第30話:裁きの前夜、硝煙と月影
王宮の夜は、いつもより厚く、そして不穏だった。
軋む床板の一音、遠くで鳴る水の滴、兵士の巡回の足音——それらが折り重なって、まるで何かが今にも崩れ落ちそうな静けさを作り出す。アリエルは書斎の窓枠に肘を置き、凍るように冷たい夜風を胸に吸った。帳簿はいつものように、彼女の膝の上で重く眠っている。
(明日だ。全てを曝露する日だ)
彼女の内側で声が繰り返す。だが「曝露」は終着点ではない。曝け出した後の収束をどう操るか、それが勝敗を分ける。
その晩、王宮には既に緊張の鎖が張られていた。近衛は配置につき、黒鴉は影の網を密にし、ラドウィンは玉座の傍らで眠れぬまま書類を睨む。セリオンはアリエルの側にいて、言葉少なに彼女の安全を確かめている。二人の距離は近く、しかしその距離の千分の一も言葉に出さない約束を含んでいた。
「君が明日ここへ出ることは、王も承知している」セリオンが低く囁く。
アリエルは小さく笑って肩をすくめる。「承知でなければ、私がやる意味はないわ」
彼の手が彼女の腕に触れる。短く、確かな触れ合いは暖かかった。外側で竪琴のように張り詰めた空気が、ほんの一瞬だけ和らぐ。
翌朝。広場には群衆が溢れ、噂が熱を帯びている。マルクスの名が人々の口で反芻され、誰もが「変化」を期待しているようだった。アリエルは玉座の前で立ち、深呼吸を一つしてから、ゆっくりと帳簿を掲げる。今日の狙いは単なる暴露ではない。彼女は民の心を味方につけ、法の流れを動かし、逃げ場を塞ぐことを狙っていた。
「本日ここで提示する証拠は、王国の安全を脅かす行為の痕跡です」──彼女の声は、会場の隅々まで澄んで届く。「我々は、外部勢力と内通した者たちの網を切り崩すために、事実を公開します。だが問うのはただ一つ。誰がそれを命じ、誰が利益を得ていたのか——」
紙をめくる。写真、写し、封蝋の比較図、焼け跡の断片。観衆の息遣いが一つに寄る。そこにあるのは、数字の羅列ではない。人の顔、子の笑顔、消えた父の足跡。アリエルは物語を紡ぐ名人であり、それが今日の武器だ。
だが、壇上での彼女の語りが佳境に入った瞬間、会場の一角で小さな混乱が生じる。侯爵家の弁護士が、突如として大声で抗議を始め、証拠の真正性を声高に疑った。騒ぎは瞬く間に広がり、群衆の注意がそちらへ向く。策士は常に一手を残している——それが彼女の読みだった。
セリオンが即座に弁護士の動きを封じるために前へ出る。だがその間に、ラドウィンの顔が変わる。王は何かに気付き、立ち上がる。人々のざわめきに交じって、遠くで一発の乾いた音が鳴った。銃声か、それとも石が落ちる音か——その瞬間、空気が凍る。
「射撃! 外郭から!」誰かが叫ぶ。近衛が一斉に動き、群衆が恐怖でざわつく。アリエルは瞬時に反応する。帳簿を胸に抱え、低く身をかがめる。視線は自然に群衆の動きと、空の一点へ向かう。煙の匂いが鼻を搔き、硝煙の微かな味が空気を支配し始めた。
外郭の方角で、もう一度銃声が鳴る。狙いは――人々の混乱を誘い、審議を中断させることだ。だがそれだけでは済まない。アリエルはその銃声の周波数と弾丸の残骸を――既に幾度も分析してきた情報と瞬時に照合する。指先が冷たくなる。痕跡は北方製ではあったが、銃の構造に微細な改造痕がある。外部勢力との接点が、再び明白になる。
「罠だ」セリオンが低く言う。「彼らは外部の介入を演出し、我々に内的圧力をかけようとしている」
「内と外の連係は一つだ。だが、今日の目的は——」アリエルは言葉を切り、群衆に向けて静かに話し始める。「恐怖が真実を覆う前に、顔を見てください。誰が、誰のために動いているのか。恐怖は奴らの武器です。私たちはそれを知らねばならない」
その瞬間、場の空気が変わった。民衆の中のいくつかの声が沈黙し、代わりに別の声が上がった。――「私たちは知る」「私たちは見る」と。群衆の視線が再び証拠に戻る。感情は方向を変える。アリエルの計算は、また一つ正しかった。
だが、真の異変はその後に訪れた。王宮の北塔で、急報が入る。セリュス・グランヴァンが、王の私室へ侵入したと。侵入者は衛兵を斬り伏せ、玉座へ向かっているという。驚愕が一瞬で会場を支配する。セリュスの名が出たとき、アリエルの胸は冷たく締め付けられた——それは彼女が恐れていた「最後の逃げ道」が閉じられる前に向けられた刃だった。
「誰が彼を掩護したのか!」ヴァレンが怒鳴る。近衛が一斉に北塔へ走り出す。だが城の内部が騒然となる間に、兵力は分散し、外部の小隊が再び動き始める。セリュスの暴挙は、単なる個人の反逆ではなく、全体の混乱を狙った壮大な煙幕だ。
アリエルは帳簿を握りしめ、心の中で嘆きの書記官の言葉を反芻する。『刈り取るほどに、代価は増す』――代価は今、目の前で現実の形を取り始めている。だが彼女は退かない。むしろ前に出る。今日の公開のために民の目を集め、真実を晒すためにここまで来た。戻ることは、裏切りに等しい。
「ラドウィン殿下!」セリオンが叫ぶ。王子は既に剣を帯び、玉座の前で指示を出している。だが一瞬の隙を突かれて、扉が大きく開く。そこに現れたのは、血に濡れたマントと、白い髪の男。セリュスだ。彼の瞳は狂気に近く、しかし計算された冷たさを失っていない。
「王よ」セリュスは嗤うように言った。「我が国は弱い。汝らの優柔不断は外敵を呼び入れ、民を食い物にする。私は彼らを止める。だが止める方法は一つ——かの腐敗を根絶するのみ」
その声は奇妙に正義の仮面を被っている。会場の誰もが一瞬迷う。だがアリエルの瞳は静かに燃えた。彼が語る「正義」は、血に染まった独裁へと繋がる。露呈したのはただの暴力だ。だがその暴力が暴露の炎を消し去るための最終手段であるとしたら、これは最悪の事態だ。
刃は交錯し、城内は瞬く間に戦場へと変わった。弓が張られ、剣が光る。群衆は後退し、火の手が塔の一角を舐める。アリエルはセリオンの腕を掴み、小さな声で囁いた。
「これが—最後の夜かもしれない。だが、真実は光に晒す」
彼はそっと頷き、彼女の手を強く握った。言葉は少ない。しかし、その握りは約束だった——たとえ来世が崩れようとも、この命で刈り取ることを止めないという約束。
――その瞬間、遠くで轟音が鳴った。塔の更なる一角が爆ぜ、火煙が空を染める。空に赤が走り、城の影は一層深く落ちた。
アリエルは一言だけ呟く。いつもの言葉を、今は刃のように薄く、しかし鋭く。
「まだ、終わらない」




