第64話:名を与える者
止めに来ると思っていた。
だから、誰も声を上げなかった。
誰も、走らなかった。
朝。
本屋の前に、人は集まっていない。
代わりに――印があった。
白い布。
小さな文字。
――相談所。
それだけ。
(……名を付けた)
アリエルは、因果が静かに収束するのを感じた。
(名前は、
輪郭を与える)
市場の女が、足を止める。
「……相談所?」
男が、首を傾げる。
「集会じゃないのか」
「話すだけ、らしい」
治安兵は、遠巻きに見る。
命令は、まだ来ていない。
(合議が、遅れてる)
昼。
王宮。
緊急会合。
「……勝手に、名前を付けました」
報告役の声が、固い。
「“相談所”と称し、
人の出入りを確認しています」
「誰が?」
「……民間です」
沈黙。
「規則違反では?」
「集会規定には、
該当しません」
「では、止める理由は?」
誰も、即答できない。
文官長は、指を組む。
「……名を与えたのが、
向こうだというのが厄介だな」
(そう)
アリエルは、心の中で頷く。
(王宮は、
名付ける側でいたかった)
午後。
相談所の前。
人が、一人、入る。
若い男。
帽子を手に。
中では、三人が座っている。
本屋の主人。
市場の女。
そして――セドリック・ルーン。
(……入った)
ローレンが、低く言う。
「完全に、
向こう側だな」
「ええ」
アリエルは、視線を逸らさない。
(でも、
“勝手”じゃない)
中から、声は聞こえない。
怒号も、泣き声も。
出てきた男は、
深く息を吐いた。
「……聞いてもらえた」
それだけ言って、去る。
(効いた)
夕方。
治安部から、指示が下りる。
――状況観察を継続。
――介入は、上からの命令があるまで控える。
止めに来なかった。
その事実が、
一番、効く。
人は、集まらない。
だが、戻ってくる。
相談所は、
一日で三人。
多くない。
だが、
ゼロではない。
夜。
セドリックは、
布を外し、畳む。
「……名前を付けたのは、
正解だったか」
本屋の主人が、静かに言う。
「名がないと、
怖いだけだ」
「名があれば、
話せる」
セドリックは、頷く。
(名は、
守りにも、
刃にもなる)
王宮では、
別の名が準備されていた。
――自主相談所。
――民間活動として把握。
(……取り込みに来た)
アリエルは、因果の流れを読む。
(止めない代わりに、
定義する)
それは、
管理の第一歩。
市場の隅で、
誰かが言う。
「王宮も、
認めたらしいぞ」
「じゃあ……
危なくない?」
「さあな」
不安は、消えない。
だが、形を持つ。
(次は、
どちらが名を上書きするか)
セドリックは、
布を抱えたまま、
夜空を見る。
(名を与えた以上、
責任も付いてくる)
王宮か。
街か。
名を持つものは、
必ず、選ばされるのだった。




