第77話:書かれてしまった一文
それは、
消し忘れだった。
王宮の公示は、いつも通り整っていた。
文言は穏やかで、角がない。
――市場活性化のため、巡回体制を一部緩和する。
――窓口対応の迅速化を図る。
そこまでは、問題なかった。
だが、三段落目。
――過度な緊張状態が、経済活動に影響を与えている可能性がある。
たった一文。
だが、
書かれてしまった。
昼前。
市場の掲示板の前に、人が集まる。
いつもの沈黙ではない。
紙を、読む。
もう一度、読む。
「……影響、って」
「認めた?」
誰かが、笑った。
乾いた、短い笑い。
アリエルは、その波紋を見ていた。
(謝罪じゃない)
(撤回でもない)
(でも――)
(言葉にした)
午後。
王宮。
若い文官が、顔を青くしている。
「……修正前の草稿が、
そのまま出てしまいました」
上官は、無言。
「本来は、
“状況を鑑み”に差し替える予定で」
沈黙が、重い。
「……回収は」
「既に広がっています」
上官は、目を閉じた。
「……一文だ」
「だが」
「一文で十分だ」
夕方。
相談所に、商人組合の代表が来る。
顔つきは、以前よりはっきりしている。
「……あの一文」
「ええ」
「数字の話を、
してもいいということですね」
問いではなく、確認。
セドリックは、答えない。
だが、否定もしない。
代表は、続ける。
「次の会合で、
税の件を出します」
「正式に」
市場の女が、静かに言う。
「それは、
“質問”ではありませんね」
代表は、頷く。
「提案です」
その言葉が、空気を変える。
夜。
治安兵が一人、巡回中に足を止める。
掲示板の前。
あの一文を、じっと見ている。
「……俺たちのせいか」
隣の兵が、肩をすくめる。
「命令だろ」
「でも、
影響って書いてある」
返事はない。
命令は、守れる。
だが、
影響という言葉は、残る。
王宮に、夜の報告が届く。
――市場、微回復。
――掲示閲覧、増加。
――商人組合、会合予定。
文官長は、紙を握る。
「……余計な一文だった」
若い文官は、勇気を出して言う。
「ですが」
「事実です」
沈黙。
長い、沈黙。
やがて、文官長は低く言った。
「……なら」
「次は、
事実をどう書くかだ」
その言葉は、
撤回でも、強硬でもない。
方向の修正だった。
アリエルは、夜風に目を細める。
(象徴は、人から生活へ)
(生活は、
言葉になった)
(そして今、
その言葉が――)
(公文書に触れた)
たった一文。
だが、
恐怖より長く残っていた。




