第35話『母の影を継ぐ者』
夜の余韻は、まだ肌に張り付いている。城壁に残る焼け跡、吹き荒れた風の匂い、硝煙で黒ずんだ衣の端――それらが「昨夜は終わったが、何も終わってはいない」と告げていた。アリエルは石段に座り、手の中の小さな物を見つめた。それは――黒鴉が残していったものだ。
銀の小さなペンダント。表面には見慣れた模様が刻まれていた。子供の頃、母が首にかけていた紐にぶら下がっていたものと似ている。指先が震え、記憶の襞がひらく。母の手、台所の灯、聞き慣れた歌。胸の中で何かが波打った。
(なぜ――こんなものを)
その疑問は、恐ろしく、同時に鋭かった。黒鴉は昨夜、彼女の前に現れ、影兵を操って見せた。敵か、利用者か、あるいは――もっと複雑な存在か。だが確かなのは、彼は彼女の「選択」について語ったこと。いま、その言葉が胸の中で再生される。
「君の選択が、世界を変える」
アリエルはペンダントを握りしめ、目を閉じた。思考の奥で嘆きの書記官の囁きがざわつくが、彼女はそれを遮って静かに呼吸した。選択。いつもそうだった。刈り取るのか。赦すのか。国を取るのか、自分を取るのか。だが今回は、個人的な復讐と国家の未来が、手の中の小さな銀細工で結ばれている。
「カイが来てる」
声に反応して顔を上げると、カイが影のように近づいていた。彼の目は疲れているが、どこか固い決意に光る。
「黒鴉が……ペンダントを落としてった。君の母のものだ、と確かに言っていた。俺も確認した。模様が一致する」
「どうして持っているのか。何を意味するのか」
カイは唇を噛んだ。「彼は……北方の情報網に深く関わっている可能性がある。だが同時に、彼が君の過去を知っていたのは確かだ。名前、幼少の記憶、母のことまでも。偶然ではない」
アリエルの心臓が小突かれたように早くなる。母の名が紙片の中にあるのは、偶然ではない。誰かが、彼女の過去を掘り返している。誰の利益のために。
「彼は私を“選択”に誘った。王か、彼か。国か、闇か。どちらを取るか、と」
カイが顔を曇らせる。「危険だ。利用されるだけの価値しかないかもしれない」
「でも、あの言い方――“君に似合うのは深い場所”って。何を意味しているのかは知りたい」
アリエルはゆっくり立ち上がると、ペンダントを首にかけた。冷たい金属が胸に触れる。指先に覚えのある温度が残る気がした。胸の痛みは薄らぎ、代わりに決意が固まる。
「行くわ。直接、彼と話す」
カイは驚いて顔を上げた。「一人では危険だ。ローレンやセリオンを――」
「来ればいい。けど、私が決める。私のことだから」
その声には、いつもの冷たさと燃えるような熱が混じっていた。カイはしばらく見つめ、静かに頷く。
城の外、南門に向かう道はまだ混乱の残骸が散らばっている。だが朝は確実に昇り、道行く人々の顔にも新しい警戒と希望が混じっている。アリエルはカイと共に馬に跨り、ローレンとセリオンが並走する。三人の影が長く伸びる。
追跡の糸は、黒鴉が消えた方向、古い監視塔の方角へ向かっている。塔は廃れかけていたが、北風が吹き抜けるたびに独特の気配を放っていた。そこに辿り着いたとき、塔の入口には一枚の紙が貼られていた。血のように赤い文字で一行だけ。
「来るな」
アリエルは紙を指で触れ、顔に笑みを作る。その笑みは、挑発を受けた犬のようだ。
「来るなって。馬鹿ね」ローレンが言う。彼の手は軽く震えているが、言葉には不安より守りたい気持ちが滲む。
アリエルは扉を押し開ける。中は湿って冷たく、影が壁を這っていた。奥へ進むほどに、空気が濃くなる。足音が反響し、四人の息が高まる。
最深部で、影が層になって蠢いていた。黒鴉はそこにいた。黒い外套を脱ぎ、薄い灯火の前に立つ。顔は仮面を付けておらず、赤い双眸が密やかに光る。だがその表情には一瞬だけ、人間の影が差した。
「来たか。約束を守ったのだな、母のしるしを」黒鴉の声は思ったより柔らかい。
アリエルが一歩進む。胸の中の刃が震える。だが問いは冷たく滑った。
「あなたは誰? なぜ母のものを持っている?」
黒鴉は答える前に、ぽつりと言った。「君は、選べる立場にいる。だけど君は“誰か”のために選ぶのか、自分のために選ぶのかを決めねばならない」
その言葉は夜のように重い。アリエルは答えを探す。だがその瞬間、黒鴉が動いた。ゆっくりと、そして確実に。彼の手の中には、一枚の古い手紙。インクはにじみ、角は擦り切れている。差出人の署名は――アリエルの母の筆跡と酷似していた。
心の中が冷たく凍る。信じたくない線が一つ、二つ、繋がる。母はただの被害者でなかったのか。母の過去が、何か別の物語の一部だったのか。黒鴉はゆっくりと紙を広げ、声を落として読み始める。
「『もし私が消えるとき、これをあなたに渡して』――君の母はそう書いていた。あの日、彼女は“何か”を守るために消えた。そしてその“何か”が、今、君の選択を迫っている」
言葉が落ちるごとに、アリエルの世界は音を立てて崩れそうになる。選択。母の名。影の誘い。すべてが絡み合い、彼女の手の中に来る。
セリオンが低い声で言った。「もし、それが事実なら――我々は真実を掘り下げる義務がある」
ローレンは彼女の手を掴む。「君は一人で背負うな。俺がいる」
アリエルはゆっくりと目を上げ、四人の顔を順に見る。目の奥に、決意の光が戻る。復讐は刃として使うだけではなかった。真実を取り戻すための道でもある。母のために、国のために。
「いいわ。選ぶ。でも――私が自分で選ぶ。誰の代弁でもなく、自分の意志で」
黒鴉は小さく笑った。その笑いには賞賛めいたものと、虚無めいた予感が混じる。
「では始めよう、アリエル。君の選択の代償は――大きい」
扉の外で風が吹いた。四人の影が長く伸びる。選択の時は来た。だがその代価が何であるかは、まだ誰にも分からない。




