第75話:象徴になる前に
朝。
北通りの裏に、
彼はいなかった。
戻ってきたはずの男。
歩き、立ち、掲示を見つめていた男は、
跡形もなく消えていた。
血もない。
争った形跡もない。
ただ、
いなくなった。
人々は、すぐに理解した。
問いは、口にしない。
(連れていかれたのか)
(自分で消えたのか)
(それとも――)
答えは、どれでも同じだった。
象徴になる前に、消えた。
相談所に、朝一番の来訪者が来る。
昨日まで沈んでいた声が、今日は低く、速い。
「……見ました?」
「ええ」
セドリックは短く答える。
「今朝、
いないって」
市場の女が、紙を一枚出す。
――夜明け前、
――治安兵二名、北通りを通過。
――荷馬車、一台。
名前は、ない。
だが、十分だ。
アリエルは、紙を伏せる。
(“戻り方”を見せた)
(“消え方”も、見せた)
(これで――)
(物語が、完成する)
昼。
王宮では、簡潔な報告が回る。
――対象者、所在不明。
――自発的離脱の可能性。
――捜索の必要、なし。
文官長は、書類に目を通し、判を押す。
「これでいい」
「彼は、
もう“例”として十分だ」
若い文官が、言葉を選ぶ。
「……市場では、
不安が」
「不安は、
管理できる」
「名前が残らなければな」
その言葉が、
静かに落ちる。
午後。
市場は、さらに静まった。
だが、前とは違う。
人は、急がない。
立ち止まらない。
最初から、関わらない。
値札は、見ない。
掲示も、見ない。
(避ける)
(避け続ける)
(……長くは、もたない)
アリエルは、胸の奥で因果を辿る。
(恐怖が象徴を生む前に、
象徴を消した)
(だが――)
(空白も、象徴になる)
夕方。
相談所に、あの妹が来る。
今日は、泣かない。
「……いなくなりましたね」
「はい」
「戻った人は、
戻らなかった」
一拍。
「……私、
もう質問しません」
セドリックは、否定しない。
アリエルが、静かに言う。
「質問しない、
という選択もあります」
彼女は、少し考える。
「……でも」
「忘れない、
とは別ですよね」
その言葉に、
誰も答えない。
答えがないから、
残る。
夜。
市場の裏で、
新しい紙が回る。
――戻った。
――話せなかった。
――いなくなった。
三行。
感情は、ない。
だが、
順番がある。
王宮に、夜の集計が届く。
――掲示閲覧、最低値。
――取引量、回復せず。
――市民行動、回避傾向固定化。
文官長は、眉をひそめる。
「……固定化?」
「はい」
「恐怖が、習慣になっています」
一瞬、沈黙。
「……それは」
文官長は、言葉を切る。
「統治に向いていない」
初めて、
迷いが混じる。
アリエルは、夜風に当たる。
(象徴を消した)
(だが、
象徴になる“物語”は、
消えなかった)
(次は)
(この物語を、
誰が、別の言葉で語るか)
それが、
流れを変えるのだから。




