第43話:帳簿は、沈黙で嘘をつく
王宮の奥には、地図に載らない場所がある。
名称はない。
案内もない。
だが“そこに行ける者”だけは、確かに存在した。
アリエルは夜の回廊を進む。足音は最小限。呼吸も、意識して浅くする。壁の向こうで交わされる囁きや、巡回の甲冑が擦れる音が、因果の糸として淡く見える。
(ここ……)
王宮北側、礼拝堂の裏。
使われなくなった扉のさらに奥、石壁に偽装された隙間。
黒鴉が、指先で石の継ぎ目をなぞった。
一拍。二拍。
わずかな振動とともに、壁が沈む。
「――開いた」
内部は、冷たい。
空気が違う。
湿気はなく、埃もない。人が定期的に出入りしている証拠だ。
「警備は?」ローレンが低く問う。
「表の三倍。
だが“偶然”に弱い配置だ」黒鴉が答える。
セリオンが短く頷く。「十分だ」
通路を抜けた先に、円形の部屋が現れた。天井は低く、中央に大きな石卓。その上に――革装丁の分厚い帳簿が、幾重にも積まれている。
アリエルの胸が、ひりついた。
(……これが)
因果の糸が、帳簿へと集束している。人の生、死、栄光、没落。すべてが、ここを経由して“整理”されている。
「触るな」黒鴉が低く言う。「記録系は罠が多い」
「分かってる」
アリエルは、見る。
帳簿の表紙に絡みつく、細く鋭い線。触れた瞬間に、触れた者へ跳ね返る“均衡の刃”。
(なら……触れない)
彼女は、卓の脇に立ち、帳簿そのものではなく――空白を見る。
書かれていないはずの、余白。
「……ある」
ローレンが息を呑む。「何が見える?」
「欠番」
アリエルの声は静かだ。
「記録されていない死。
なかったことにされた人生」
彼女は、空白に指先をかざす。触れない。引くだけ。
因果を、ほんの少しだけ――編み替える。
すると、空白が滲む。
文字が、浮かび上がる。
――処刑日、改竄。
――事故扱い、承認。
――対象:アリエル・***。
空気が凍った。
「……やはり」セリオンが低く吐く。
「私だけじゃない」アリエルは、さらに見る。「ここにも。ここにも……」
名もなき貴族。
地方の商人。
異を唱えた侍女。
“王家に不都合な線”は、帳簿から消されていた。
そのとき――
「侵入者だ」
背後で、淡々とした声。
振り返ると、円形の入口に三人の男が立っていた。黒衣。顔は覆われ、胸元には見慣れない紋。
「対因果監査官」黒鴉が低く言う。「……出てきたか」
男の一人が、帳簿を一瞥し、アリエルを見た。
「因果を“切った者”。
そして“編み替え始めた者”。」
声に感情はない。
「規定により、是正する」
ローレンが一歩前へ出るが、アリエルが制した。
「私が話す」
彼女は、監査官を見る。
彼らの背後に伸びる因果の糸は、短い。使い捨てだ。
「是正って、何を?」
「均衡の回復」
「つまり、私を消す?」
「場合による」
アリエルは、微笑まなかった。
「帳簿に嘘を書いておいて、均衡?」
監査官は答えない。
代わりに、指を鳴らす。
空気が歪み、床に紋が浮かぶ。
因果固定陣。切れない。編み替えられない。
(……なるほど)
「ここは、“偶然が起きない場所”」
黒鴉が低く言う。
「だから来た」
アリエルは一歩、前へ。
「切れないなら――」
彼女は、視線を帳簿から外し、監査官たちの背後を見る。
「移す」
因果を切らない。
編み替えない。
結び替える。
監査官の一人が、わずかに眉を動かした瞬間――
紋が、揺れた。
「な……」
ローレンが踏み込み、セリオンの剣が閃く。致命ではない。足止めだ。
アリエルは、石卓の“影”に手を伸ばす。帳簿ではない。帳簿が落とす影。
影に絡む因果は、固定陣の外側にある。
(ここだ)
彼女は、影の因果を――帳簿そのものに結び替えた。
瞬間、帳簿が重く鳴る。
固定陣が、帳簿を“対象”として認識した。
「馬鹿な……!」
監査官の声が、初めて乱れる。
「是正対象が、変わった?」
アリエルは、淡々と言う。
「嘘が書かれた帳簿は、均衡を壊す。
なら――是正されるべきは、帳簿」
光が走り、革装丁に細かな亀裂が入る。
文字が滲み、改竄された記録が、次々と浮かび上がる。
警鐘が鳴った。
遠くで、慌ただしい足音。
「撤退!」黒鴉が短く叫ぶ。
アリエルは、最後に一つだけ、見る。
帳簿の奥に隠された、別冊。
――“次の是正対象”。
そこに、見覚えのある名があった。
(……来る)
彼女は踵を返す。
回廊を抜け、夜へ。
背後で、帳簿が沈黙を失う音がした。
王宮は、まだ崩れない。
だが――嘘は、もう隠れない。




