第45話:帳簿なき裁定
王宮は、静かすぎた。
警鐘は鳴らない。
兵も走らない。
だが――決まった気配だけが、確かにあった。
アリエルは、王宮中庭を横切っていた。朝霧が低く垂れ、白い世界の中で人影は歪む。因果の糸もまた、いつもより短く、張りつめて見えた。
(……切り替えた)
帳簿が揺らいだ。
財務卿が“外れた”。
その結果、王家は一つの結論に辿り着いた。
帳簿を使わない。
「来るな、これは」
ローレンが低く言う。
「ええ」
アリエルは立ち止まらない。
「だから、分かりやすい」
中庭の中央。
噴水の前に、既に人が集まっていた。
近衛騎士団。
法務官。
そして――玉座代理として立つ、セリウス王子。
彼の背後に、因果はほとんど見えない。
守られていた線は切れ、代わりに“決断の重さ”だけが、薄く残っている。
「アリエル・ヴァルシュタイン」
王子の声は、意外なほど落ち着いていた。
「君を、王命により拘束する」
ざわめき。
だが、誰も驚かない。
(やはり)
アリエルは、足を止め、正面を向いた。
「理由は?」
「国家反逆の疑い」
王子は、淡々と続ける。
「帳簿への不正干渉。
王宮秩序の攪乱。
そして――“因果”を私的に扱った罪」
ローレンが一歩前に出ようとする。
だが、アリエルは手で制した。
「つまり」
彼女は、王子を見る。
「帳簿が使えないから、人の言葉で裁くと」
「そうだ」
王子は、僅かに顎を上げた。
「これは、正式な裁定だ」
(正式……)
アリエルは、因果を見る。
ここには、帳簿はない。
監査官もいない。
あるのは――多数決と、恐怖。
「拘束しろ」
近衛が動く。
その瞬間。
「待て」
低い声。
噴水の影から、一人の男が姿を現した。
老齢。だが背筋は伸び、視線は鋭い。
「……法務長官」
王子が、目を細める。
「あなたまで?」
「帳簿なき裁定は、危うい」
長官は、はっきりと言った。
「特に、“因果”を扱う件においてはな」
空気が、張り詰める。
(……割れた)
王宮内部で、意見が割れている。
帳簿があったから保たれていた均衡が、今はない。
「では、どうする?」
王子が問う。
法務長官は、アリエルを見る。
「本人に、説明させよ」
一瞬の沈黙。
それから、王子は頷いた。
「……許可する。
だが、簡潔に」
アリエルは、一歩前へ出た。
武器はない。
能力も、使わない。
ただ、言葉だけ。
「私は、帳簿を壊していません」
どよめき。
「帳簿が壊れたのは、嘘を書き続けたからです」
王子が、眉をひそめる。
「証拠は?」
「あります」
アリエルは、噴水の水面を見る。
(ここで、使う)
彼女は、因果を切らない。
編み替えもしない。
ただ――映す。
水面が、揺れる。
文字が浮かび上がる。
改竄された記録。
“事故”として処理された死。
帳簿から消された名。
誰かが、息を呑む。
「……これは」
法務長官が、低く呟く。
「帳簿の“影”です」
アリエルは、静かに言った。
「本体に触れなくても、
嘘は、必ず影を落とす」
王子の手が、わずかに震えた。
「だから、帳簿を捨てた?」
「ええ」
アリエルは、彼を見る。
「捨てた瞬間、
あなた方は“自分たちで裁く責任”を背負った」
沈黙。
近衛騎士たちの視線が、揺れる。
(……効いている)
だが、まだ足りない。
「最後に、一つ」
アリエルは、王子に向けて言った。
「私を拘束すれば、
帳簿の嘘は“なかったこと”になります」
王子は、唇を噛む。
「だが、解放すれば?」
「嘘は、嘘のまま残る」
選択。
どちらも、王家にとっては痛い。
長い沈黙の末、王子が言った。
「……本日の裁定は、保留とする」
ざわめきが広がる。
「拘束は、見送る」
ローレンが、静かに息を吐いた。
(通した)
アリエルは、何も言わない。
ただ、理解している。
(これは、勝利じゃない)
帳簿なき裁定。
それは、より露骨で、より危険な世界の始まりだ。
王子は、アリエルを見る。
「……君は、敵か?」
アリエルは、少しだけ考え――答えた。
「まだ、決めていません」
その答えに、王子は何も言えなかった。
朝霧が、少しずつ晴れていく。
王宮は、相変わらず立っている。
だが――
もう、以前と同じ場所ではない。
アリエルは、歩き出す。
次は、裁定ではなく――
選択の連鎖が、世界を壊す。




