第3話:母の仮面がひび割れる夜
夜のレオノール邸は、表向きは静寂に包まれていた。だがその奥底では、見えない歯車が軋むように回り始めている。アリエルが放った“出会いの罠”は、完璧に作動していた。
リディアの私室から、笑い声が漏れている。甘く、艶やかな声。相手の男の低い笑いも混じる。それは――ローレンの声だ。アリエルは廊下の影に身を潜め、微笑を浮かべた。
(まるで前世をなぞるように……でも、今度は私が筆を握っている)
扉の隙間から覗くと、金糸のドレスを纏ったリディアがワインを傾けていた。ローレンの視線は、完全に彼女に落ちている。アリエルは一歩も動かず、その様子を静かに観察した。感情を切り捨て、ただ記録するように。
「……あなたのような若者が、私に関心を寄せてくださるなんて」 「リディア様のような女性を前にして、誰が平静でいられますか」
甘い囁き。ワインの赤が、血のように光る。アリエルはゆっくりと踵を返した。目的は達成された。あとは、毒が回るのを待つだけだ。
翌朝。食卓に座るリディアの表情は、いつもより明るい。だが、その明るさが不自然なほど均一だ。まるで自分の感情を塗りつぶしたような笑顔。
「アリエル、あなた、昨日はどちらへ?」 「学園で課題の相談を。先生方にご挨拶しておりましたわ」
嘘を吐く声は、完璧に透き通っていた。リディアは微かに眉をひそめ、紅茶を口にする。その指先が、カップの縁で震えた。
(動揺している。予想より早く、心に亀裂が入った)
その時、メイドが一通の封筒を持って入ってきた。封蝋には侯爵家の印。リディアがそれを開くと、瞬時に表情が変わった。紙の中に潜むのは、昨夜ローレンが彼女に送った「密会の言葉」と「愛の告白」――だがその最後の署名には、もう一行が加えられていた。
《推薦人:アリエル・レオノール》
カップが割れる。紅茶がテーブルを汚し、リディアの指が震える。彼女は立ち上がり、アリエルを睨んだ。
「……あなた、何を企んでいるの?」
アリエルは目を伏せ、あくまで無垢を装う。その声は柔らかく、氷のように澄んでいた。
「お義母様、わたくし、ただ母の名誉を思って――。侯爵家の方に、母の素晴らしさをお伝えしたかっただけです」
その瞬間、リディアの中で何かが崩れた音がした。怒りとも恐怖ともつかぬ感情が、彼女の瞳に宿る。アリエルはその揺らぎを静かに見つめる。
(いいわ、その顔。ようやく“人間”に戻った。仮面を被った母を、私は本当の姿に戻してあげる)
午後。アリエルは屋敷の裏庭にある温室へ足を運んだ。前世では一度も足を踏み入れなかった場所。そこには、リディアが大切に育てていた白いバラが咲いていた。
花弁に触れ、アリエルは小さく笑う。
「綺麗ね。でも、毒を含ませれば、いちばん長く咲くのよ」
その言葉とともに、アリエルは懐から小瓶を取り出す。無色透明の液体。毒ではない。だが、時間が経てば葉脈を枯らす薬品だ。一本の花にそれを垂らし、静かに瓶を閉じた。
(これは“予告”よ、リディア。あなたの庭も、心も、同じように枯れる)
夜。再び嘆きの書記官の声が、夢の中で響いた。
『君は、一つの運命を動かした。だが覚えておくといい、復讐は相互作用だ。彼女が崩れるたび、君の魂も削れる』
アリエルは夢の中で薄く笑う。
「削れて構わないわ。その欠片で、彼女を埋められるなら」
筆の音が遠ざかる。再び静寂。
アリエルが目を覚ますと、窓の外には赤い月が浮かんでいた。夜風がカーテンを揺らし、部屋の隅に置かれた白いバラが、ひとつだけ首を垂れている。
(始まったわ。これが、私の“正義の悪”の証明)
彼女は静かに笑い、枕元の短剣に指を触れた。鉄の冷たさが、確かに生を感じさせた。




