第37話:封印の扉は、母の名を呼ぶ
王宮の地下は、昼でも夜でも同じ匂いがする。
石と湿気と、長い時間。
アリエルは松明を掲げ、古い回廊を進んでいた。足音が反響するたび、過去がこちらへ歩いてくるような錯覚に襲われる。背後にはセリオン、ローレン、そして影のように距離を保つカイ。黒鴉の姿はないが、その不在がかえって気配を濃くしていた。
(ここ……母が辿った場所)
旧貯蔵庫は、王宮の設計図からすら削除された区画にあった。
扉は分厚く、錆びついた鉄製。だが――錠前だけが不自然なほど新しい。
「最近、誰かが触ってる」
ローレンが低く言う。
「ええ。しかも、王家の鍵じゃない」
アリエルは銀の小札を取り出した。月光の下で見た刻印が、今は松明の火に照らされて淡く光っている。扉の中央、円形の窪みにそれを当てると、かすかな振動が伝わった。
――カチリ。
重い音とともに、錠が外れる。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
理由はわからない。けれど確信があった。
(……ここから先は、もう“知ってしまう”)
扉の向こうは、想像以上に広かった。
倉庫というより、隠された書庫と祭壇の中間のような空間。壁一面に並ぶ木箱、封印布、古文書。そして中央に、ひときわ異質なものがあった。
石の台座。
その上に置かれた――水晶棺。
「……棺?」
ローレンの声が、乾いた。
透明な水晶の中には、何も入っていない。
空のはずなのに、そこに“誰かがいた”感覚だけが、肌にまとわりつく。
セリオンが息を呑む。
「これは……禁呪の保管具だ。
魂、記憶、因果……“存在の一部”を封じるための」
アリエルの指先が震えた。
(母は……これを?)
そのとき、背後で――拍手が響いた。
「さすがだ、アリエル。ここまで辿り着くとは」
振り返ると、闇の境目から黒鴉が姿を現していた。
いつも通りの黒衣、赤い瞳。だが今夜は、その声にわずかな“疲れ”が滲んでいる。
「黒鴉……!」
ローレンが一歩前に出るが、アリエルが手で制した。
「答えて。
この棺は何? 母は、ここで何をしたの?」
黒鴉は一瞬、目を伏せた。
そして、ゆっくりと言った。
「君の母は――“自分自身の一部”を、ここに封じた」
空気が凍る。
「なに……を……」
「完全な死を避けるためだ。
彼女は、ある真実を知ってしまった。王家と国外、そして“因果そのもの”に関わる真実を。
それを知った者は、必ず消される」
黒鴉は水晶棺に近づき、そっと触れた。
「だから彼女は選んだ。
自分の存在を分け、片方を捨て、片方を未来に託すことを」
アリエルの喉が、うまく動かない。
「……それが、私?」
黒鴉は頷いた。
「君は偶然生き残ったんじゃない。
君は――彼女の“継承体”だ」
その言葉が落ちた瞬間、世界が反転した。
復讐も、因果断絶も、嘆きの書記官との契約も。
すべてが、一本の線で繋がっていく。
(だから私は……
だから“戻された”……?)
水晶棺が、淡く光り始めた。
「封印が、反応している……!」
カイが警戒を強める。
黒鴉がアリエルを見る。
その視線は、初めて“選別”ではなく、“願い”を帯びていた。
「アリエル。
この封印を解けば、君は真実を知る。
だが同時に――君はもう、普通の復讐者ではいられなくなる」
「代償は?」
「世界が、君を放っておかなくなる」
静寂。
アリエルは水晶棺の前に立った。
指を伸ばせば、すべてが変わる。
ローレンが、掠れた声で言う。
「……無理に背負わなくていい。
君が選ばなくても、俺は――」
「いいえ」
アリエルは、はっきりと言った。
「私はもう、選ばされる側じゃない」
彼女は、水晶棺に手を置く。
「母が残したものなら、受け取る。
それが呪いでも、光でも」
水晶が強く輝いた。
その光の中で、アリエルは“声”を聞く。
懐かしく、優しく、そして――泣きそうな声。
『……生きなさい。
私の分まで』
涙が、一滴だけ落ちた。
そして――封印が、解け始める。
王宮の地下で、静かに、確実に。
世界の歯車が、また一つ、音を立てて回った。




