第36話:沈黙の地図、遺された約束
朝の光が薄く塔の切っ先を撫でるころ、アリエルは小さく息をついた。首にかかった銀のペンダントが、冷たく胸に触れる。その重みは、昨夜よりも意味を帯びていた。母の影――過去の欠片が、今や彼女の前で静かに問いかけている。
「君が自分で選ぶ、と言ったな」黒鴉の声は低く、塔の石壁に溶けていく。彼は奥の石台に座り、やわらかく紙を広げた。古びた羊皮紙。角は擦り切れ、インクは時間に食われかけているが、そこに描かれた線ははっきりとしていた。
カイが前に出て、指で地図の一部を指す。「ここは――侯爵領の古い港だ。君が追ってきた流通経路に一致します」
ローレンの視線が鋭くなる。セリオンは冷静に周囲を見回し、耳を塞ぐかのように思考を閉じる。
アリエルはじっと地図を見つめた。墨で描かれた小さな印象のような点。それぞれに、短い文字が添えられている。母が残した手紙の一節と、地図上の印とはつながっている気配があった。
「これは──」アリエルの声が、ふるえることなく出る。「母が守ろうとした‘何か’の位置を示しているの?」
黒鴉は静かに頷いた。「君の母は、かつて王宮に深く関わる人物だった。だが“関わる”という言葉は、単純な役職以上の意味を持つ。彼女は情報の収集と隠匿に長けていた。ある夜、何か重大なものを見つけた。おそらく、それを隠すために……消えた」
言葉と地図が、空気の中で絡み合う。アリエルの胸は早鐘を打つ。母は"何か"を残していた。ではそれは何か。奪われるべきではないものか。奪うべき盾なのか。
「見つければ、何が起きる?」ローレンが素直に訊ねる。彼の手が短剣の柄に触れる指先に、守りたいという熱が宿る。
黒鴉の目が一瞬冷える。「それを公開すれば、セリウスの根拠そのものを揺るがす証拠になる。だが同時に、外部の勢力が夥しい価値を見出す。ゆえに、君がそれをどう扱うかが肝だ。君が選ぶべきは——表に晒して法で裁くか、それとも闇に匿い、我々の盾とするか」
その二択は、いつだって痛みを伴う。アリエルは自分の手の中のペンダントを撫でた。母が何を残したのか、まだ確かめねばならない。だが確認のためには現地へ行くしかない。死者が残す物は、現場にしかない。
「行きましょう」アリエルは静かに命じた。「私たちで――確かめる」
準備は速やかに進んだ。黒鴉は影の動きを掌握し、カイは外郭の路地を走り、セリオンは近衛の一部に短く指示を飛ばす。ローレンは馬の鞍を打ち、身を屈める。四人は一隊――だがそれ以上でもある。互いに認め合った“盟友”として、成立していた。
馬車が町を抜け、侯爵領の港へ近づく。岸辺には古い倉庫群が並び、塩と油の匂いが混ざる。地図に示された一つ目の印は、無造作な貨物置き場に重なる。そこはかつて、夜に人が物を運び込む場所だった。
「まずは現場の観察だ」セリオンが低く言う。彼の瞳が周囲を切り取る。
アリエルは地面に下りて、手袋を外した。指先で汚れた木箱の縁を撫でる。微かに残る擦れ。何かが削られた跡。彼女は呼吸を整え、視線を落とす。細い糸のような痕跡。小さな焼け跡。紙の断片。
「この匂いは……薬剤の匂いよ」アリエルの声が小さく震えたが、確信があった。「誰かがここで、物を加工していた。夜に、こっそりと」
カイが影のように近寄り、破れた箱の中を探る。そこに、凍りつくほど小さな鉄片があった。角に彫られた模様は侯爵家の紋と微かに似ている。だが同時に、外側には北方の製造印が打たれている。内と外が、また交わる。
「やはり繋がっている」ローレンが唇を噛む。その顔に浮かぶのは、怒りか恥か——どちらも混ざった表情だ。
だが事は静かには進まない。港の倉庫の背後、薄暗がりから急に人影が躍り出た。黒い布を被った集団。顔は隠れ、動きは機敏だ。数は多くはないが、確実に武装している。影の中の者たちだ。
「待ち伏せか」セリオンが低く唸り、剣を抜く。ローレンは即座に前へ。アリエルは杖を握って立つが、最初は言葉で止めようとした。
「ここは争う場所じゃない。私たちは――真実を探すだけ」
言葉は届かなかった。ひとりが叫び、闇が一斉に襲いかかる。襲撃は素早く、だが統制されている。先手必勝。四人は呼吸を合わせ、戦う。セリオンの剣が閃き、ローレンの槍が貫く。カイは影の裂け目を走り、黒鴉は距離を取りながら暗器を放つ。
それでも、敵は違った。影の布の下から出た者たちのうち一人が、言葉を吐いた。
「止めろ。あいつを傷つけるな。彼女は我らの客人だ」
その一言で、アリエルの動きが一瞬止まる。顔を上げると、敵の先頭に立っていたのは――白布を頭に巻いた老女だった。手には古びた箱を抱きしめている。
老女の目には恐怖があるが、その声は震えていない。「お願いだ。箱だけは、どうか。何も知らないでくれ」
アリエルは一歩進み、老女の箱を見下ろした。そこに描かれた紋章は、見覚えがある――小さな紋。侯爵家の周縁に流れる古い印影。しかしその箱の側面に貼られた紙片には、母の走り書きに似た筆跡がある。
心臓が一瞬、深く引きつる。母の文字。老女の目がアリエルを見やる。
「あなたは……アリエル様のお名前を?」老女は言葉を絞り出すように呼ぶ。声は震え、唇は乾いている。
「そうよ」アリエルは静かに頷いた。「でもその箱が何か、あなたは知っているの?」
老女は歯を噛むようにして首を振る。「知らない。だが……あの日、あなたの母がこの村に流れ着いた。彼女は私にこれを託して言った。『いざというときに、これを頼む。私は行かねばならぬ』と。私はずっと待っていた。待ち続けた。今日、若者が来て箱を奪おうとした──だから、仲間たちを集めて守っただけだ」
言葉は脆い。だがそこにあるのは、確かな人間の痕跡だ。アリエルは静かに息を吐く。母がここに来て、誰かに箱を託した。だが何故侯爵領に、その箱があるのか。誰がそれを狙うのか。
「箱を見せてください」アリエルは低く言った。老女は震える手で蓋を外す。中には小さな木箱。内布を取ると、その中にあったのは薄い銀の小札と、小さな巻物。そして――一枚の写真。白黒に変色した家族写真。そこに写るのは、若い女と、幼い子供。子供の首には小さな同じ模様のペンダントが揺れている。
アリエルの手が勝手に伸びる。写真の向こうにある景色は、彼女の記憶と重なる。胸の奥にあった穴が、新たに爪を立てるように疼く。母はここに何かを託した。母はここで誰かと繋がった。
「この銀札には刻印がある」カイが囁く。小札の表面には、古い王家の系譜を示すような細い線と、消えかけた文字が混じる。意味は深そうだ。巻物を解くと、中には簡潔な文章。暗号に近い言葉で、ある場所の座標と、短い指示が載っていた。
それを読んだ瞬間、セリオンの顔が一変した。「ここに書かれた場所は、王宮の旧貯蔵庫のひとつだ。だがそこは長年、使用されていないはずだ。誰かが――」
言葉にならない一拍。四人の視線が交差する。敵の影は消え、老女たちも静かに跡を引いていく。だが夜の影はまだ濃い。誰かが先に動く前に、彼らは行動を起こすしかない。
「戻る。王宮へ」アリエルは短く命じる。だがその言葉には、揺るがぬ決意がある。母が託したものは、ただの物ではない。王宮の奥底を揺るがしかねない“何か”だ。
帰路、馬車は速く進んだ。空は低く、風が冷たい。アリエルの頭は渦のように忙しかった。母、黒鴉、セリウス、侯爵、北方。糸は複雑に絡み合い、ほどくには大胆な切断が必要だ。しかし彼女は知っている。切断は誰かを傷つける。だから慎重だと錯覚する暇もない。
王宮の門を潜ると、歓声のようにではなく、静かに人々の視線が集まる。昨夜の英雄は今、戻る。だがアリエルにとって英雄とは、形容詞ではなく行為だった。行為は続く。やるべきことは、まだ山積みだ。
夜。アリエルは塔の窓辺で小札を見つめる。銀の札が月光に鈍く光る。巻物の指示を解読するには時間が必要だが、最初の一歩が見えた。母は何かを守るために動き、そしてアリエルも動く。だが黒鴉の言った「代償」が、胸の奥でひかりを放つ。
その夜、城下に新たな噂が流れる。――「王宮の奥の古い貯蔵庫に、長年封印されていた物があるらしい。真相を暴こうとする者が動いている」――噂は刃となって人々の足を速める。公開すれば支持を得るかもしれない。封じれば安全かもしれない。どちらが正解か、誰も分からない。だが選ぶのは、アリエルだ。
彼女は小さく笑みを零し、ペンダントを指で撫でる。
「私は選ぶ。私のやり方で」
嘆きの書記官の囁きが遠くで響く。『代償を忘れるな』――だが彼女の目は、既に次の朝の光を見据えている。歩みは止まらない。刃を握り、真実へと進むのだから。




