第46話:民は、帳簿を知らない
王宮の外は、いつもより明るかった。
それは太陽のせいではない。
人が多い――ただそれだけで、空気は熱を帯びる。
アリエルは、外套のフードを深く被り、石畳の通りを歩いていた。王宮から一歩出ただけで、因果の糸の色が変わる。ここには、王家の太い保護はない。代わりに、無数の細い線が、絡まり合って揺れていた。
(……生きてる)
王宮の因果は硬く、冷たい。
だが民のそれは、雑多で、脆く、そして――騒がしい。
「聞いたか?
財務卿が失脚したらしいぞ」
「帳簿がどうとか……
よく分からんが、税が止まったって話だ」
「止まった?
じゃあ、来月は払わなくていいのか?」
「馬鹿、そんなわけあるか」
噂は、形を持たない。
だが、形を持たないからこそ、広がる。
(始まってる)
ローレンが、隣で小さく息を吐いた。
「思ったより、早いな」
「ええ」
アリエルは、立ち止まらずに答える。
「帳簿は、民のためのものじゃない。
でも――民の上に、ずっと乗っていた」
それが揺らげば、感じ取られる。
市場の一角で、声が荒がっていた。
「今月分の穀物が出てない!」
「倉は空だ!
でも帳面上は――」
男が言い淀む。
「……帳面上は、足りてる」
その瞬間、周囲がざわついた。
(来た)
アリエルの視界で、その場にいる人々の因果が、一斉に揺れる。
不満。疑念。恐怖。
そして――怒り。
「どういうことだ!」
「誰かが、誤魔化してるんじゃないのか!」
「王宮は、何をやってる!」
怒号は、連鎖する。
ローレンが、低く言った。
「このままだと、暴発する」
「ええ」
アリエルは、足を止めた。
(でも、抑え込めば――
同じことが、もっと大きくなる)
彼女は、フードを外す。
周囲が、はっと息を呑む。
「……あの顔」
「王宮の……」
「噂の、令嬢だ」
視線が集まる。
だが、恐怖より先に、期待が混じる。
(……なるほど)
民は、帳簿を知らない。
因果も、裁定も分からない。
だが――
誰が嘘を嫌うかは、知っている。
「皆さん」
アリエルは、声を張らない。
それでも、空気が静まる。
「穀物が出ないのは、倉が空だからじゃない」
ざわめき。
「帳面が、嘘をついていたからです」
一瞬、静寂。
「……嘘?」
誰かが、絞り出すように言う。
「王宮の帳面が?」
「ええ」
アリエルは、はっきりと頷く。
「長い間、
“足りている”ことにされてきた」
怒りが、形を持つ。
「じゃあ、俺たちは……!」
「ずっと、騙されてたってのか!」
(……強すぎる)
ローレンが、アリエルを見る。
止めるべきだ、という目。
だが、アリエルは続けた。
「だからといって、
今日、誰かを殴っても――
穀物は増えません」
怒りが、迷う。
「今、王宮は――
帳簿を捨てました」
どよめき。
「もう、“帳面上の足りている”は使えない」
彼女は、一人一人を見る。
「これからは、
本当に足りているかどうかで、決まります」
沈黙。
誰かが、ぽつりと言った。
「……じゃあ、どうすりゃいい」
アリエルは、少しだけ、間を置いた。
(ここだ)
「声を、残してください」
「声?」
「何が足りないか。
いつからか。
誰が困っているか」
彼女は、石畳を指す。
「ここに。
記録に、残る形で」
「王宮が、聞くのか?」
「聞かせます」
断言。
因果が、震えた。
不安と同時に、希望が生まれる。
「私が、繋ぎます」
その瞬間、空気が変わった。
誰かが膝をつき、
誰かが泣き、
誰かが拳を下ろした。
(……民は、
裁定を求めてるんじゃない)
アリエルは、はっきりと理解する。
(説明を、求めてる)
ローレンが、彼女の耳元で囁く。
「やりすぎだ」
「ええ」
アリエルは、小さく笑った。
「でも、もう戻れない」
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
王宮の鐘ではない。
街の集会鐘だ。
「……始まったな」
ローレンが言う。
「ええ」
アリエルは、鐘の音を聞きながら、静かに歩き出す。
帳簿はない。
裁定も、まだない。
だが――
声が、残り始めた。
それは、嘘よりも厄介で、
力よりも重い。
王宮は、まだそれを知らない。
だが近いうちに――
必ず、向き合うことになる。
民は、帳簿を知らない。
だからこそ。
帳簿よりも、真実に近い。




