第6話:王都の風と、知られざる守人
王都はいつもより冷たい風を運んでいた。市場の喧騒、馬車の軋み、掲示板に張られた布告。どれも日常だが、今朝はレオノール家の名が民衆の噂として静かに広がっていた。
『侯爵家の家令が逮捕された』。
情報はくすぶる火種のように、商人の徒党、噂好きの老女、そして王都の小路を行き交う役人へと移っていく。噂は次第に誇張され、夜までに王都の知るところとなった。
王宮の高窓を見上げる一人の男がいた。ヴァレン伯――王の側近であり、王都の秩序を司る男だ。黒の外套を羽織り、眉間には常に影がある。彼の机の上には、マリオ逮捕の覚書が置かれていた。
「侯爵家の騒動か。表沙汰にせずに済むだろうか」
欄外には王の署名がこそっと残されている。国王の関心がそこにあることを示していた。ヴァレンはゆっくりと書類に指を滑らせ、ふと窓の外に目をやる。王都の遠景には、家々の屋根が灰色のモザイクのように広がっている。
その時、若い使者が駆け込んできた。顔をあげると、使者の手にはレオノール家からの急信が握られている。
「伯爵、侯爵夫人が王に直訴を求めております。家名の汚点を晴らすために、王の裁定を仰ぎたいとのことです」
ヴァレンは眉を寄せ、書類を受け取る。文面は冷たく硬い。侯爵夫人リディアは、公正な審議を願うと訴えていた。だが文面の隅には別の記述があった——王宮近衛隊が注意深く監視しているという一行だ。
(なるほど。侯爵家の内紛が王の耳に入れば、事は思わぬ方向に転がる)
ヴァレンは机の引き出しから封印された小箱を取り出す。中には、王都の秘密に通じる古い名簿が入っている。そこに記された名の一つに、彼は指を止めた。
『黒鴉』——公には存在しない、古い伝説の守人集団。彼らの存在は、数十年前に噂されるのみで、今は半ば忘れられている。しかし、書き付けられた名は確かにそこにあった。
ヴァレンは唇を固く結び、使者に命じる。
「王に事実だけを報告せよ。感情は余計だ。だが、記録を取れ。必要なら、黒鴉へも連絡を取れ――慎重にだ」
一方、レオノール家では波紋が広がっていた。マリオ逮捕の余波で、屋敷に呼ばれたのは家臣、領地の徴税人、さらにはリディアの古い後見人だった。噂は人々の表情を硬くし、屋敷の空気を薄くする。
アリエルは冷静にその様子を見つめていた。帳簿を握った手は揺れない。だが、胸の中に小さな棘が刺さる。それは、自分の次の一手が単純なものではないことを告げていた。
(官僚が動く。王の耳に届く前に、私が手を打たねば)
その夜、屋敷の庭に一人の影が訪れた。黒ずくめのフードを被り、足取りは軽いが音を立てない。影はアリエルの窓の下で立ち止まり、静かに呟いた。
「侯爵令嬢、宵闇に用があるなら応じます」
アリエルは窓から影を見下ろす。声は男のものだが、どこか若さが混じっている。彼の腕には小さな紋章が刺繍されていた——それは、古い伝承に刻まれた“黒鴉”の印だった。
驚きと警戒が同時に走る。しかし、彼の眼差しには敵意がない。むしろ――守る者のそれだった。
「あなたは誰?」
「名乗る必要はない。だが言おう。王の手は、今回の事をただの内紛にしてはおかぬ。君がこれ以上独りで刃を向け続けるのなら、国が君を裁く材料を集めるだろう」
アリエルは微かに笑った。胸の中の計算が、もう一度動き出す。
「ならば教えて。黒鴉は何を守るの?」
影は静かに答えた。
「王国の均衡だ。だが時に、均衡は人を切り捨てる。君のような者も含めて」
短い言葉だった。危険と同時に、わずかな救いの匂いが含まれていた。
影は去る前に一枚の小さな札を落とした。紙にはこう記されていた——『王都に聞こえぬよう、動け』。
アリエルは札を拾い、掌に乗せる。黒鴉の存在は、彼女の計画に新たな変数を投げ込んだ。守りがあるということは、裏を返せば攻めの選択肢も増える。
(面白い……だが、信用はまた別の通貨だ)
その夜、窓辺でアリエルは短剣を撫でた。遠く、王宮の窓明かりが冷たく光っている。
剣先に浮かぶ月光が、彼女の瞳を赤く染めていた。




