第29話:血の証言、沈黙を裂く声
公聴会の余波は、まだ王都を震わせていた。朝の露が屋根の上で光る頃、街角には再び群衆が集まり、噂は新しい色を帯びて流れていく。アリエルは書斎の窓から下の喧騒を眺め、短く息を吐いた。帳簿は膝の上で重く、ページが一枚ずつ彼女の決意を鳴らす。
(ここで一つの声を掴めば、次の連鎖が始まる。声は出しにくい。だが出れば世界が動く)
彼女は準備を終え、王宮へと向かった。今日は「公的尋問第二日」。対象は、ついに名の挙がったマルクス・ラヴェール。王宮の高位文官であり、誰もがその名を聞けば首を振るほどの面構えを持つ男だ。だが何より重いのは、彼の側にある「信頼」という鎧だった。
会場は人で溢れていた。貴族の冷笑、民の期待、記者の鋭い視線。ラドウィンは玉座の前で露骨に緊張を隠さず、ヴァレンは書類を押さえ、セリオンはアリエルの側で静かに立っている。場内の熱は一つの点に集中していた——壇上の椅子に座る男、マルクス。
彼の顔は青白く、しかし表情は平静を装っている。公の場での振る舞いは老練であり、嘘を平然とする術を心得ている。アリエルは彼を一瞥し、静かに歩み出た。今日、彼女が狙うのはただ一つ——「沈黙を割る一言」だ。
「マルクス・ラヴェール。あなたは王国の公文書において、複数の不審な改竄と資金流出の痕跡に関与しているとされる。ここにいる国民は説明を求めています。あなたの言葉を聞かせてください」——ラドウィンの声が言葉を落とす。
男はゆっくりと立ち上がり、声を整えて答えた。「私は王のために仕えてきた。私の手は清い。噂と断片だけで人の名誉を傷つけるのは許されぬ」——平然とした拒絶だ。だが会場の空気は微かに揺れた。百以上の目が彼の一挙手一投足を探る。
アリエルは一歩前へ出て、彼の顔を真っ直ぐに見据えた。彼女の声は低く、しかし会場に響く。
「真実は、時に誰かの死の匂いを残します。会計係の証言、焼却現場の焦げ跡、北方使者の荷――それらが示すのは偶然ではなく、意図です。あなたはそれを知りながら、なぜ黙っていたのか」
マルクスは一瞬だけ視線を逸らした。その一瞬が長く感じられる。誰かが息を吸い、誰かが目を閉じる。会場は、沈黙の重さで満ちていた。
「私は……命令に従っただけだ」——マルクスの言葉は震え、普段の冷静さは崩れた。だがすぐに彼は付け加えた。「だが命令は王室の名のもとに来た。誰もが従うべき筋道があったのだ」
その「筋道」。それが示すのは、画面では見えない“上の存在”。アリエルの指先が帳簿の端を押す。彼女は計算を巡らせる——命令の出どころ、渡しの方法、封蝋の痕、署名の消えた頁。点は線になりつつある。
午後、尋問は苛烈になった。弁護士と支持者たちがマルクスを擁護しようと躍起になる。だが民意は変わり始めている。写真、日記、焼けた断片、密輸の証言――アリエルが心血を注いで塗り重ねた物語は、人々の感情を揺さぶった。感動が怒りへ、怒りが要求へと変わる。
──そのとき、一つの声が会場を切り裂いた。被告席の端に座っていた、侯爵家の下働きだった女が立ち上がり、口を開いたのだ。彼女の声は震え、だが確かだった。
「マルクスが……私の父の帳簿を改竄するよう指示した。父はその後、夜に消えた。戻らない」
会場がざわめく。女の顔には泥と涙の跡があり、誰の同情も一瞬にして集まる。彼女は続けた。「父は借金のために仕方なく動いた。だが彼を誘ったのは、金だけではない。『家族を守る』と言われて、私は信じた」
アリエルは彼女の証言に頷く。個が語ることで、抽象は具体になり、味方は増える。民の声は物語を補強する燃料になる。
「あなたはそれでも、命令だけだったと?」アリエルは問い返す。
女は顔を上げ、泥にまみれた手で空を指差した。「いいえ。命令は紙で来た。その紙は……王宮風の印があった。だが封蝋は見慣れぬものだった。だから私は疑った。でも疑いを止めるだけの力は、私に無かった」
その一言で会場は静まり、マルクスの顔色は見る見るうちに青ざめていった。弁護士は慌てて口を挟むが、民の視線はもう弁舌よりも真実を欲している。感情は裁きを加速する。
夕方、セリオンが静かにアリエルを呼び出した。回廊の薄暗がりで彼はそっと言う。
「君は、これで最後まで行くつもりか?」
アリエルは短く笑った。「最後というのは、誰が決める? 私の終わりか、彼らの終わりか」
彼の手がほんの少し彼女の袖に触れる。触れは短い護りだ。ラドウィンが外で待っている。王もまた、決断を迫られている。だがアリエルは知っている——決断の現場では、常に痛みが出る。
夜、ついに転機が訪れる。マルクスは取り調べ室で、監視の下にいた。カイが隣で記録を取り、ミレイユが羊皮を照らす。マルクスは長い独白を始めた。最初は言葉を濁していたが、次第に彼の声は震え、核心に到る。
「私たちは単独ではない。北方からの使いと、侯爵の中間者が接触し、資金と物資を回した。だが……それだけではない。私に命令を出したのは、ある“評議官”だった。名前は——」彼の舌が一瞬止まる。息を吐いて、低く名を発した。「――セリュス・グランヴァン」
その名は、誰もが知る人物だった。城内の古株であり、影のように力を振るってきた男だ。言葉が屋内の空気を裂く。誰かが床につまずく音、誰かが殴られたような呻き。セリウスの名が出ることで、これまでの線がぐっと結びつく。
アリエルは静かに立ち上がる。胸の奥で何かが軋み、だがその軋みは確信へと変わる。セリウス・グランヴァン。王の近くで長年にわたり影響力を持つ男。彼が黒幕ならば、事は単なる密輸では済まない。王国全体を揺るがしかねぬ腐敗の核心だ。
「我々は、これをどう扱うべきか」カイが呟く。彼の若さが、少しだけ震える。
アリエルの答えは静かだが断固としていた。「公開は段階的に。だが逃がさぬ。彼らが動く前に、民の目と法の機構を動かす。王も、それを承認するはずだ」
だがその夜、廊下の影の中で誰かが動いた。低く聞こえる足音。扉の隙間から差し込む灯りが一度、消えたように見えた。
(誰かが“最後の逃げ道”を断とうとしている)アリエルは直感で察する。彼女は短剣の柄を確かめ、窓辺に近づく。向かいの塔の影が、一瞬だけ揺れた――それは、誰かが動いた合図だった。
章の終わりに、アリエルは天を見上げる。星は冷たく、夜風は芯に届く。胸にあるのは重い確信と、もっと重い覚悟だ。マルクスの証言は新たな扉を開けた。セリウスの名が出た今、王宮の大きな歯車が音を立てて回り始める。
「まだ、終わらない」——彼女の囁きは、もはや個の呪縛を超え、王国の運命を揺るがす鐘の一撃になりつつあった。明日、誰が裏返されるか。明日、硝煙はどの方向へ向くのか。答えは近い——だがその近さが、最も危険なものでもあった。




