第7話:影と契約
王都の夜は音を潜めるとき、耳の鋭い者だけに小さな音を許す。アリエルはその音を聞き逃さなかった。屋敷の奥、使われなくなった倉庫の引き戸を、細い金物がこすった。
窓から見下ろすと、黒い衣をまとった若者が影のように立っていた。彼が置いたのは、先日交わした札に似た小箱。小箱の蓋には、黒鴉の紋が小さく刻まれている。
アリエルは手のひらを伸ばし、窓辺に置かれていた小箱を受け取った。木の蓋を開けると、中には薄い革の巻物と、小さな銀の羽根のブローチが収まっていた。巻物には一行だけ、短く書かれている。
『我々は秩序を守る。だが、秩序のために無辜を切ることはしない。必要なら、我々は影となりて君の刃を覆うだろう』
その言葉に、アリエルは一瞬だけ眉根を寄せた。恩義は通貨ではない。だが、使えると判断すれば有効活用する。彼女はブローチを鞄の内ポケットにしまい、心の中で計算を始める。
(黒鴉は守る。だが、どの線引きまでか。王の命令か、それとも独自の裁定か。分からない要素が増えた)
翌朝、王宮では小さな騒動が起きていた。ヴァレン伯は王の書斎で、国王本人と顔を合わせていた。王の額は深く、表情は普段より硬い。
「侯爵家の件を直接、我が元へ持って来るとは誇り高い。だが、もしこれがただの家の内紛でないならば、王国の安定を損なう」
王はゆっくりと指を組み合わせる。その指先には、若干の震えが混じっていた。いつもなら冷静な王だったが、今回の件では何かが違う。ヴァレンは王の視線を読もうとした。
「陛下、侯爵家の名は古く、政治的にも重要です。ここで大きな裁定を下せば、他の貴族たちも動揺します。慎重に、かつ観察を続けるべきです」
王は黙り込む。短い沈黙の後、彼はゆっくりと決断を吐いた。
「ならば黒鴉を使え。表沙汰にするほどではない“調査”をだ。だが――誰にも知られてはならぬ」
ヴァレンの顔色が強張る。黒鴉の使用は王権の最終手段に等しい。だが王は、既に何かを予見しているように見えた。
一方、その夜。アリエルは密やかに王宮近くの茶屋へ足を運んでいた。灯りは少なく、客は酒と噂話に沈んでいる。彼女が入ると、一人の男が席を立った。漆黒の衣装と、眉の鋭い顔立ち。先日、屋敷で見かけた影に近い風貌だ。
「予定より早い」
彼は声を落として言った。だが、その声にも確かな気配がある。アリエルはブローチを取り出し、それを彼に向けて差し出す。
「協力していただけますか。リディアを完全に孤立させ、外部の援助を絶つための一手が必要です」
男はブローチに目を走らせ、ゆっくりと頷いた。
「我々は契約に従う。だが、君の刃が無差別であってはならぬ。秩序の均衡を壊すことを我々は望まぬからだ」
アリエルはその言葉を受け流すように笑った。
「わかっています。私の復讐は、無差別ではない。慎重に、そして災いを選び抜く」
彼は短く笑い、やがて話を切り出した。
「王宮には、侯爵家に不利な情報を持つ者が二人いる。一人は王の側近、ヴァレン伯。もう一人は近衛団の幹部、セリオンだ。彼らの動向を調べれば、必要な隙が生まれるだろう」
アリエルの瞳が鋭く光る。
「私が求めるのは隙と証拠。あなた方は影となり、私の手を隠す。交換条件は?」
男はふと息をつき、紙片を取り出す。それは古い羊皮紙に記された一文。王宮内部の記録を示すような符号と、黒鴉の判。
「情報だ。我々の要求は少ない。だが、王国の均衡が壊れるならば、その責は君にも返る」
アリエルは契約書に指先で印を押すように触れた。紙の端が震えた気がした。契約——それは双方のリスクを封じる枷でもある。彼女は深呼吸して、静かに言った。
「いいでしょう。だが忘れないで。私は自分の運命の筆を、最後まで手放さない」
影は消えかけるように笑い、そして去った。茶屋の扉が閉まると、アリエルはひとり残され、月光に照らされた街路を見つめた。
遠く、王宮の塔に灯がともる。均衡を守る者と、均衡を破る者の契約は交わされた。針は一歩、前へ進むのだった。




