第5話:心臓を持たぬ執事
レオノール邸の奥、薄暗い書庫には、昼間でも灯りが必要だった。金と裏取引の記録が詰まった帳簿が整然と並ぶ。そこは、家令マリオ・デュランの聖域である。彼は筆を走らせながら、背後の足音に気づくことなく、己の世界に没頭していた。
「デュラン家令、今宵はお忙しそうですね」
穏やかな声にマリオの手が止まる。振り向けば、アリエルがランプを手に立っていた。その光が、彼の顔の皺と冷汗を照らす。
「お、お嬢様……こんな時間にいかがなされました?」
アリエルは微笑を崩さぬまま、机の上の帳簿を指先でなぞった。
「帳簿。私が以前、触れてはいけないと命じられたものですね。――理由を伺っても?」
マリオの喉が鳴った。言葉が出ない。彼女の指先が止まるたび、紙の上に染みついた金の臭いが立ち上るような気がした。
「貴族の家は金で動く。ですが、血で汚れた金は……いずれ呪いになりますわ」
「……何を仰せに?」 「心配なさらず。ただの忠告です。人は自分が握る数字の意味を、理解していないものですから」
アリエルは帳簿の一冊を持ち上げると、ランプの炎に透かした。紙の裏に浮かぶ“印”。そこには、処刑前夜に見た、偽造文書と同じ印章が押されていた。
(やはり、あなたの仕業……)
唇の端がわずかに吊り上がる。だが、その笑みは悲しみにも似ていた。
「この印。見覚えがありますか?」
マリオの顔色が一気に変わる。だが、アリエルは追及せず、静かに帳簿を閉じた。
「この家の財政、来月から私が管理いたします。お母様も快く了承してくださいましたの」
「な、何を――! 私は二十年、この家を支えてきたのですぞ!」
「ええ。あなたの手で、ゆっくりと腐らせながら」
マリオが立ち上がる。その手が震えているのを、アリエルは冷ややかに見つめていた。沈黙のあと、彼女はそっと囁く。
「人の心には、必ず“数字で計れない部分”があります。けれど、あなたには……心臓がない」
次の瞬間、書庫の扉が開き、複数の衛兵が踏み込んできた。アリエルの合図一つで、マリオは拘束された。
「アリエル様! 何の真似ですか! 私を陥れるおつもりか!」
「いいえ、これは粛清です。正義とは、腐った枝を剪定すること」
アリエルはその言葉とともに、一枚の封筒を机の上に置いた。中には、マリオが裏で動かしていた商会の偽造契約書と、複数の領主の署名。全て、彼の罪を証明する証拠だ。
「……まさか、これをどこで」
「あなたが隠した場所ですわ。人は、罪を隠す場所に同じ癖を持つものです」
マリオの膝が砕けるように折れた。衛兵たちに引きずられていく背中を見送りながら、アリエルはそっと胸の前で指を組む。
「母の心臓を守る盾が消えた。次は――母そのもの」
深夜。誰もいない庭で、アリエルは月を見上げていた。赤い月はまた形を変え、細く鋭い刃のように空にかかっている。
「書記官……これで、二つ目の罪を裁きました」
空気がわずかに震え、耳元で低い声が囁く。
『良い調子だ、アリエル。だが、刈り取る命の重みを忘れるな』
アリエルは目を伏せ、赤く照らされた庭を見つめた。そこには、刈り取られた白いバラの茎が並んでいる。
「忘れはしません。ただ、これは――私の祈りでもあるのです」
風が吹き、バラの花弁がひとひら、夜空へと舞い上がった。その行方を見届けるアリエルの瞳には、憂いと決意の両方が宿っていた。




