第78話:差し出された紙
それは抗議文ではなかった。
罵倒も、糾弾もない。
署名も、控えめだ。
ただ、数字と日付。
そして最後に、一行。
――市場活性化のため、巡回体制の再検討を提案する。
商人組合の正式提案は、
静かに王宮へ届いた。
午前。
王宮文官局。
書簡を受け取った若い文官は、
一度、目を通し、
もう一度、読み直した。
「……感情的な文言は、ありません」
上官は、手を差し出す。
紙をめくる音が、やけに響く。
――滞留時間の変化。
――取引件数の推移。
――巡回強化日との相関。
「……相関、か」
「はい」
「“恐怖”とは書いていません」
「“相関”です」
沈黙。
「……賢いな」
上官は、低く言う。
「否定しづらい」
昼。
相談所。
商人組合の代表が、控えめに座っている。
「出しました」
「ええ」
セドリックは、頷く。
「返事は、まだです」
代表は、肩の力を抜く。
「急ぎません」
「今回は」
一拍。
「逃げませんから」
その言葉は、
以前の彼にはなかった。
市場の女が、柔らかく言う。
「“質問”ではなくなりましたね」
代表は、少し笑う。
「ええ」
「提案は、
消されにくい」
午後。
王宮。
文官長は、机に広げた資料を見つめる。
数字。
表。
簡潔な文。
「……撤回は、できん」
「はい」
「強硬も、
難しい」
若い文官が、慎重に言う。
「巡回の“見せ方”を、
変えるのは」
「人数ではなく、
位置や時間を」
文官長は、目を閉じる。
「……弱く見えないか」
「数字上は、
改善策です」
「“譲歩”ではありません」
沈黙。
やがて、文官長は小さく息を吐く。
「……検討、と返せ」
夕方。
市場。
掲示板に、新しい紙が貼られる。
――商人組合提案、受理。
――巡回体制、検討開始。
短い。
だが、
受理と書かれている。
人々は、読む。
声は、まだ小さい。
「……受理?」
「却下じゃない」
「検討、ってことは」
誰も、歓声を上げない。
だが、
足取りが、少し変わる。
立ち止まる人が増える。
値札を見る時間が、戻る。
治安兵は、立っている。
だが、
視線が、硬くない。
夜。
相談所。
アリエルは、窓の外を見る。
(交渉、か)
(対立でも、暴発でもない)
(続けるための形)
セドリックが、静かに言う。
「ここからが、難しいですね」
「ええ」
「期待は、
裏切られると大きい」
一拍。
「でも」
アリエルは、外套を整える。
「裏切られた経験が、
言葉を強くします」
灯りが、揺れる。
市場は、まだ完全には戻らない。
恐怖も、消えていない。
だが――
質問は、提案になった。
噂は、資料になった。
沈黙は、数字になった。
そして今、
紙は、机の上にある。
逃げ場のない形で。




