第44話:次の是正対象
夜明け前の王宮は、呼吸を止めた獣のようだった。
騒ぎは起きていない。
だが、起きなかったことが、逆に不気味だった。
アリエルは東棟の控室で、窓辺に立っていた。帳簿の“沈黙が壊れた”あの音から、まだ一刻も経っていない。にもかかわらず、巡回は平常通り、鐘も鳴らない。
(隠した)
王宮は、隠す判断をした。
嘘が露見したことを、さらに嘘で覆う選択。
「……来ないな」
ローレンが低く言う。
「来ないわけがない」
アリエルは、視線を落とさない。
「ただ、“こちらの準備が整うまで”待っている」
セリオンが腕を組む。
「監査官の動きは?」
「影が増えた。
それと……帳簿の別冊が、動いている」
アリエルの視界に、あの名が浮かぶ。
別冊――“次の是正対象”。
(……彼)
名は一つ。
王家の中枢に近く、だが表に出ない人物。
「財務卿、エルンスト・ヴァルケン」
ローレンが息を呑む。
「殿下の側近中の側近だぞ」
「ええ。
だから、次なの」
帳簿は、王家を守るための装置。
だが昨夜、その装置は“自分自身”を是正対象にされた。
(なら、責任はどこへ向かう?)
当然――帳簿を運用していた人間だ。
「彼は“因果を扱っている”自覚がある?」
「あるわ」
アリエルは、静かに言う。
「だからこそ、怖い」
そのとき、控えめなノック。
「アリエル様」
若い騎士の声。
いつもより、硬い。
「財務卿エルンスト様より、
“内密の相談”があるとのことです」
ローレンが即座に反応する。
「罠だ」
「ええ」
アリエルは、迷わず答えた。
「でも、行く」
ローレンが一歩前に出る。
「一人で?」
「いいえ」
彼女は振り返り、三人を見る。
「一人“に見える”だけ」
財務卿の私室は、香りが強かった。
薬草と紙と、僅かな金属臭。
エルンスト・ヴァルケンは、机の前に立っていた。
白髪交じりの男。背は高くない。だが、目が――鋭い。
「お久しぶりです、アリエル様」
声は穏やか。
だが、因果の糸が――固い。
「昨夜、少々困ったことが起きましてね」
「お困り?」
アリエルは、椅子に座らない。
「帳簿が、騒がしくなった」
核心を突く言い方。
探り合いではない。
「誰かが、触れた」
エルンストは、微笑む。
「そして、別冊に――私の名が載った」
沈黙。
「是正対象、ですって?」
アリエルは首を傾ける。
「それは、随分と物騒ですね」
「白々しい」
初めて、声に棘が混じる。
「君だろう。
因果を切り、帳簿を揺らしたのは」
アリエルは、否定しない。
「それで?」
「交渉だ」
エルンストは、机の引き出しから小さな金属片を出した。
因果錨。
「これは、切れない。
編み替えられない。
そして――対象を“固定”する」
アリエルの視界で、その錨は黒く光っている。
(私に、打つつもり)
「取引しよう」
エルンストは、低く言う。
「帳簿への介入をやめろ。
そうすれば、君は“是正”されない」
アリエルは、しばらく黙っていた。
(……分かっていない)
彼は、“帳簿が壊れた理由”を誤解している。
「一つ、質問を」
アリエルは、穏やかに言った。
「あなたは、帳簿を守っているつもり?」
「当然だ」
「それとも――
帳簿に、守られている?」
エルンストの指が、僅かに止まった。
その瞬間を、逃さない。
アリエルは、彼の背後を見る。
エルンストと帳簿を繋ぐ因果は、一本ではない。
幾重にも重なり、だが――一箇所、結び目が甘い。
(……ある)
彼自身が、“是正対象にならないため”に作った逃げ道。
アリエルは、そこを――結び替えた。
錨が、鳴った。
「な……?」
エルンストの顔色が変わる。
「固定対象が……」
「ええ」
アリエルは、淡々と言った。
「あなたじゃない」
机の上の、帳簿の写し。
彼が保険として隠していた、複製。
それに、錨が吸い寄せられる。
「馬鹿な!
それはただの写しだ!」
「嘘を書いた写しは、嘘の延命にしかならない」
因果錨が、深く刺さる。
帳簿の写しが、黒く変色し、崩れ始めた。
「やめろ……!」
エルンストは、初めて声を荒げた。
「私は、王家のために――!」
「違う」
アリエルは、静かに否定する。
「あなたは、“帳簿の外に落ちるのが怖かった”だけ」
崩壊が止まる。
代わりに――
エルンストの周囲の因果が、軽くなった。
彼は、膝をつく。
「……外れた?」
「ええ」
アリエルは、答える。
「是正対象から」
だが、それは慈悲ではない。
「代わりに、あなたは――
ただの人間になった」
特権も、保護もない。
エルンストは、笑ったのか、泣いたのか分からない表情で俯いた。
「……それが、罰か」
「いいえ」
アリエルは、踵を返す。
「始まりです」
部屋を出ると、ローレンが待っていた。
「終わった?」
「一つ、ね」
アリエルは、夜明けの空を見る。
王宮は、まだ立っている。
だが――
(帳簿は、もう守ってくれない)
次に動くのは、誰か。
そして――
次に名が載るのは、きっと。
アリエルは、静かに歩き出した。




