第60話:善意の範囲
最初に捕まったのは、
一番、捕まってはいけない人間だった。
朝の市場。
果物の木箱の間で、紙が一枚、手渡される。
「昨日の布告、見ました?」
「ええ」
それだけの会話。
それだけで、治安兵が近づいた。
「……少し、話を聞く」
声は丁寧。
手荒ではない。
だが、周囲の空気が、凍る。
「虚偽情報の確認です」
連れて行かれたのは、
本屋の主人だった。
年配。
口数が少なく、噂話を嫌う男。
「……あの人が?」
「何を言ったんだ?」
誰も、分からない。
分からないまま、
連れて行かれる。
(……来た)
アリエルは、遠くから見ていた。
(規制が、
“悪意”じゃなく、
“日常”を噛んだ)
昼。
詰所の前に、人は立たない。
だが、視線だけが集まる。
「質問は……できないのか」
「虚偽って言われたら、
どうする」
誰も、声を上げない。
(声を上げた人間が、
連れて行かれた)
ローレンが、低く言う。
「悪手だな」
「ええ」
アリエルは、因果を見る。
(“善意の検挙”は、
一番、効く)
その午後。
セドリック・ルーンは、
報告書を見つめていた。
――本屋の主人、事情聴取中。
――虚偽情報の意図は確認されず。
(……確認されず、で?)
「解放は?」
部下が、視線を逸らす。
「……様子見、との指示です」
セドリックは、目を閉じた。
(守られているのは、
制度だ)
(俺じゃない)
夕方。
酒場で、囁きが広がる。
「本屋の親父、
何も言ってないらしい」
「じゃあ、なんで?」
「……分からん」
“分からない”が、
恐怖に変わる。
その日の申刻。
質問受付の札は、
そのまま。
誰も、来ない。
代わりに、
一人の少女が立った。
本屋の娘だ。
小さな手に、紙を握っている。
セドリックは、
迷わず前に出た。
「……質問ですか」
少女は、首を振る。
「お願いです」
声が、震える。
「父は、
悪いことを言ってません」
セドリックは、
膝を折った。
「……分かっている」
「じゃあ、
なぜ帰ってこないんですか」
答えは、
喉まで来て――止まる。
背後で、
記録係が、咳払いをした。
(……条件)
セドリックは、
ゆっくり立ち上がる。
「今日は、
私が責任者です」
周囲が、息を呑む。
「本屋の主人は、
本日中に解放します」
「え?」
記録係が、慌てる。
「補佐、それは――」
セドリックは、振り向いた。
「記録に残せ」
「私の判断だ」
沈黙。
少女は、
目を見開いた。
「……本当?」
「本当だ」
「ただし」
一拍。
「私の名前で」
記録係は、
唇を噛んだ。
(……切る気か)
アリエルは、
因果が跳ねるのを感じた。
(初めて、
鎖を引きちぎった)
夜。
本屋の主人は、
戻った。
疲れた顔。
だが、無事。
市場は、騒がない。
拍手もない。
ただ、
“見た”。
誰が、
止めたかを。
ローレンが、
低く言う。
「……やったな」
「ええ」
アリエルは、
静かに答える。
「善意を、
見捨てなかった」
王宮では、
会議が荒れた。
「勝手な判断だ!」
「規則違反だ!」
文官長は、
黙って聞いていた。
そして、言った。
「……だが」
一拍。
「間違ってはいない」
静寂。
(……条件が、
変わる)
セドリックは、
その夜、外を見た。
(守られる理由は、
もう一つしかない)
(――守ったからだ)
街は、
まだ静かだ。
だが、その静けさは、
恐怖ではない。
観測だ。
誰が、
どこまで、
踏み出すのだろう。




