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婚約者が腹黒い支援生の子を孕んだので、衆人環視の中で婚約破棄して千億円の財産を取り戻してやった!

作者: 熾星
掲載日:2026/06/24

 


 1.忘年会での裏切り


 婚約者が、会社の忘年会で妊娠を発表した。

 会場中の同僚がグラスを掲げ、俺に祝いの言葉を向けてきた。けれど俺だけは知っていた。彼女はもう三年、俺に触れさせていない。彼女はかつて、神崎ホールディングスに入って十年を迎え、さらに栄和グループの大型案件を成功させたら、俺を企画部長に昇進させ、正式に式を挙げて、結婚の手続きも済ませると言った。

 俺は信じた。


 その約束のために、俺は百六十五日を削った。企画書に半分以上の命を注ぎ込んだと言ってもよかった。なのに彼女は最後、すべての功績を、自分が長年支援してきた若い男に渡した。


 その男こそ、彼女の腹の子の父親だった。

 神崎ホールディングスの忘年会は、東京・港区の高級ホテルで開かれた。最上階の宴会場は眩しいほどの照明に包まれ、落地窓の外には東京湾の夜景が広がっていた。招かれた歌手のステージが終わったばかりで、会場には拍手と笑い声が混ざり合い、まるで勝利を先取りして祝う宴のようだった。


 神崎ホールディングスの常務取締役である神崎綾乃が壇上に上がると、全員の視線が彼女に集まった。シャンパン色のドレスをまとった彼女は、完璧に化粧を整え、抑えきれない笑みを口元に浮かべていた。声まで、いつもより高く弾んでいる。


「今回、栄和グループの都市再開発プロジェクトを獲得できたのは、すべて瀬戸蒼真の努力によるものです。よって会社は、彼を東都プロジェクト企画統括責任者に抜擢します」


 その言葉が落ちた瞬間、宴会場には雷のような拍手が湧き起こった。

 俺の手が大きく震えた。グラスの中の赤ワインが白いテーブルクロスにこぼれ、血のようにじわじわと広がっていく。


「瀬戸君って、卒業してまだ二年だよな。そんな若さでこの成果か。すごいな」


「神崎常務が直々に支援していた子らしいぞ。やっぱり見る目があるよな」


「顔も俳優みたいだし、常務に気に入られるのもわかるわ。若いって武器だよな」


 最後の一言を口にした同僚は、意味ありげに俺を一瞥した。

 俺は何も言わなかった。


 百六十五日前、神崎綾乃は栄和グループの資料を自ら俺の手に渡した。あの時、彼女は俺のオフィスの落地窓の前に立っていた。陽の光が肩に差し、十年前、初めて俺に手を差し伸べた時と同じように、やわらかく笑っていた。


「悠真、この案件を取れたら、あなたを企画部長にする」


「その時は、私たちも式を挙げましょう。こんなに長く待たせたのは、私が悪かったから」


 俺は覚えている。

 その時の俺には、疑うという考えすらなかった。

 あの期間、俺はほとんど毎日会社で寝泊まりしていた。企画書は何度も作り直し、議事録、入札資料、予算モデル、リスク対策、重要な骨組みはすべて俺が組み上げた。ひどい時には


 会議室で過労のあまり倒れ、目を覚ましてからは片頭痛まで残った。

 では、瀬戸蒼真はどうだったのか。


 彼は毎回、打ち合わせの場に顔を出し、資料を数枚配り、栄和グループの担当者に笑いかけただけだった。それ以外のことは何もしていない。プロジェクトの最重要承認ポイントさえ、彼はまともに説明できない。


 それなのに今、神崎綾乃は全員の前で、俺が命を削って得た成果を、彼に差し出した。

 こめかみがずきずきと痛んだ。胃の奥から吐き気がこみ上げてくる。俺は震える手でグラスを取り、残っていたワインを一気に飲み干した。少しでも自分の顔色の悪さを隠したかった。


 壇上ではまた軽やかな歌が始まり、誰もが手拍子をし、騒ぎ、グラスを掲げていた。けれど俺だけは見ていた。神崎綾乃が壇を降りた途端、瀬戸蒼真が待ちきれないように近づき、彼女の腰に手を回したことを。


 次の瞬間、二人は薄暗い隅で口づけを交わした。

 その光景は、あまりにも見覚えがあった。


 何年も前、彼女は大勢の前で同じように俺に口づけたことがある。俺の首に腕を回し、俺を疑うすべての人間に向かって、これは私が選んだ男だ、誰にも見下させないと言った。

 今、彼女は同じやり方で、別の男が自分のものだと示していた。

 神崎綾乃は、俺の視線に気づいたらしい。


 彼女は顔を上げ、賑やかな人波の向こうから俺と目を合わせた。ほんの短い硬直のあと、彼女は笑って瀬戸蒼真を押しやり、携帯をいじり始めた。

 すぐに俺の携帯が震えた。


 画面には、彼女からのメッセージが表示されていた。


【蒼真は生い立ちがかわいそうで、まだ若いの。今回は成長するための機会が必要だったから、私が彼に渡しただけ。安心して。私が愛しているのは、今でもあなたよ】


 俺はその文面を見つめ、ふと笑いそうになった。

 彼女は知っていたはずだ。このプロジェクトに、俺がどれほど心血を注いだか。俺がどれほど人前で証明したかったか。佐伯悠真は、神崎綾乃に頼らなければ神崎ホールディングスに残れない男ではないと。

 それなのに彼女は、俺がいちばん認められたいと願ったその日に、俺を泥の中へ踏みつけた。



 2.彼女は昔の優しさを別の男に与えた


 一曲が終わると、神崎綾乃はグラスを手に、俺たちのテーブルへ向かってきた。

 化粧は直していた。けれど唇の端には、つい先ほど口づけられた痕がまだ残っているように見えた。瀬戸蒼真はその後ろについてきた。口元には得意げな笑みがあり、その目は、本来自分のものではない勝利を手に入れたばかりのように輝いていた。


 俺たちのテーブルには企画部の人間が集まっていた。常務取締役がこちらへ来たのだから、皆が立ち上がって迎えるのは当然だった。笑い声とお世辞が、たちまち彼女を取り囲んだ。


「神崎常務、今日はますますお綺麗ですね。何か秘訣でもあるんですか?」


 そう言ったのは神崎遥香だった。企画部の副部長であり、神崎綾乃の従妹でもある。

 彼女は笑いながら、俺と瀬戸蒼真の間に視線を往復させた。彼女は昔からそういう女だった。はっきり言葉にしなくても、何を匂わせているのかを周囲に理解させることができる。


 当時、俺と神崎綾乃の関係を最初に周囲へ広めたのも彼女だった。

 それを知った神崎政宗は、怒り狂ってその場で俺を東京から追い出そうとした。落ちぶれた旧家の遺児である俺など、神崎家の令嬢に釣り合うはずがないと考えていたからだ。あの時、神崎綾乃が命を賭けるように抵抗していなければ、俺はとっくに神崎ホールディングスから消されていただろう。

 神崎遥香はグラスを揺らし、さらに遠慮のない笑みを浮かべた。


「常務、最近ずいぶんお肌の調子がいいですね。もしかして、近くに若い男がいるからですか?」


「やめなさい。あなたは本当に余計なことばかり言うわね」


 神崎綾乃は怒るどころか、笑いながら軽くたしなめただけだった。

 しかしすぐに表情を引き締め、俺たちのテーブルにいる全員を見回した。


「これから蒼真は、東都プロジェクトの統括責任者になります。彼は若いですが、能力はあります。あなたたちが会社に何年いようと、年功を笠に着て彼を困らせたり、指示に従わなかったりすることは許しません」


 言い終えたあと、彼女はわざわざ俺を見た。

 その目には、はっきりとした警告があった。

 俺はふと、十年前のことを思い出した。神崎ホールディングスに入ったばかりの頃、俺もまた、周囲から奇異の目で見られていた。あの時、俺の前に立ち、鋭い声で悪意を遮ったのは彼女だった。


「佐伯悠真は私の人間です」


「彼には本物の実力がある。誰にも見下させません」


 その言葉を、俺は十年も覚えていた。

 けれど今、彼女は同じ庇護を別の男に与え、その刃を俺に向けている。

 垂らしたままの手が、少しずつ握りしめられていく。呼吸が浅くなり、周囲の空気が少しずつ薄くなっていくようだった。視界の灯りも滲み始めた。

 その時、瀬戸蒼真がふいに口を開いた。


「神崎常務、その心配は不要です。皆さん、とても付き合いやすい方ばかりですから。そうですよね、佐伯さん?」


 彼はわざと、人前で俺に答えを求めた。

 若い瞳の奥に、隠しきれない挑発があった。


 七年前、彼は学業を諦めようとしていた高校生だった。唯一の身内だった祖父が病死し、身寄りも金もなく、福祉施設の支援対象者リストに入っていた。神崎綾乃は数ある候補の中から彼を選び、学費を出し、東京の大学へ進ませた。

 大学に合格してから、神崎綾乃は毎週のように彼を自宅へ招いた。彼女は俺に料理を作らせ、温かい食卓を用意させた。あの子に家庭のぬくもりを感じさせたいのだと言って。

 そのたびに、瀬戸蒼真は食卓に座り、はにかんだように笑っていた。


「佐伯さんって、本当にいい人ですね」


「本当の兄さんみたいです」


 なるほど。

 彼の言う兄とは、こういう末路をたどるものなのか。

 功績を奪われる。

 女を奪われる。

 そして人前で、彼の勝利を認めさせられる。


「悠真。蒼真があなたに聞いているのよ」


 神崎綾乃の怒りを含んだ声が、俺を記憶の中から引き戻した。


「そんなふうに黙っていては失礼でしょう。皆が見ているのよ」


 宴会場には、俺を哀れむ目もあれば、嘲る目もあった。面白がっている目もあった。

 そんな視線には慣れていた。

 両親が相次いで亡くなってから、俺はそういう目を数え切れないほど見てきた。以前は神崎綾乃が隣にいてくれたから、他人の目など気にならなかった。けれど今、俺を人前で辱めているのは、ほかでもない彼女だった。


 この世界で、かつて唯一俺を愛してくれた人さえ、もう俺の味方ではない。

 俺は急に、誰もいない場所へ行って、声を上げて泣きたくなった。

 俺が答えないでいると、瀬戸蒼真が先に口を開いた。まるで俺をかばう、物分かりのいい後輩のような声だった。


「大丈夫です、神崎常務。佐伯さんは今日は体調が悪いだけだと思います。僕は気にしません。これからも皆さんと一緒に仕事をしていくのですから、僕も先輩方からたくさん学ばせていただきます」


 その言葉が終わるや否や、神崎遥香がすぐにグラスを掲げた。


「さあさあ、今日はめでたい日なんですから、皆で瀬戸統括に乾杯しましょう。これから東都プロジェクトは、彼に引っ張ってもらうんですから」


 皆が一斉に同調し、瀬戸蒼真の昇進を祝った。若くして有望だ、将来が楽しみだと口々に褒めたたえる。

 人の輪の中に立つ神崎綾乃の顔には、珍しくやわらかな笑みが浮かんでいた。その一瞬、彼女は会社で冷徹に采配を振るう常務取締役ではなく、幸せに浸る一人の女のように見えた。


「皆さんは飲んでください。私はやめておきます」


 彼女は小腹に手を当てた。声には隠しきれない甘さが滲んでいた。


「私、妊娠三か月なんです。お酒は飲めませんから」


 その一言は、宴会場に爆弾を投げ込んだようなものだった。

 短い静寂のあと、周囲はたちまち歓声と拍手に包まれた。


「神崎常務、おめでとうございます!」


「すごい、二重のお祝いですね!」


 中には、わざと俺へ振り返ってグラスを掲げる同僚もいた。その顔には、あからさまな嘲笑が浮かんでいた。


「佐伯さん、おめでとうございます。お父さんになるんですね」


 俺はその場に立ち尽くした。雷に打たれたように、全身の血が一瞬で逆流する。

 神崎綾乃は、三年も俺に触れさせていない。

 彼女は言っていた。俺ではその気になれないと。無理にするくらいなら、互いに静かにしていたほうがいいと。

 ならば、その子は俺の子ではない。

 瀬戸蒼真はグラスを取り、一気に飲み干した。


「神崎常務の分は、僕が代わりに飲みます。今日はめでたい日ですから、皆さん、とことん楽しみましょう」


 そう言いながら、彼の大きな手は自然に神崎綾乃の腰へ置かれた。二人はほとんど身を寄せ合うようにして小声で話していた。言葉などなくても、関係は十分に伝わった。

 その光景は、重い拳のように人前で俺の顔面に叩きつけられた。

 同時に、全員の心に浮かんでいた不堪な推測を、決定的なものにした。


「お前たち……」


 俺はもう耐えきれず、飛び出して二人を力任せに引き離した。

 けれど怒りが頭のてっぺんまで上った瞬間、激しいめまいに襲われた。目の前が暗くなり、体の力が抜け、その場に崩れ落ちた。

 意識が霞む直前、神崎綾乃の嫌悪に満ちた声が聞こえた。


「こんな時に発作なんて、縁起でもない」


 その瞬間、俺は崖の縁に立っているような気がした。

 かつて俺を救った光が、人波をかき分けて近づいてくる。そしてその手で、俺を深淵へ蹴り落とした。



 3.俺はようやく彼女から離れると決めた


 目を覚ました時、宴会場の喧騒は遠くなっていた。

 俺はホテルの休憩室のソファに横たわっていた。重いまぶたをこじ開けた瞬間、最初にしたことは、やはり神崎綾乃の姿を探すことだった。

 けれど彼女はいなかった。

 部屋には企画部の同僚が一人いるだけだった。彼は俺に白湯を注ぎ、憐れむような目でこちらを見ていた。


「佐伯さん、いろいろあると思いますけど……少しは割り切ったほうがいいですよ」


 俺はカップを受け取った。指先は痺れ、声は掠れていた。


「ありがとう。大丈夫だ」


 実際には、倒れる前、俺は神崎綾乃の声をぼんやり聞いていた。


「いい年した男が気絶したふりなんて。放っておきなさい。好きにさせればいいわ」


 瀬戸蒼真は横で笑っていた。


「佐伯さん、体弱すぎませんか。すぐ倒れるし。だから、あっちのほうも……」


 最後の言葉は、彼が神崎綾乃にだけ聞こえるように低く言った。

 だが神崎綾乃は笑った。


「あなたのほうがずっと上手よ。これで満足?」


「満足です」


 記憶が少しずつ戻るにつれ、俺の指はゆっくりとカップを握りしめていた。縁が小さくきしむほどだった。

 その同僚はしばらく迷ったあと、低い声で言った。


「でも佐伯さん、栄和グループのプロジェクトは、どう見てもあなたが取ったものですよ。神崎常務は……」


 部外者にもわかる不公平を、神崎綾乃が知らないはずがない。

 彼女は知っている。

 知ったうえで、あえてそうした。


 俺に命を削らせ、瀬戸蒼真に成果だけを受け取らせ、そして皆の前で俺にそれを飲み込ませる。彼女は確信していたのだ。俺が彼女を愛していて、彼女から離れられず、本気で逆らうことなどできないと。

 けれど彼女は知らない。

 人の心は無限ではない。

 何度も踏み砕かれれば、いつか完全に死ぬ。


 翌日、俺は病院で精密検査を受けた。

 医師は、大小さまざまな不調があると言った。どれも長期の過労が原因だった。片頭痛、貧血、胃の炎症、睡眠障害。どれも命に関わるほどではないが、この数年、俺が神崎ホールディングスと神崎綾乃のためにどれだけ自分をすり減らしてきたのかを、はっきり示していた。

 医師は三日間の入院観察を勧めた。


 その三日間、神崎綾乃から電話は一本もなかった。

 けれど俺の携帯は静かではなかった。


 瀬戸蒼真が、何度も写真を送ってきた。写真の中では、神崎綾乃が彼と一緒にスーツを選び、ネクタイを選び、腕時計を試させ、さらには下着まで丁寧に選んでいた。

 俺は写真を拡大した。彼女の顔には、見慣れたやさしい笑みが浮かんでいた。

 かつて、彼女がいちばん好んでいたのは、俺を銀座の店へ連れていき、服を選ぶことだった。古いスーツを着ることも、適当に自分を扱うことも許さなかった。彼女は、私の男は私だけが整えるべきだと言っていた。


「私の男は、私だけが手をかけるの」


 あの頃、俺は自分がこの世でいちばん幸せな男だと思っていた。

 けれど彼女の言う唯一の偏愛は、十年も経たないうちに、そっくり別の男へ移すことができるものだった。


 三日後、俺はタクシーで長年同棲してきたマンションへ戻った。

 扉を開けた瞬間、リビングの床に男女の服が散らばっているのが見えた。その服は玄関から寝室の前まで続いていた。ようやく抑え込んだ怒りが、胸の奥で一気に燃え上がる。

 寝室から、低く押し殺した言い争いが聞こえてきた。


「姉さん、本当に来月、あいつと式を挙げるの?」


「式は挙げるわ。十年前に、そう約束したもの」


「俺は嫌だ」


「騒がないで。栄和グループのあれだけ大きな案件よ。三年、五年では決済まで終わらない。途中で案の調整が入れば、結局あの人にやらせるしかないの」


「じゃあ、俺にはどう償ってくれるの?」


「あなたの子を産む。それでも足りない?」


「足りない」


「なら、新しいプロジェクト会社の収益権を二十パーセント渡すわ。だから騒がないで」


「俺が金目当てであんたといると思ってるの?」


「そんなわけないでしょう。あなたは一番素直で、私をわかってくれるもの」


 その先の声は、だんだん聞くに堪えないものになっていった。

 俺は扉の前に立ったまま、踏み込んで不倫の現場を押さえる勇気さえ失っていた。

 臆病だったからではない。

 その瞬間、ただ吐き気がした。

 かつて俺が家だと思っていた場所は、とっくに二人に汚されていた。

 俺は惨めに背を向け、エレベーターへ走り、マンションの屋上へ向かった。


 屋上の風は冷たかった。

 俺はそこに座り、煙草を一本、また一本と吸った。向かいのビルは、俺が十六歳の時、父が飛び降りた場所だった。二十一歳の時、死にかけた母を背負って、一日中座っていた場所でもある。


 今、俺は三十一歳になった。

 かつて俺の人生を照らしてくれた光も、ついに消えた。

 父さんと母さんに会いたかった。

 どれほど時間が経ったのか、自分でもわからない。やがて俺は震える足で立ち上がり、ずっと前から登録していた番号へ電話をかけた。


「藤原会長。栄和グループのプロジェクトを持って、そちらへ行きます」


 電話の向こうは、数秒だけ沈黙した。


「佐伯君、ようやく決心したか」


「はい」


 俺は東京の夜景を見つめながら、自分でも驚くほど平静な声で言った。


「神崎綾乃が何度も俺を泥に踏みつけるなら、俺がいなければ彼女には何も残らないと、わからせるだけです」



 4.彼女はもう一度、俺に手を差し伸べた


 俺は屋上で長い時間、風に吹かれていた。

 背後から突然、悲鳴に近い声が聞こえた。


「悠真、飛び降りないで。降りてきて!」


 神崎綾乃だった。

 彼女は屋上へ続く扉の前に、真っ青な顔で立っていた。その目には、確かに恐怖が浮かんでいた。


 俺は怔え、ゆっくり振り返った。そこで初めて、屋上にいつの間にか人が集まっていることに気づいた。消防隊員、管理会社の警備員、騒ぎを聞きつけた住民たち。誰もが焦った表情で俺を見ていた。どうやら俺が思い詰めて、ここから飛び降りようとしていると思っているらしい。


「若いの、馬鹿なことをするな。生きていれば、まだ何とかなる」


「どんなことでも、ゆっくり解決すればいい。死んだら何も残らないぞ」


 俺は説明しようとした。けれど喉が塞がれたようで、一言も出なかった。

 神崎綾乃は人々の視線の中を、一歩ずつ俺へ近づいてきた。

 彼女は俺に手を差し伸べた。

 その動きは、十年前とまったく同じだった。


 当時、俺は父の死後、あらゆる人に指をさされていた。母は神崎政宗のそばに留まることを強いられ、周囲からは薄情だ、恥知らずだと罵られた。その息子である俺も、近所の噂話の種にされた。

 ただ神崎綾乃だけが、俺の前に立って手を差し出した。


「悠真、あなたには私がいる」


「これからは、私と一緒に生きていきましょう」


 今、彼女はまた同じ目で俺を見ていた。


「悠真、降りてきて」


「私たち、来月には式を挙げるのよ。あなたには私がいる。これから先も、私と一緒に生きていけばいいの」


 意識が一瞬、揺らいだ。

 まるで十年前、世界から捨てられた少年が、もう一度たった一つの光を見つけたようだった。

 俺は吸い寄せられるように彼女の手を取り、強く抱きしめた。声が震えた。


「綾乃、俺には君しかいない」


「一生、俺から離れないでくれ。約束してくれ」


 彼女は俺の背中を軽く叩いた。


「うん」


 その返事も、十年前と同じだった。

 周囲には目を赤くする人もいた。三十を過ぎた男が人前でここまで卑屈に脆くなる姿は、誰が見ても胸を締めつけられるものだったのだろう。

 けれど俺が顔を上げた時、少し離れた場所にいる瀬戸蒼真と目が合った。

 その目に得意げな色はなかった。そこにあったのは、憎悪と冷たさだけだった。

 途切れていた記憶が、その瞬間つながった。

 俺はふいに完全に目が覚めた。

 目の前の女は、もうあの頃俺を救ってくれた神崎綾乃ではない。


「神崎綾乃。別れよう」


 彼女の体が強張った。

 短い驚愕のあと、彼女は声を低くした。その声には警告が混じっていた。


「何を馬鹿なことを言っているの。まずは帰るわよ」


 彼女は瀬戸蒼真に目配せした。

 すぐに、普通の上着を着た二人の男が人垣の後ろから現れた。彼らは左右から俺の腕をつかみ、強引に屋上から連れ出した。

 神崎綾乃はその場に残り、消防隊員や住民たちに説明していた。


「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。最近、彼は少し精神的に不安定で……この二人は家の親戚です。私たちが一緒に見守ります」


「それなら、しっかり見てあげてください。気持ちが不安定な人は、衝動的になることがありますから」


「はい。必ず気をつけます」


 たった数言で、彼女は周囲の疑念を消し去った。

 彼女はいつもそうだった。

 望みさえすれば、どんなことでも筋の通った、体面のいい、破綻のない話に変えられる。



 5.閉じ込められた花婿


 俺は二人の男に、マンションのリビングへ投げ込まれた。

 彼らの目は冷たく、明らかに訓練された者の圧があった。今の体調で逆らっても不利になるだけだとわかっていた。だから俺はソファに座り、ひとまず堪えるしかなかった。

 神崎綾乃が入ってきた。

 次の瞬間、彼女は俺の頬を平手で打った。

 乾いた音がリビングに響いた。


「佐伯悠真、あなた正気なの?」


 彼女は胸を上下させながら怒っていた。手は無意識に腹をかばっている。


「あなたまで、昔のお父様みたいに飛び降りるつもり? 私に、あなたのお母様のような根も葉もない悪評を背負わせたいの? 冗談じゃないわ」


 俺は顔を背けた。口の端に血の味が広がる。

 瀬戸蒼真が彼女に歩み寄り、子どもをなだめるようなやさしい声で抱きしめた。


「姉さん、体に障るから怒らないで。殴りたいなら、誰かにもう少し懲らしめさせればいい。自分で手を出す必要はないよ」


 神崎綾乃の顔色は、目に見えて和らいだ。


「やっぱりあなたはわかってくれるわ。彼とは違う。今は彼の顔を見るだけで苛立つの。昔、どうしてあんな人を好きになったのかしら」


 その声には、隠す気のない嫌悪があった。


「じゃあ、どうしてまだ構うの? あいつが飛び降りたいなら、飛び降りさせればいいじゃない」


「あなたはまだ若いから、わかっていないの」


 神崎綾乃は眉をひそめた。


「栄和グループのプロジェクトはまだ進行中よ。彼には引き続き関わってもらわないといけない。この時期に彼に何かあれば、契約が止まる可能性があるの」


「何がそんなにすごいんだよ。俺だってあと数年、姉さんに育ててもらえれば、あいつよりずっと上に行ける」


「わかっているわ。あなたが一番すごい」


 二人は、俺が目の前にいることなど忘れたように笑い合った。

 避けるつもりすらなかった。

 まもなく寝室の扉が閉まり、中から押し殺した、いやらしい気配が漏れてきた。

 積もりに積もった感情が、その瞬間、完全に爆発した。

 俺は勢いよく立ち上がり、椅子をつかんで、狂ったように寝室の扉へ叩きつけた。


「神崎綾乃、別れる!」


「別れると言っている!」


 二人の男がすぐに飛びかかり、俺を床へ押さえつけた。

 寝室の中の動きが止まった。

 扉越しに、神崎綾乃の不機嫌そうな声が聞こえた。


「客間へ連れていって殴っておきなさい。邪魔をしないで」


 彼女は一瞬置いて、冷たく付け足した。


「顔はやめて。式の日に人前へ出るんだから」


 俺は客間へ引きずり込まれ、口に布を詰められ、両手両足を荒々しく縛られた。拳と膝が次々に落ちてきて、痛みが体中で炸裂した。だが俺は声を上げることすらできなかった。

 どれほど時間が経ったのか、俺は意識を失った。

 目を覚ました時も、俺はまだ縛られていた。


 どうやら神崎綾乃は、本気で俺が逃げるのを恐れているらしい。俺が予定通り、結婚式の会場に現れないことを恐れているのだ。

 彼女もわかっていた。式はただの体裁にすぎない。本当に重要なのは、栄和グループのプロジェクトだった。俺がいなければ、あの案件は順調に進まない。


 だが、彼女はこれで俺を縛れると思っているのか。

 まだ昔のように、俺が彼女の言葉に従うと思っているのか。

 式の当日、瀬戸蒼真は朝からマンションで騒いでいた。


「姉さん、本当にあいつと結婚式をするの?俺は嫌だ」


 かつて神崎家に支援されていた若い男は、今では神崎綾乃の心の中心にいる人間になっていた。彼女は彼に少しの不満も抱かせたくない。昔、俺にそうしてくれたのと同じように。

 愛は消えない。

 ただ、移るだけだ。


「もう、騒がないで」


 神崎綾乃はイヤリングを整えながら、声を低くして彼をなだめた。


「今日は栄和グループの会長も来るのよ。少しの失敗も許されないの」



「俺は知らない。何か埋め合わせをしてくれなきゃ嫌だ」


 瀬戸蒼真はわざと俺を見た。目には挑発が満ちていた。

 神崎綾乃は甘えるように彼の胸を軽く叩き、それから二人の男へ視線を向けた。


「先に彼をホテルへ連れていって」


「最後までおとなしく式を終えるとは思えないの。しっかり見張って」


「はい、お嬢様」


 彼女の勘は正しかった。



 6.披露宴での反撃


 結婚披露宴は、東京湾の高級ホテルで開かれた。

 招待客がほぼ揃った頃、俺は控室に座っていた。手首にはまだ鈍い痛みが残っている。俺を見張る二人の男は、扉のそばに無言の壁のように立っていた。

 その時、俺の携帯に一通のメッセージが届いた。


【収益権は取得済み。計画を開始する】


 俺はその文字を、長い間見つめていた。

 ついに、この時が来た。


 神崎綾乃が最近、俺に与えた裏切り、侮辱、踏みにじりを思い出すと、最後に残っていた迷いも消えた。

 俺は手を上げ、袖口に隠していたリモコンのボタンを押した。

 宴会場中央の大型スクリーンが、突然明るくなった。

 しばらくして、画面は監視映像に切り替わった。


 映像の中では、神崎綾乃と瀬戸蒼真が、俺と彼女の寝室で絡み合っていた。音声は加工されていたが、二人の関係を理解するには十分すぎた。

 宴会場は一瞬で騒然となった。


 招待客たちは悲鳴を上げるように振り返り、報道関係者は血の匂いを嗅ぎつけた鮫のように、すぐにカメラと携帯を掲げた。もともと豪門の結婚式を取材するために招かれていた経済メディアや週刊誌の記者たちが、一斉に配信を始めた。


「消せ。早く消せ!」


 六十代の神崎政宗が、勢いよく立ち上がった。

 彼はいつも慈善家であり、重厚な経営者という顔をしていた。だがこの時ばかりは、両目を血走らせ、よろめきながら壇上へ駆け上がり、怒鳴りながらスイッチを探した。

 しかし誰も彼の指示を聞かなかった。


 全員が呆然とスクリーンを見つめていた。

 俺は脇の扉から壇上へ上がり、司会者のマイクを奪った。

 宴会場が一瞬だけ静まり返る。

 俺は、驚愕、興奮、幸灾楽禍に満ちた顔を一つ一つ見渡し、はっきりとした声で言った。


「神崎綾乃の不貞が先です。本日、俺、佐伯悠真と彼女の結婚式は取りやめます」


「これより先、俺と彼女には何の関係もありません」


「お騒がせして、申し訳ありませんでした」


 俺が神崎綾乃と付き合っていた頃、多くの人間が、俺は彼女に釣り合っていないと言った。こんな男はいずれ神崎家に捨てられると、皆が決めつけていた。

 今になって思えば、その見立ては鋭かったのかもしれない。

 ただ彼らは思わなかっただけだ。

 先に背を向けるのが、俺のほうだとは。


 壇下の神崎政宗は怒りに我を忘れ、拳を振り上げて俺に殴りかかってきた。

 俺はわずかに身をかわした。

 彼は空を切り、壇上に無様に転んだ。面白がる記者たちが一斉に群がり、その顔と姿勢にカメラを向けた。

 神崎政宗は面目を失い、俺を指さして罵った。


「佐伯悠真、お前か!」


「お前がわざと神崎家に恥をかかせたんだな!」


 俺は彼を見た。長年抑え込んでいた憎悪が、少しずつ表に浮かび上がる。


「そう思いたいなら、そう思えばいい」


 俺は一字一句、噛みしめるように言った。


「だが、これは始まりにすぎない」


「本当の見せ場は、これからだ」


 名家の令嬢が結婚式当日に不貞動画を晒される。

 そんな醜聞は、恐ろしい速さで広がった。


 半時間もしないうちに、関連映像はあらゆるプラットフォームで拡散された。神崎綾乃を罵る者もいれば、俺に同情する者もいた。ただ面白半分で騒ぐ者も多かった。神崎ホールディングスは上場企業であり、その後継者が起こした醜聞は、普通のスキャンダルよりはるかに深刻だった。


 栄和グループはその場で、神崎ホールディングスとの提携停止を発表した。

 神崎政宗がどれほど頭を下げて説明しても、栄和グループの会長は振り返らなかった。

 彼は冷ややかに一言だけ残した。


「一千億円規模のプロジェクトを、基本的な信頼すら守れない企業には任せられません」


 そう言って、彼はその場を去った。

 神崎ホールディングスの役員たちは、誰もが青ざめていた。

 しばらくして、神崎綾乃が白いウェディングドレス姿でホテルへ駆け込んできた。

 彼女は壇上へ駆け上がるなり、俺の頬を平手で打った。


「佐伯悠真、あなたは私を破滅させたいの?」


 彼女の問い詰める声が、宴会場全体に響き渡った。


「あなた、昔、私がどれだけあなたを守ったか忘れたの?」


 帰りかけていた招待客たちは、その言葉を聞いて足を止め、また面白そうに見物し始めた。

 俺は口元の血を拭い、静かに彼女を見た。


「忘れていない」


「だから、君がどれほど狂ったように俺を殴っても、俺は一度も殴り返さなかった」


 彼女の顔がこわばった。

 俺の声の平静さは、少しずつ冷たさへ変わっていった。


「本来、俺の計画にこれは入っていなかった」


「だが君は、何度も何度も俺を吐き気がするほど踏みにじった。俺を侮辱した。そして、君がかつて俺に与えてくれた光を、君自身の手で消した」


 神崎綾乃は雷に打たれたように、その場に立ち尽くした。

 長い沈黙のあと、彼女は震える声で言った。


「あなた……まさか……知っていたの?」


 俺は彼女を見た。目の奥にある憎しみを、もう隠すつもりはなかった。


「ああ」


「君の父親が昔、何をしたのか、俺はとっくに知っている」


「神崎政宗は、自分の罪の代償を払うことになる」



 7.父の代からの旧い事件


 神崎綾乃の顔は完全に血の気を失った。


「何をするつもり?」


「これまで私たち神崎家があなたに与えてきたものでは、まだ当時の償いにならないというの?」


 彼女の声は甲高く震え、ほとんど悲鳴のようだった。

 俺はふと笑った。

 神崎ホールディングスの前身は、もともと佐伯製作所という会社だった。

 父、佐伯慎一郎が一代で築き上げた会社だ。事業が拡大していく中で、父が最も信頼していた友人、神崎政宗が加わった。その日から、佐伯家の悪夢は本当に始まった。


 数年後、父は公務員への贈賄を告発された。金額は巨額だと報じられた。

 正式な捜査が始まる前に、父は会社の向かいにある高層ビルから飛び降りた。

 あの頃、今ほどネットは発達していなかった。だが近所の噂話は、どんなメディアより残酷だった。父の死後、人々は母を罵った。夫を死なせておきながら、すぐ神崎政宗のもとへ行った、息子の未来と引き換えに自分を売ったのだ、と。

 だが俺だけは知っていた。


 母は神崎政宗に強いられていたのだ。

 俺を守るために、母はあの男のそばで五年ものあいだ屈辱に耐えた。そして俺が二十一歳になった年、ついに限界を迎え、俺を残して父のもとへ行った。

 この十年、神崎綾乃が言う償いとは、彼女が俺に与えた優しさのことにすぎない。

 だが、数年分の彼女の優しさで、父の命は償えない。

 まして、母が受けた屈辱と絶望など、埋め合わせられるはずがない。


「神崎綾乃。君は、俺を愛したことがあるから、すべてを帳消しにできると思っているのか?」


 彼女は目に涙を浮かべ、必死に首を振った。


「違う……違うの……」


 俺はもう彼女を見なかった。

 遅すぎる崩壊など、俺にとって何の意味もなかった。

 結婚式の醜聞のあと、神崎綾乃の評判は地に落ちた。

 神崎ホールディングスでは取引先の契約解除が相次ぎ、銀行は融資を絞り始め、株価は連日下落した。神崎家は大金を払って広報会社や工作アカウントを動かし、世論を一時的に押し戻そうとした。


 しかしその時、神崎ホールディングスが長年、脱税、架空経費、資金移動を行っていたと税務当局へ通報が入った。

 関係機関はすぐに調査を始めた。


 数日後、妊娠五か月の腹を抱えた神崎綾乃が、二人の用心棒を連れ、俺が子どもの頃に住んでいた古いマンションの前に現れた。

 彼女の目は恐ろしいほど赤かった。


「佐伯悠真、通報したのはあなたでしょう?」


「あなたは、どうしても神崎ホールディングスを追い詰めたいの?」


「あれは、あなたのお父様が一から作った会社なのよ。あなたは、それが壊れていくのを平気で見ていられるの?」


 俺は鼻で笑った。


「俺はただの企画部の人間だ。君の父親はあれほど俺を警戒していた。俺がどうやって脱税の証拠を手に入れる?」


 この十年、俺は大学を卒業してすぐ神崎ホールディングスに入った。

 神崎政宗は、常に俺を警戒し、押さえつけてきた。神崎綾乃は最初こそ俺を守ってくれたが、やがて気分次第で優しくなったり冷たくなったりするようになった。俺は彼女が何を考えているのか、だんだんわからなくなっていった。

 今ならわかる。

 彼女はとっくに、あの頃俺に光を与えてくれた人ではなくなっていた。


「あなたじゃないなら、誰だというの?」


 神崎綾乃はほとんど叫んでいた。


「誰が私と父をここまで恨むの?」


「神崎政宗を恨む人間なら、いくらでもいる」


 その時、エレベーターの扉が開いた。

 瀬戸蒼真が降りてきた。

 彼の目には、燃え上がるほどの憎しみがあった。神崎綾乃に向けていた、かつてのやさしさや執着は、もうどこにもなかった。

 神崎綾乃の瞳孔が大きく揺れた。彼女は反射的に腹をかばい、一歩後ずさった。


「蒼真?どうしてここにいるの?」


「さっきの言葉、どういう意味?」


 瀬戸蒼真は俺を一度見て、それから彼女の腹へ視線を落とした。


「佐伯さんは何度も俺に言った。君を傷つけるな、と」


「俺たちの標的は神崎政宗だけだと言った」


 彼の声は震えていた。それでも彼は歯を食いしばり、続けた。


「でも、君はどうだった?」


「俺が十八になったばかりの時、君は支援者という立場を利用して俺に近づき、誘惑し、支配した。あの時にわかったんだ。君も君の父親と同じだ。人の人生を玩具のように扱う」


 神崎綾乃は目を見開いた。


「違う。私は父とは違う!」


「私は違う!」


 彼女の後ろにいた二人の用心棒が、瀬戸蒼真へ近づこうとした。

 俺はその二つの顔を見つめた。封じ込めていた昔の記憶が、不意に蘇った。

 あの日、屋上で見た時から、どこか見覚えがあると思っていた。

 今、ようやく思い出した。


「お前たちか」


 俺の声は冷え切っていた。


「あの時、路地裏で俺を殺そうとしたのは、お前たち二人だったんだな」


 二人の男が同時に表情を変えた。

 次の瞬間、彼らの目にまた殺意が浮かび上がり、狙いを変えて俺へ向かってきた。

 瀬戸蒼真が俺の横に立った。


「ここへ来る前に、警察へ通報してあります」


「今回は、逃がしません」


 警察が駆けつけた時、俺も瀬戸蒼真も負傷していた。

 相手は本職の暴力に慣れた者だった。俺たちが命を保てたのは、むしろ幸運と言うべきだった。混乱の中で、神崎綾乃は階段から落ち、すぐに足元へ赤いものが広がっていった。



 8.すべての傷口が暴かれた


 二人の用心棒は、俺と瀬戸蒼真を襲撃したことで警察に連れていかれた。

 俺と瀬戸蒼真は取り調べを終えたあと、病院へ向かった。

 着いた時、ちょうど神崎綾乃が病棟で大騒ぎしていた。流産した彼女は顔色が白く、髪も乱れ、いつ崩れ落ちてもおかしくないほどだった。

 医師も看護師も、彼女を止められずにいた。

 彼女は俺と瀬戸蒼真を見るなり、暴れるのをやめ、二人を離すまいと強くつかんだ。


「瀬戸蒼真、この恩知らず!」


「新プロジェクト会社の収益権を二十パーセントも渡したのに、どうして佐伯悠真と手を組んで、私と父を陥れたの?」


 彼女の声は鋭く、目は狂気じみていた。

 瀬戸蒼真は目を閉じた。体が抑えきれず震えている。


「佐伯さん、あなたから話してください」


「俺が話したら、彼女に神崎政宗の代わりに償わせたくなってしまう」


 俺は小さくうなずいた。

 ここまで来たのなら、すべての傷を暴くべき時だった。

 当時、神崎政宗はあの二人の用心棒に、俺を路地裏へ追い込み、完全に消させようとした。

 俺が生き延びたのは、一人の巡査部長が通りかかり、助けてくれたからだ。


 けれどその直後、その巡査部長は退勤中に交通事故に遭い、その場で亡くなった。彼の妻は当時妊娠していた。だが神崎政宗に目をつけられ、追い詰められた末、自宅の高い場所から身を投げた。母子ともに助からなかった。


 その夫婦こそが、瀬戸蒼真と祖父を何年も支援していた恩人だった。

 彼らは瀬戸蒼真を家族のように扱い、学費を出し、生活費を送り、必ず大学へ行って、貧しさと絶望から抜け出しなさいと励まし続けた。

 しかし神崎政宗のせいで、その一家も壊された。


 当時の事故は、雑に処理され、ただの不運な事故とされた。地方の人脈は神崎政宗によって固められていて、誰もそれ以上調べようとはしなかった。

 瀬戸蒼真はその時から、神崎政宗に代償を払わせると誓ったのだ。

 神崎綾乃は話を聞き終えると、目に涙をためながら、それでも必死に首を振った。


「ありえない」


「私の父は、そんな人じゃない。あなたたちは父を陥れている!」


 瀬戸蒼真は冷笑し、声を一段高くした。


「否定しても無駄だ」


「君は本当は、彼がどんな人間なのか知っていた。ただ認めたくなかっただけだ」


「君も彼と同じだ。他人の痛みを、たいしたことではないと決めつける」


 神崎綾乃は耳を塞ぎ、それ以上聞こうとしなかった。

 しかし瀬戸蒼真は止まらなかった。一言一言で彼女を追い詰め、ついに彼女は完全に取り乱した。彼に飛びかかり、何度も平手で打った。


「あなたは私を騙した!」


「私の支援を利用して近づいたのね。あなたなんて、ろくな死に方をしないわ!」


 瀬戸蒼真は彼女を突き放した。目には憎しみが満ちていた。


「最初に俺を玩具にしたのは君だ」


「俺は善人じゃない。だが君も善人じゃない」


「君も君の父親も、必ず報いを受ける」


 そう言い残し、彼は病室を飛び出していった。

 神崎綾乃は床に崩れ落ち、声を上げて泣いた。

 長い間泣き続けたあと、彼女はようやく少し静かになった。

 赤く腫れた目で俺を見上げ、俺の服の裾をつかんだ。声はしゃくり上げるように震えていた。


「悠真、やっぱりあなたが一番やさしい」


「瀬戸蒼真のあの最低な男に、私の収益権を奪われたわ。私は絶対に許さない」


 彼女はようやく、十年そばにいたのが俺だったと思い出したかのように、急に声をやわらげた。


「正直に言うわ。私は彼のことなんて、好きじゃなかった」


「彼と一緒にいたのは、ただ刺激がほしかっただけ」


「悠真、私がずっと愛していたのはあなたよ。最初から最後まで、あなただけだったの」


 俺は深く息を吸い、目を閉じ、また開けた。

 そして、彼女が俺の服をつかむ指を一本ずつ外していった。


「俺は君に機会を与えた」


「だが君は、自分がかつて俺に与えた光を、その手で消した」


「俺と君が戻ることは、もうない」


 昔の俺は思っていた。神崎政宗は神崎政宗であり、神崎綾乃は神崎綾乃だと。

 彼女は俺の光だった。

 どんなことがあっても、俺は彼女から離れられないと思っていた。

 だが今は違う。

 彼女はもう、俺の心のどこにもいない。

 神崎綾乃は再び取り乱した。

 彼女は枕をつかみ、俺に投げつけながら怒鳴った。


「私が頭を下げて謝っているのに、まだ何を望むの?」


「あなたと瀬戸蒼真が結託して私を陥れたのに、それでも私はあなたを許せるのよ。それだけ私の心にあなたがいるってことでしょう?」


「どうして、あんな昔のことを忘れて、私とやり直せないの?」


「昔のこと?」


 俺は冷たく笑った。


「俺の父は、君の父親に陥れられて飛び降りた」


「俺の母は、君の父親に五年も屈辱を強いられた」


「それを、君は昔のことと言うのか?」


「神崎家のお嬢様。君は、他人の命を軽く見すぎている」


 病室は、死んだように静まり返った。

 神崎綾乃は言葉を失った。

 長い沈黙のあと、彼女は悔しげに歯を食いしばった。


「あなたが私とやり直さないなら、あなたも瀬戸蒼真も許さない」


「特に彼は」


「福祉施設出身の貧しい男が、私からものを奪うなんて。必ず代償を払わせる」



 9.神崎家の崩壊


 神崎綾乃が瀬戸蒼真に手を出す前に、ネット上へ神崎政宗に関する動画が流出した。

 動画には、彼が複数の女性に行った加害の証拠が整理されていた。その後、被害者たちが次々と実名で告発に踏み切った。中には神崎ホールディングス内部の女性社員も何人か含まれていた。


 警察はすぐに再捜査を始めた。

 神崎ホールディングスは、ほぼ機能停止状態に陥った。

 その一方で、俺と数人の同僚はすでに藤原ホールディングスへ移っていた。栄和グループのプロジェクトも、俺の加入によって、藤原ホールディングスと俺が共同で進める形へ切り替わった。


 藤原ホールディングスの会議室で、俺たちが藤原会長とプロジェクトの詳細を詰めていた時、神崎綾乃が無理やり押し入ってきた。

 彼女の目は真っ赤で、声は尖っていた。


「佐伯悠真、あなたはそこまで私たちを追い詰めたいの?」


 彼女の視線が、会議室にいる者たちを一巡した。

 そして神崎遥香が会議テーブルに座っているのを見た瞬間、その瞳孔が少しずつ開き、最後には完全に爆発した。


「神崎遥香!」


「この裏切り者。よりによって競合会社に寝返るなんて!」


「神崎家はあなたに悪くした? どうしてこの人たちと一緒に、私の父を陥れるの?」


 彼女は神崎遥香へ飛びかかろうとした。

 同僚たちが慌てて彼女を押さえた。

 その隙に、神崎遥香は彼女の頬を平手で打った。

 その一撃は、神崎綾乃が俺に打ったどの平手よりも、鋭く響いた。


「私は神崎政宗という畜生を陥れてなんかいない」


 神崎遥香の目には、憎悪が満ちていた。


「あの男が初めて私に手を出した時、あなたは扉の外に立っていた」


「私は何度も、従姉さん助けてって叫んだ。それなのにあなたは、聞こえないふりをした」



「それで今さら、よく私が父親を陥れているなんて言えるわね」


 神崎綾乃はその場で凍りついた。

 神崎遥香が神崎政宗に侵害されたのは、二十歳の時だった。それから十年が経っている。彼女は抵抗し、助けを求めた。だが誰も助けなかった。最も絶望的だったのは、彼女の両親まで沈黙を選んだことだった。財力のある義理の叔父に虐げられることを、彼女が受け入れるべきだとでもいうように。


 俺と神崎遥香は、表向きは仲が悪かった。

 だが八年前、俺たちは一つの視線だけで、互いが本当に憎んでいる相手を知った。

 後に、瀬戸蒼真もそこへ加わった。

 俺たちは、立派な言葉を交わしたわけではない。

 目的が同じだっただけだ。

 屈辱に耐え、神崎政宗を倒す。


「知らない……私は知らなかった……」


 神崎綾乃は頭を抱え、必死に否定した。

 彼女が幼い頃、本当に父親に逆らう勇気がなかったのかもしれない。だが成長してからの彼女は、神崎政宗の所業を嫌悪しながら、同時に神崎家がもたらす権力と特権を享受していた。


 彼女は父が悪人だと認めたくなかった。

 それを認めれば、自分の長年の沈黙もまた、共犯だったと向き合わなければならないからだ。

 そうして彼女の心は、少しずつ歪んでいった。

 外から見れば、彼女はいつも誇り高く、体面を保ち、順風満帆な神崎ホールディングスの後継者だった。

 けれど内側は、とうに腐っていた。


 神崎政宗はなおも各方面へ手を回し、すべての調査を抑え込もうとしていた。

 俺はもう、彼に猶予を与えなかった。


 俺はこの数年で集めてきた手がかり、録音、旧事件の資料、資金の流れをすべて整理し、弁護士へ渡した。さらに、この件を追う意思のある週刊誌記者にも渡した。その中には、神崎政宗が当時、俺の父を贈賄で陥れたこと、巡査部長を交通事故に見せかけて殺害させたこと、複数の女性に長年加害してきたこと、地方議員や県警上層部の人脈を使って事件を潰してきたことを示す証拠が含まれていた。


 瀬戸蒼真も、実名で動画を録った。

 彼は当時の被害者遺族に近い立場で育った証人として、神崎政宗があの巡査部長の妻を死に追い込んだことを告発した。同時に、自分がなぜこの数年、神崎家へ近づいていたのか、その本当の目的も明かした。


 動画が公開されると、世論は一気に爆発した。各局のニュース番組と週刊誌が連日追跡し、神崎ホールディングスはもはや広報文だけで騒ぎを抑えることができなくなった。

 事態が大きくなるにつれ、東京地検特捜部が正式に動いた。警視庁も当時の交通事故と路地裏の襲撃事件を再調査し、これまで地方で事件を扱っていた関係者は調査から外された。


 およそ半年にわたる捜査の結果、神崎政宗は殺人教唆、贈賄、証拠偽造、複数女性への加害、捜査妨害などの容疑で逮捕、起訴された。のちに第一審で死刑判決が下された。彼と結託していた官僚、地方議員、そして神崎家の汚れ仕事を長年請け負っていた二人の用心棒も、それぞれの罪に応じて十年から二十年の刑を言い渡された。


 神崎ホールディングスは醜聞によって完全に信用を失い、取引先の契約解除が相次いだ。銀行は融資を絞り、株価は下がり続けた。取引所は会社に説明を求め、取締役会は第三者委員会の設置を迫られた。神崎家名義の中核資産も、次々と売却に回されていった。


 藤原会長はホワイトナイトとして名乗りを上げ、神崎家が手放さざるを得なくなった株式と、父がかつて作り上げた中核事業を買い取った。その後、事前の約束通り、その事業を切り離して独立させ、俺に経営を任せた。

 最終的に、神崎政宗に奪われた名前は、俺の手に戻った。

 佐伯ホールディングス。


 栄和グループのプロジェクトについては、俺と藤原ホールディングスが引き続き協力して進めることになった。これは、俺が藤原ホールディングスに加わる時に出した条件だった。

 瀬戸蒼真は、自分の持つプロジェクト収益権を安く俺に譲ろうとしたが、俺は断った。

 彼もまた、この数年の被害者だった。

 それでも彼は、大部分の権利を譲ると言って聞かなかった。結局、彼は象徴的にほんの一部だけを残した。俺は彼に佐伯ホールディングスへ戻るよう誘ったが、彼は首を横に振った。


「佐伯さん。俺が残れば、あなたに悪い影響が出ます」


「それに、俺はもう東京に疲れました」


「別の場所で生きてみたいんです」


 彼は、今後毎年受け取る配当の大部分を、生活に困っている子どもたちへの支援に使うつもりだと言った。

 かつてあの巡査部長夫妻が彼を支えたように。

 彼は、自分がかつて受け取った光を、もっと多くの子どもたちへ渡したかったのだ。

 俺はその決断に賛成した。


「どこへ行っても、時々は電話をくれ」


 俺は彼を見て、真剣に言った。


「心配させるな」


 瀬戸蒼真は少し笑った。


「大丈夫です、佐伯さん」


「俺はそこまで弱くありません」


「ちゃんと生きます」



 10.もう愛さない


 会社は少しずつ軌道を取り戻していった。

 栄和グループのプロジェクトも再び動き出した。残った社員たちは、実務に誠実な人間ばかりだった。彼らはもう、出自や噂で俺を見ることはなかった。誰かを色眼鏡で判断することもなかった。


 神崎遥香と、神崎政宗に傷つけられた数人の女性たちも、ようやく悪夢のような日々を終えた。

 彼女たちがすぐに軽くなれたわけではない。

 それでも少なくとも、あの日から前へ進むことはできるようになった。

 また一年が巡り、新年を迎えた。

 俺は両親が残した古い家で、夕食の支度をしていた。


 その時、玄関の外で激しいノックの音がした。

 眉をひそめて扉を開けると、神崎綾乃が酒瓶を抱えて立っていた。彼女はひどく痩せ、顔色はくすみ、目の下には黒い影があった。かつての華やかさは、もうどこにもない。


「悠真」


 彼女が口を開いた瞬間、酒の匂いが押し寄せてきた。


「父が死刑を執行されたの」


「私は今、たった一人なの。昔のあなたみたいに、かわいそうな人間になったの」


「私に手を差し伸べてくれない?」


 彼女はそう言いながら、家の中へ入ろうとした。

 俺は彼女を遮り、冷たく見た。


「昔、君が俺に手を差し伸べてくれた恩は、もう返した」


「神崎ホールディングスの脱税には、君が指示したものも多く含まれていた。最終的にその多くは君の父親の責任として処理された。俺はそれ以上、君を引きずり出さなかった」


「それが、俺の最後の情けだ」


 神崎綾乃は一瞬呆然とし、次の瞬間、声を上げて泣き出した。化粧はあっという間に崩れた。


「それだけでは足りない」


「私は、あなたの気遣いがほしい。あなたの愛がほしいの」


 俺はこれ以上彼女に付き合う気になれなかった。


「君を、もう愛することはない」


 そう言って、俺は扉を閉めた。

 だがその一言は、彼女を完全に怒らせた。

 彼女は扉の外で泣き叫び、声はどんどん大きくなった。近所の住人が顔を出し、迷惑そうに静かにしてほしいと注意した。

 妻が台所から出てきて、心配そうに玄関を見た。


「やっぱり、外へ出て少し話してあげたほうがいいんじゃない?」


「このままだと、ご近所にも迷惑になるわ」


 俺はため息をついた。

 迷惑をかけている近所には、確かに申し訳なかった。


「一緒に来てくれ」


 俺は妻の手を握った。

 自分が心を揺らすのを恐れたわけではない。

 ただ、妻に知っていてほしかった。俺の中に、神崎綾乃への感情はもう何一つ残っていないのだと。


 扉をもう一度開けた。

 神崎綾乃の目が明るくなった。

 しかし、俺が妻の手を握っているのを見た瞬間、彼女の全身が強張った。


「佐伯悠真。その人は誰?」


 俺は静かに答えた。


「俺の妻だ」


「正式に手続きを済ませた、正真正銘の妻だ」


 神崎綾乃は、ぼう然と俺を見つめた。

 おそらく、思い出したのだろう。

 彼女と過ごした十年の間、俺は何度も結婚の手続きを済ませたいと口にしていた。けれど彼女は、いつも理由をつけて先延ばしにした。父が認めていない、会社が安定していない、あなたがもっと優秀になったら、私たちが本当に釣り合うようになったら、と。


 結局、釣り合うかどうかの問題ではなかった。

 彼女は最初から、俺に本当の名分を与える気などなかっただけだ。

 長い沈黙のあと、神崎綾乃の声は涙に濡れた。


「どうして他の人を選んだの?」


「人は誰だって間違えるでしょう。私と瀬戸蒼真のことは、一時の迷いだったの」


 彼女は泣きながら説明した。まるで過ちを軽く言えば、すべての過去を消せるとでも思っているかのようだった。


「主な理由は、父があなたのご両親にしたことよ。私はずっと、あなたに対して負い目があった」


「年を重ねるほど、あなたと向き合えなくなって、それで他の人を試したくなったの」


「でも、こんなにいろいろあって、やっぱりあなたが一番だとわかった」


「悠真、もう怒らないで」


「私たち、やり直しましょう?」


 俺は首を横に振った。


「綾乃。誰も永遠に同じ場所で待ってはいない」


「俺と君は、もう終わった」


「神崎政宗も死んだ」


「君も新しい人生を始めるべきだ。これからは、俺と俺の妻を邪魔しないでくれ」


 神崎綾乃はよろめき、壁に手をつきながらゆっくりとしゃがみ込んだ。顔を覆い、引き裂かれるように泣いた。

 妻は彼女を見て、少しだけ胸を痛めたようだった。


「家まで送ってあげなくていいの?」


「必要ない」


 俺はきっぱり断った。


「彼女は二十歳の子どもじゃない。もう三十を過ぎた大人だ。そこまで弱くはない」


 彼女が何度も別アカウントを使って瀬戸蒼真を中傷していた時から、俺にはわかっていた。

 彼女は死を選ぶような人間ではない。

 俺への感情も、愛ではない。

 失ったものへの執着と、納得できないという不甘にすぎなかった。


「神崎綾乃」


 俺は彼女を見下ろした。声には何の温度もなかった。


「これ以上、俺たちに付きまとうなら、警察に通報する。弁護士を通して接近禁止の手続きも取る」


 彼女の泣き声が止まった。

 俺はもう彼女を見なかった。妻の手を握り、家の中へ戻り、扉を閉めた。

 リビングには温かな湯気が満ちていた。鍋の中の汁物が、弱火で静かに煮えている。妻は俺の隣に立ち、しばらくしてから小さな声で尋ねた。


「自分が冷たすぎるって、思う?」


 俺は彼女を見た。どう答えればいいのか、一瞬わからなかった。

 だが妻は、やわらかく笑った。


「思わないわ」


「あなたは彼女に、もう十分すぎるほど誠実だったもの」


 その後も、神崎綾乃はさまざまな方法で俺に連絡を取ろうとした。

 俺は二度と応じなかった。

 弁護士がすべての迷惑行為の記録を整理し、接近禁止の手続きを進めた。さらにその後、神崎家に残っていた親族が彼女を海外の療養施設へ送った。彼女はついに、俺の生活から完全に消えた。


 俺は振り返らなかった。

 かつて俺を照らしてくれた光は、彼女自身の手で消された。

 そして今、俺には新しい生活がある。

 誰か一人を、唯一の救いにしなくても生きていけるのだと、ようやく知った。



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