレッタは思った。
落ちた。
◇
11月に入ると、セシリアの動きが変わった。
まず、侍女が一人替わった。ミレーユ。ヴィオレッタが紅茶の温度を理由に叩き出した、あの娘だった。
「お嬢様。ミレーユが、聖女様のお付きに入っております」
執事が書斎の扉の内側で低く言ったとき、ヴィオレッタは羽根ペンを置かなかった。
「知っているわ」
「……よろしいのですか」
「あら、あの子。まだ生きていたのね」
執事の心が、灰色に沈むのが視えた。
構わなかった。ヴィオレッタはあの侍女を憎んでいない。哀れんでもいない。ただ、あのとき解雇するのが面白かった。それだけだ。その結果として彼女が敵陣に流れ着いたことに、なんの感慨も湧かない。
◇
次に、セシリアはマリアンヌに近づいた。
夕暮れの回廊で、ヴィオレッタは柱の陰から、聖女が小柄な令嬢の手を取っているのを見ていた。
「マリアンヌ様、でしたね。お噂は聞いております。……あんなひどい仕打ちを受けて、よく耐えていらっしゃること」
マリアンヌの心が、明るい桃色に染まるのがわかった。生まれて初めて味方ができた娘の色だ。
「あの方のこと、少し教えてくださいませんか。怖くて。備えておきたいのです」
「は、はい。何なりと」
「ヴィオレッタ様は、どんな日課を?」
「朝は東の温室で、お一人で本をお読みになります」
「お一人で。……何時ごろまで?」
「9つの鐘までは、たいてい」
「侍女もつけずに?」
「はい。人を近づけるのがお嫌いで」
――よし。
セシリアの心の声を、ヴィオレッタは無感動に聞いていた。
――あの女が一人になる時間帯、これで全部押さえた。
なるほど、とヴィオレッタは思った。
この娘は、わたくしが襲ってくる時刻を訊いていない。わたくしに証人がいない時刻を訊いている。
怯えている人間が知りたがるのは、加害者がいつ自分に近づくかだ。この娘が知りたがっているのは、正反対のことだった。
ヴィオレッタは自室に戻り、羊皮紙の空欄を眺めた。日付。時刻。同席者。
あとは簡単な算術だった。あの娘が「わたくしが一人になる」と思っている時刻に、この国でいちばん身分の高い人間を隣に置いておけばいい。
翌朝から、ヴィオレッタは温室での読書をやめた。
代わりに、朝の時間を人の中に沈めた。父の政務室。王妃の私室。大臣たちの控えの間。生涯でいちばん静かな時間を手放して、生涯でいちばんうるさい場所へ移した。頭の中は他人の本音で鳴りっぱなしになり、3日目には吐き気がした。
構わない、と彼女は思った。
わたくしが一人になる時刻を、この世から消してしまえばいい。
◇
当然、セシリアは気づいた。
12月の初め、回廊ですれ違ったとき、彼女の心が刺々しい音を立てた。
――温室に来ない。政務室にこもってる。なんで。
――まさか、気づかれてる?
――いや。ないない。あの女は原作でも最後まで気づかない女だし。
ヴィオレッタは会釈をして通り過ぎた。
――大丈夫。証人がいたって関係ない。私は聖女で、あの女は悪役令嬢なんだから。
――みんな、私の言うことを信じる。
なるほど、とヴィオレッタは思った。
この娘は、事実で勝とうとしていない。役柄で勝とうとしている。
ならば、なおのこと結構ですわ。
◇
毒は、11月の終わりに盛られた。
その日、ヴィオレッタは茶会の席にいなかった。父に頼み込んで、国王陛下の御前に召し出される用件を作らせたのだ。玉座の間で、彼女は3人の大臣と国王の目の前で、たっぷり2時間を過ごした。
そのあいだに、セシリアは倒れた。
茶に毒が入っていた。微量で、命に別状はなく、ただ苦しむのに十分な量。
翌日、ヴィオレッタは見舞いに訪れた。
寝台に横たわる聖女は、青ざめた顔で微笑んだ。
「お加減はいかが?」
「おかげさまで。……ヴィオレッタ様は、昨日はどちらに?」
「陛下の御前におりましたわ。父の領地の水利の件で、たっぷり2時間ほど」
セシリアの心が、軋んだ。
――陛下。
――そんな。あの時刻は温室にいるはずだった。誰にも見られていないはずだった。
――どうして、よりによって陛下の前に。
焦りではあった。だがそれは、被害者の焦りではなかった。罠を仕掛けた側が、獲物の足跡だけが別の方向へ伸びているのを見つけたときの色だった。
「おいたわしいこと」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「どうかお大事になさって。……ああ、次はお気をつけあそばせ。何か嫌な予感でもなさったら、遠慮なくおっしゃってくださいまし。皆で守って差し上げますわ」
言いながら、彼女は思っていた。
おっしゃいな。おっしゃれば、それは記録に残る。
「……ありがとうございます」
セシリアはそう答えた。そして数日後、教会の記録に「聖女、公爵令嬢による害意を予感すると証言」の一行が刻まれた。
◇
ドレスが裂けたのは、それから3週間後の夜会でだった。
その夜、ヴィオレッタは大広間の中央から一歩も動かなかった。
シャンデリアの真下。40人以上の目が届く位置。彼女はそこで、王妃陛下と歓談していた。侍女を下がらせ、扇すら持たず、両手を人前に晒したまま、1時間半。
王妃は不思議そうに言った。
「ヴィオレッタ。あなた、今宵はやけに大人しいこと」
「近ごろ、心を入れ替えましたの」
「まあ。信じてよろしいのかしら」
「いいえ、まったく」
王妃が声を上げて笑った。その心の色は、意外にもさほど濁っていない。この方はわたくしのこういうところが好きなのだ、とヴィオレッタは知っている。宮廷で誰も本音を言わないから、たまに毒を吐く小娘が珍しいのだろう。
悲鳴が上がったのは、東の控えの間からだった。
セシリアのドレスが、背から腰にかけて裂けていた。侍女に支えられて広間の入口に現れた彼女は、蒼白な顔で人垣を見渡し――そして、シャンデリアの真下に立つヴィオレッタを見つけた。
その瞬間の心の色を、ヴィオレッタは生涯忘れないだろうと思った。
――また。
――また、あの女には見ている人がいる。
――なんで。なんで毎回そうなるの。私が動く日だけ、どうして。
「まあ、大変」
ヴィオレッタは声を張った。広間中に届くように。
「聖女殿、また災難ですのね。これで2度目でございましょう?」
◇
階段は、初雪の日だった。
ヴィオレッタは別棟にいた。王城の図書室で、老司書と2人きり。3時間、写本の目録を繰っていた。
目録に用などなかった。彼女は3時間、意味のない頁をめくり続け、司書に何度も話しかけ、時計の鐘が鳴るたびに「もうそんな時刻ですのね」と口に出した。老人の記憶に、時刻を刻みつけるために。
セシリアは大階段から落ちた。足首を折り、7日ほど動けなくなった。
骨を折ってまで筋書きに戻ろうとしたのか、とヴィオレッタは思った。
その執念だけは、少し好ましかった。
◇
3度目のあと、宮廷の空気が変わった。
最初は誰もが「またヴィオレッタ様が」と囁いた。だが3度目ともなると、囁きの中身が変わってくる。
――おかしくないか。あの方は毎回、はっきりした場所におられた。
――しかも聖女様は、毎回その前から『狙われる』と仰っていたそうだ。
――なぜ避けなかったのだろう。
人の心は面白い、とヴィオレッタは思う。悪意を向けるのに理由は要らないが、悪意を撤回するには理由が要る。3という数は、その理由になる。
4 断罪
建国祭の夜、王城の大広間には、国中の貴族が集まっていた。
楽団が最後の一節を弾き終えたとき、セシリアが中央に進み出た。
「皆さま、お聞きください!」
声が、天井の高みまで届いた。ざわめきが引いていく。
「わたくしは、3度、命を狙われました。毒を盛られ、衣を裂かれ、階段から落とされました。すべて――ヴィオレッタ・ド・アルヴェール様の手によるものです!」
悲鳴のような息が広間を走った。
ヴィオレッタは、シャンパングラスを持ったまま、少しも動かなかった。
――やっと。やっとこれで元に戻る。
セシリアの心が、久しぶりに晴れやかな色をしていた。
「ヴィオレッタ様、否定なさいますか?」
「いいえ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「否定などいたしませんわ。わたくし、性格が悪いんですもの。侍女を気まぐれで解雇いたしますし、マリアンヌ様のことも心の底から嫌っておりますわ。今この場でも、何人か殴りたい方がおりますの」
どよめきが起きた。
「ですけれど」
彼女はグラスを従僕に預けた。
「毒を盛った日、わたくしはどこにおりましたかしら?」
沈黙。
ヴィオレッタは広間をゆっくりと見回した。誰も答えない。答えを持っている者はいる。ただ、公爵令嬢のために口を開く度胸がないだけだ。
「どなたか、覚えていらっしゃらない?」
それから、上座で国王が咳払いをした。
「……余の前におった。大臣3名と共にな」
ざわめき。
「ドレスが裂けた夜は?」
「わたくしと話しておりました」
王妃の声だった。
「1時間半。シャンデリアの下から一歩も動かず、手を隠すこともなく」
ざわめきが、大きくなる。
「階段の日は、司書のトマ殿が」
「――図書室に、3時間」
広間の隅から、震える声が上がった。
セシリアの顔が、白くなっていく。
「そんな……だって、そんなの、たまたま」
「3度とも?」
凛と響いたのは、アルベールの声だった。
彼は静かに前へ出た。完璧な微笑を保ったまま、その内側は、ヴィオレッタの目にはこう視えている。――使える。この女を切る。
「聖女殿。ひとつ、お尋ねしたい」
「……はい」
「あなたは3度とも、事が起きる前から『ヴィオレッタ嬢が自分を害するだろう』と周囲に語っておられた。教会の記録にも残っている。違いますか」
「……違いません」
「では」
王子は首を傾げた。
「なぜ、一度も防がなかったのですか」
空気が、止まった。
「毒が入ると知っていながら、なぜその茶を飲んだ。階段が危ういと知っていながら、なぜそこを通った。あなたには奇跡を起こす力がある。人を癒やす力がある。それほどの方が、3度、自ら罠に踏み込んだ」
「それは、わたくしは、ただ」
「知っていて防がなかったのか」
アルベールの声は、優しかった。
「それとも、あなたが仕組んだのか」
二択しかない。ヴィオレッタは心の中で拍手を送った。この男は本当に、人を追い詰めるのが上手い。
「わ、わたくしは被害者です! 皆さま、どうか!」
セシリアは広間を見回した。同情を求めて。かつて彼女に癒やされた者たちの顔を探して。
セシリアは追い詰められた獣の目で、広間を見回した。
ヴィオレッタには視えていた。彼女の心の中で、いくつもの選択肢が浮かんでは消えている。否定する。泣く。倒れてみせる。そのどれもが、この場の空気に届かないことを、彼女自身がもう理解している。
そして、最後に残るひとつ。
――誰か、身代わり。
ああ、とヴィオレッタは思った。この娘は必ずそうする。この娘の心の色は、初めて会った日からずっと、他人を階段の下に置いておく色だった。
ヴィオレッタは、ほんの少しだけ背中を押してやることにした。
「聖女殿。よろしければ、当夜あなたのお側におられた方のお名前を挙げてくださいまし。その方々にお尋ねすれば、はっきりいたしますでしょう」
セシリアの顔が、跳ねるように上がった。
「――侍女です」
言ってしまった、とその心が悲鳴を上げるより早く、口が動いていた。
「わたくしの侍女が、勝手にやったのです! わたくしはずっと、あの女に振り回されて……あの子が、ヴィオレッタ様を恨んでいたから」
衣擦れの音が、広間の後方で止まった。
ミレーユが、そこに立っていた。
ヴィオレッタは、その心の色が一瞬で反転するのを見た。忠誠でも、恐怖でも、後悔でもない。もっと単純で、もっと汚いもの。
――売られた。
――この女、わたしを売った。
「勝手に、でございますか」
ミレーユの声は、震えてはいなかった。
「聖女様。わたくしが、勝手にやったと」
「そうよ! だってあなたが」
「毒の量をお決めになったのは、あなた様でございます」
悲鳴が上がった。
「『死んでしまっては意味がない、3日苦しむ程度に』と。わたくしは薬師の名も知りませんでした。書付をくださったのは、あなた様です。あれは今も、わたくしの部屋にございます」
ミレーユは階を下り、床に膝をついた。もはや逃げる気がないのだ、とヴィオレッタは知った。この女は自分が助かることを諦め、その代わりに、セシリアを道連れにすることを選んだ。
いい判断だ、と思った。自分でもそうする。
「衣を裂いたのも、階段で背を押したのも、わたくしでございます。すべて、聖女様のご指示に従いました」
「嘘よ! この子はヴィオレッタ様に買収されて――」
「まあ」
ヴィオレッタが小首を傾げた。
「わたくし、この子を気まぐれで馘首にした女ですのよ。買収などされてくれるものですか」
どっと笑いが起きた。悪意のこもった、獣のような笑いだった。
「階段のとき」
ミレーユが、静かに続けた。
「聖女様は『軽く押すだけでいい』と仰いました。骨が折れる音がいたしました。それでも聖女様は、笑っておられました。……あの音を聞いてなお笑える方に、わたくしは仕えておりました」
◇
それでも、セシリアはまだ立っていた。
「侍女の証言ではありませんか。使用人の言葉が、聖女の言葉より重いと仰るのですか」
広間が、わずかに揺れた。それは事実だった。この国では、使用人の証言は貴族の証言に劣る。1人では足りない。
そのとき、人垣が割れた。
マリアンヌ・ド・ロシェ。子爵家の令嬢。ヴィオレッタに幾度となく嘲笑され、扇で指され、涙を流してきた娘。
――来た。
ヴィオレッタは扇の陰で口の端を上げた。この娘を今夜の招待客に加えるよう根回しをしたのは、他ならぬ自分だった。
マリアンヌは震えていた。それでも、はっきりと言った。
「初雪の前に、聖女様はわたくしに、幾度もお尋ねになりました」
セシリアの顔から、色が引いた。
「ヴィオレッタ様の日課を。朝、どこにおられるか。何時までか。……そして、そのとき侍女がついているかどうかを」
沈黙。
「わたくしは、お答えしました。あの方が温室に一人でおられることも、鐘が9つ鳴るまで人を近づけないことも、全部」
彼女は顔を上げた。目が真っ赤だった。
「けれど、あの3度とも――ヴィオレッタ様は、一人ではございませんでした。だからでしょうか。聖女様は、二度とわたくしにお声をかけてくださらなくなりました」
ざわめきが、うねりに変わった。
アルベールが、静かに言葉を置いた。
「命を狙われていると感じている者が、真っ先に知りたがるのは、相手が自分に近づく時刻だ。……相手が一人になる時刻ではない」
マリアンヌが、床に向かって言った。
「ヴィオレッタ様は、わたくしに面と向かって『お前が嫌いだ』と仰いました。聖女様は、わたくしの手を取って『あなたが好き』と仰いました」
彼女は深く、深く頭を下げた。
「わたくしは今でも、ヴィオレッタ様が大嫌いでございます。……ですが、わたくしを笑い者にした方より、わたくしを道具にした方のほうが、許せませんの」
ヴィオレッタは、その心の色を読んだ。
感謝でも、正義でもない。真新しい、燃えるような屈辱だった。生まれて初めて誰かに優しくされたと思ったものが、全部利用のためだったと知った娘の色。
結構、とヴィオレッタは思う。
その醜さのほうが、よほど信用に足る。
「だってこの世界は――!」
セシリアが叫んだ。
ヴィオレッタは、そこで初めて動いた。
扇を開き、たった一歩、前に出る。それだけで、セシリアの言葉は喉の奥で潰れた。
「おっしゃいな」
ヴィオレッタは囁くように言った。
「続きを。この世界は、なんですの?」
セシリアの唇が震える。言えば言うほど、自分が未来を知っていた証明になる。知っていたなら、なぜ防がなかったのかに戻る。彼女の武器は、そのまま彼女の枷だった。
「あなた、未来をご存じだったのでしょう?」
ヴィオレッタは、この夜いちばん美しく微笑んだ。
「ならそれ、予言とは申しませんのよ。――計画と申しますの」
セシリアの膝が落ちた。
衛兵が両脇に立つ。教会から派遣されていた司祭たちは、一斉に彼女から3歩離れた。あれほど彼女を「聖女」と呼んでいた口が、今はもう別の言葉を選び始めている。
――切り離せ。教会の傷になる。
――代わりの聖女を立てればいい。
ヴィオレッタは、その色をひとつ残らず読み取って、心底愉快に思った。ほら、ごらんなさい。この世に善人などいない。
引き立てられていくとき、セシリアが最後に振り返った。
「……あなたは、悪役なのに」
「ええ」
ヴィオレッタは頷いた。
「悪役ですわ、正真正銘の。ですけれど――お前に殺されてやる義理は、どこにもございませんの」
扉が閉まる音がした。
広間に、ためらいがちな拍手が起きた。やがてそれは大きな波になり、天井を揺らした。誰も彼もが、たった今まで彼女を悪魔と呼んでいた口で、彼女を讃えていた。
ヴィオレッタは微笑んで、優雅に礼をした。
――くだらない、と思いながら。
5 共犯
バルコニーの空気は、身を切るように冷たかった。
広間の喧噪は扉一枚を隔てて遠く、雪がゆっくり降りている。
「見事だった」
アルベールが隣に立った。
「殿下のお膳立てでしょう」
「膳を並べたのは君だ。私は蓋を取っただけだよ」
彼はグラスを傾け、それから言った。
「君は、人の中身が視えるのだろう」
ヴィオレッタは答えなかった。
「6歳の君が、私が善人でないことを一目で見抜いた日から、ずっとそう思っていた。……否定しないんだな」
「わたくし、嘘だけはつきませんの」
「知っている」
アルベールは笑った。
「ヴィオレッタ嬢。私と結婚してほしい」
雪が、音もなく降り続けている。
「愛の告白には聞こえませんわね」
「愛ではない。取引だ」
彼は正面から彼女を見た。氷点下の目で、けれど今度は隠すこともなく。
「私は嘘をつく。生涯つき続ける。王とはそういうものだ。だが、隣に一人だけ、私の嘘を見抜ける人間がいたほうがいい。私が本当に道を誤ったとき、遠慮なく『醜い』と言う人間が」
「わたくし、性格が悪いですわよ」
「知っている」
「反省もいたしませんわ。ミレーユを解雇したのは、あの子が有能でなかったからでも、危険だったからでもありません。ただ、面白かったからですの。結果として敵に回ったのは、単なる偶然」
「知っている」
「マリアンヌ様のことも、今でも嫌いですし」
「知っているとも」
「あの方がわたくしを庇ってくださったのは、正義でも情でもございませんわ。あの方はただ、嘘をつく人間が心底恐ろしいだけ。わたくしを選んだのではなく、聖女殿を選ばなかっただけですの」
「それでも君は救われた」
「ええ。ですから、なおのこと腹が立ちますわ」
アルベールが声を上げて笑った。白い息が、雪の中に消えていく。
「君は、誰にも感謝しないんだな」
「感謝は嘘の一種ですもの。心にないことを申し上げるくらいなら、黙っておりますわ」
アルベールは手を差し出した。
「だから頼んでいる。善人が欲しいなら、そこらの修道院にいくらでもいる。私が欲しいのは、私と同じくらい醜くて、それを隠さない人間だ」
ヴィオレッタは、その手を見下ろした。
彼の心の色は、相変わらず冷たい。計算と、打算と、王という職務への諦めで塗り固められている。愛など一片もない。
けれど、そこに嘘もなかった。
この世界で初めて、彼女に向かって差し出された、取り繕われていない手だった。
6歳の年から、ヴィオレッタは人の中身を見続けてきた。母の笑顔の下も、父の抱擁の下も、乳母の子守唄の下も、全部覗いてしまった。だから彼女は誰のことも信じない代わりに、誰のことも責めなかった。人間とはそういうものだと知っていた。
ただ一度だけ、疲れたと思ったことがある。
どうしてこの世の全員が、隠さねばならないほど醜いものを抱えて、それでも美しいふりをして笑っていられるのか。
いま、目の前の男は笑っていない。
「殿下」
「なんだ」
「わたくし、あなたを愛してはおりませんわ」
「奇遇だな。私もだ」
「そのうち好きになるかもしれませんわね」
「その日が来たら、教えてくれ」
「嘘はつきませんもの。必ず申し上げますわ」
「ああ。だから頼んでいる」
「ええ」
ヴィオレッタは手を重ねた。
「お受けしますわ。――だって、あなたも同じ穴の狢でしょう?」
アルベールが笑った。ヴィオレッタも笑った。
バルコニーの下、庭園に降る雪は白く、どこまでも清らかで、そのことは、この2人にはなんの関係もなかった。
(了)
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