第40話:切った代償は、静かに牙を剥く
王宮が、ざわついていた。
声を荒げる者はいない。走る足音も、命令の怒号もない。
だが確かに、均衡が崩れた気配だけが、空気に染み出している。
「……昨夜から、妙なんです」
小声で囁く文官の声が、廊下の角から漏れた。
「決裁が通らない。
理由は分からないのに、皆、判断を先延ばしにする」
「殿下は?」
「……集中できていない様子で。
まるで、守られていた“何か”を失ったような……」
その言葉は、遠くで聞いていたアリエルの耳にも届いた。
(ええ。失ったわ)
彼女は何も言わず、歩を進める。
だが――足取りが、僅かに重い。
(……おかしい)
胸の奥が、冷たい。
力を使った直後の疲労とは違う、もっと深いところ。
まるで、世界そのものが――
彼女を量っているような感覚。
「アリエル?」
ローレンが気づき、隣に寄る。
「大丈夫か?」
「……ええ」
返事は即座だった。
だが、声に微かな掠れが混じる。
その瞬間、視界が揺れた。
因果の糸が、急に増える。
絡まり、歪み、彼女自身へと集束してくる。
(――来る)
膝が、わずかに折れた。
「っ……!」
セリオンが即座に支える。
「アリエル!」
視界が白く弾け、次の瞬間――
彼女は“別の景色”を見ていた。
――処刑台。
――笑う群衆。
――嘆きの書記官。
『切ったな』
声が、耳元ではなく、頭の内側で響く。
『因果を断てば、世界は均衡を取り戻そうとする
その“歪み”を、誰が受け取ると思う?』
アリエルは歯を食いしばる。
(……私)
『正解だ』
視界が戻る。
ローレンの顔が、近い。
「アリエル、聞こえるか!」
「……ええ」
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫。
ただ……少し、来ただけ」
セリオンが眉をひそめる。
「“来た”?」
「ええ。
代償が」
三人の間に、短い沈黙が落ちる。
アリエルは、自分の手を見る。
そこに絡んでいた光の糸の一部が――
黒く、濁っている。
(切った分だけ、歪みが戻る)
母の記憶が、言葉になって蘇る。
――世界は、帳尻を合わせる。
「黒鴉は?」
カイが周囲を見回す。
「……いない」
そのとき、低い声が背後から落ちた。
「ここにいる」
振り返ると、柱の影に黒鴉が立っていた。
だが――その表情は、いつもと違う。
「予想より、早いな」
「知っていたの?」
アリエルが問う。
黒鴉は、短く頷いた。
「因果を切れば、切った者に“反動”が来る。
特に、王家クラスの結節点なら尚更だ」
ローレンが噛みつくように言う。
「それを黙ってたのか」
「止めても、彼女は切った」
黒鴉の視線は、アリエルから逸れない。
「そして――
それでいい」
アリエルは、静かに息を吐いた。
「……どんな代償?」
黒鴉は、言葉を選ぶように一拍置く。
「まずは“悪夢”。
次に、“身体的な違和感”。
最後に――」
「最後に?」
「世界から狙われる」
一同が、息を呑む。
「具体的には?」
「偶然を装った事故。
誤解。
裏切り。
“運が悪い”と片付けられる全てだ」
アリエルは、ふっと笑った。
「ずいぶん、今までと変わらないわね」
ローレンが、彼女の前に立つ。
「変わる。
今度は、俺たちがいる」
セリオンも頷く。
「あなた一人に背負わせない」
カイは短く言う。
「影は、守るためにも使える」
アリエルは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
だが同時に、冷たい確信もある。
(それでも、私が中心だ)
「ありがとう」
彼女は、はっきりと告げる。
「でも……止まらない」
黒鴉が、わずかに口角を上げた。
「それでこそだ」
そのとき、遠くで再び鐘が鳴った。
今度は、明らかに警戒の音。
「来たわね」
アリエルは、回廊の先を見る。
「王宮が、気づき始めた」
彼女は一歩、前へ出る。
胸の奥の痛みを、意志で押さえ込む。
(代償が来るなら、全部受け取る)
因果を切った以上、戻る道はない。
ならば――
壊し切るだけだ。
王宮の影が、ゆっくりと彼女たちに伸びる。
だがその影の中で、アリエルの瞳は、静かに光っていた。




