第8話:王宮の秤、二つの影
ヴァレン伯は窓辺に立ち、王都の朝靄を眺めていた。書類の山が淡い影を落とす書斎は、いつもより冷える。指先で浮かべる古い紙切れが、彼の中に居座る不穏さを増幅させる。
「侯爵家。だが表沙汰にすべきか――」
声にならない独白を、彼は胸の内で繰り返した。王の治世は脆い。貴族の乱れは、民衆の不安へと直結する。だが、放置すれば王権の威信が削がれる。ヴァレンにはわかっている。均衡とは、時に残酷な判断を要求するものだと。
書斎の扉が静かに開き、近衛幹部セリオンが入ってきた。鋭い顎、短く切り揃えられた黒髪。彼の歩みは無駄がなく、目は常に周囲を計っている。
「報告が参りました、伯。侯爵家の騒動は城外でも尾を引いております。民間の噂が王城へも届き始めました」
セリオンの声は低い。紙束を差し出すその手に、わずかな震えが混じるのをヴァレンは見逃さない。
「黒鴉は動いたか?」
ヴァレンは素っ気なく問う。問いに込められた重みを、セリオンは理解していた。
「未確認。ただし、屋敷周辺で影のような往来が数度、目撃されています。目撃者は『黒い紋』『銀の羽』を口にしていますが──」
セリオンは言葉を切った。王宮の規律に反する“影”の存在。彼自身、幼い頃に聞かされた昔話が脳裏をかすめる。守るための影。だが王にとっては、管理不能の変数でしかない。
ヴァレンは窓の外を見据え、指先で欄外の文字を押さえた。
「王は『調査』と命じた。だが……黒鴉を動かすのは最終手段だ。表沙汰になれば、貴族たちの反応は読めぬ」
セリオンは顎に手をやる。彼の思考は即決を好む。秩序を乱す芽は即座に摘むのが、兵の性だ。
「侯爵家の内部に弱点を作れば、外部介入の必要は少なくなる。令嬢アリエルを公の場で揺さぶる──安定した証拠と、世論を味方につける。だが、王の前でも決断は仰ぎます」
セリオンの目が、わずかに熱を帯びる。彼は行動が先、思考は後ろに続く武人だ。ヴァレンはそれを知りつつ、黙って聞いた。急がば回れ、という言葉を彼は何度もかみしめた。
しばしの沈黙。窓外を渡る風が、カーテンを揺らす。間が、二人の間に規律を呼び戻す。
「ならば、まず情報だ」
ヴァレンは静かに結論を出す。「黒鴉の関与を示す確かな物証が出た場合のみ、我々は動く。セリオン、君には密偵を差し向けよ。だが、絶対に露見させるな。王の名を使うな」
セリオンは短く頷いた。命令が降りると、彼の顔にある種の安堵が差す。だが、その目には別の光──興味、あるいは試すような痛み──が潜んでいた。彼は既に動き始めている自分を止められないことを知っている。
昼下がり、王都の雑踏。市場の喧噪に紛れて、セリオンの密偵が暗闇を渡る。名はルス。軽業師あがりの小男で、目がよく、耳がいい。セリオンは彼を信じる。信じさせたのだ。
ルスが届けたのは、小さな包みと一枚の写真。写真には、屋敷の片隅で腕を組むマリオと、密かに手渡される文書の断片が写っている。角度の悪い暗所だが、印章が識別できる。
「印章は?」とルス。
ルスの手が震える。金の縁取り。――確かに、あの日覚えた偽造の印章と酷似していた。セリオンは紙を撫で、冷たい感触を確かめる。王宮の書記録と合わせれば、罪の重みは増す。
彼は考えた。ルスの行動を、ヴァレンに報告すればすべては速やかに進む。だが──直感が彼を止める。直感はいつも、危険の前触れを知らせる。
セリオンは自ら屋敷へ向かうことを決めた。軍人としての感覚、そして個人的な苛立ちが交差する。彼は“秩序”を守るため、使える手はすべて使うつもりだった。
夜。レオノール邸の一室。アリエルは机に向かい、王宮筋の動きを淡々とメモしていた。短い線で引かれた矢印、名前と日付。黒鴉の札が鞄の奥で暖かく触れる。
窓の外、砂利を踏む足音が近づく。扉の隙間に影が差し、剣の柄がかすかに光った。入ってきたのは、セリオンだった。近衛の甲冑は外し、礼を尽くしたその表情は、遠慮と好奇の混交である。
「侯爵令嬢、失礼する」
彼は直接的な言葉を避け、まずは様子を探るように部屋を見回した。アリエルの瞳が、紙から彼へと滑る。
「何かご用ですか、近衛幹部セリオン」
問いの角度は柔らかいが、目の奥にある刃は隠せない。アリエルは相手の目線を読んでいる。彼女は自分が監視されていることを知っていた。だが、その知覚は、計画の一部でもある。
「侯爵家の名誉を回復するため、王宮からの“聞き取り”だ。法に触れる者がいるという話がある」
セリオンの声は冷静だ。だが、手の内にある紙片が小さく震えているのをアリエルは見逃さない。彼の視線が、机の上の帳簿へと向いた瞬間、彼女は一枚の紙を手に取って差し出す。
「どうぞ、ご覧になって」
紙には、さりげなく書かれた数字と予定。全ては予定調和のように配されている。セリオンは一瞬の戸惑いを見せた。彼は情報を求めていたはずだ。だが、そこで彼が感じたのは──違和感と、同時に尊敬だった。
「君は計算が巧い。だが……」
セリオンは息を吐き、顔を上げる。「もし、君が本当に秩序を乱す者であれば、王は容赦しない。だが、真実は一つだ。証拠が必要だ」
部屋に流れる沈黙の厚さが、二人を包む。目の動きが語る。間が、判断を促す。
アリエルはゆっくりと笑む。笑顔の端に小さな痛みを含ませて──
「証拠は、見つけるもの。私が示して差し上げましょうか?」
その言葉に、セリオンの表情がわずかに揺れる。外では、王宮の灯りが冷たく瞬いている。均衡の秤は、今まさに振れ始めていた。




