第4話:薔薇の葬列
朝靄の中、レオノール邸の庭園は静まり返っていた。夜露に濡れた白いバラが、まるで血を吸ったかのように紅く変色している。屋敷の者たちはそれを奇跡と囁き、リディアは微笑んでその前に立った。だが、その笑みには、恐怖がわずかに混じっている。
「どうして……白いはずの花が」
リディアの指が震える。アリエルは後ろから静かに近づき、花に触れるように視線を落とした。
「母様、きっと誰かが祝福したのでしょう。この家に“変化”が訪れる印に」
その声はやわらかい。だが、リディアの背筋には氷が這うような感覚が走った。娘の瞳の奥に映るのは、他人の運命を計算する冷たい光。彼女はその視線から逃げるように踵を返し、屋敷の奥へ消えた。
(花はただ枯れるだけ。けれど、人は――恐怖の想像だけで崩れる)
アリエルはそう呟くと、庭に立ち尽くす使用人たちへ微笑を向けた。「今週中にこの花を刈り取っておきなさい」と命じる声は、どこまでも穏やかだった。
昼下がり。学園では噂が駆け巡っていた。
『レオノール家の庭が赤く染まった』 『奥方が呪われたらしい』
アリエルはその話を廊下で耳にしながら、足を止めることなく歩いた。誰が最初に噂を流したのか、知る必要もない。リディアが崩れる過程では、真実も嘘も等価だ。重要なのは、信じたい人間がそれを選ぶこと。
「お姉様!」
背後から呼び止める声。セリーナが息を切らせて駆け寄ってくる。頬は紅潮し、目には涙の影。
「お母様が……夜中にうなされて、バラの花が血を流す夢を見たって!」
アリエルは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに微笑を取り戻した。
「夢は、罪の記憶を映す鏡なのよ。彼女が見たものは、過去の自分」
「どういう意味……?」 「そのうち、わかるわ」
アリエルはセリーナの頬に手を伸ばし、涙を拭う。優しい仕草だった。だが、手の温もりは氷のように冷たい。
夕刻。リディアの部屋から悲鳴が上がった。駆けつけたメイドたちが見たのは、鏡を叩き割り、床に崩れ落ちる彼女の姿。
「……映っていたの。私の後ろに……!」
リディアの声は震え、瞳孔は開いていた。だが、メイドが振り返っても、そこには何もない。
アリエルは静かに入室し、床に散らばった破片を拾い上げた。割れた鏡の中には、自分の顔が幾重にも反射している。
「母様、鏡は嘘を映しますわ。見たものを信じてはなりません」
その声に、リディアは目を見開く。娘の声が、まるで“誰か”の声のように聞こえたのだ。あの処刑の日、時が止まる直前に聞いたあの囁き――嘆きの書記官の声に、酷似していた。
「あなた……本当に、アリエルなの?」
アリエルは一歩近づき、割れた鏡片をリディアの手に渡す。光がきらりと反射し、リディアの頬を照らした。
「ええ、もちろん。だって私は、あなたの“娘”ですもの」
リディアの唇がかすかに震える。息を呑んだまま、彼女は鏡片を落とした。金属のような音が、部屋の静寂に響く。
夜。アリエルは机に向かい、新たな帳簿のページを開いた。
【第二目標:家令マリオ・デュラン】
リディアの右腕。金と噂を操る男。前世ではアリエルを貶めた証拠を偽造し、処刑へと導いた張本人。
(次はあなた。母を壊すには、まずその心臓を握る者から)
ペンの先で一つの印をつけ、インクが滲むのを見つめる。赤い光が机上を照らした。外では、風が吹き荒れ、再び白いバラの花弁が散っていく。
アリエルは立ち上がり、カーテンを開けた。夜空には再び赤い月。まるで神がこの復讐劇を見届けているかのようだった。
「さあ――第二幕を始めましょう。母の心臓が壊れる音を、ゆっくりと聴かせて」
彼女の笑みは、夜よりも深く、紅よりも鮮やかだった。




