第28話:硝煙の綻び、紅い約束
朝が来る前に、王都は薄い酸のような匂いで目を覚ました。
誰かが夜を焦がした証拠は、空気の分子に貼りついている。アリエルは窓辺に立ち、冷えた空気を肺に満たした。息を吐くと、白い蒸気が夜の中で粉になる。帳簿の頁はまだ湿っているように感じた。昨夜拾った断片の記憶が、紙の繊維と同じように彼女の指先に食い込んでいた。
(勢いは来た。だが勢いは制御が難しい)
心の中の観察者が囁く。だが囁きは言い訳にならない。勢いを持つ者が勝つわけではない。勢いを与えられた者が動くのだ。
王都の朝は、今日も仕事に向かう人々の足音で満ちている。彼女は帳簿を抱え、馬車へと向かった。今日の舞台は「公聴会」。王と評議の前で、これまで積み上げてきた証拠を一度に示す——だが彼女の狙いはそれだけではない。人の心を動かす「物語」を差し出し、反応を引き出すことだ。人は数字より物語に動く。彼女はそれを知っている。
公聴会の場は静寂をまとっていた。席に並ぶ顔ぶれはいつもより硬い。ヴァレンの指先が折り目を押さえ、ラドウィンは顎に手を当てている。セリオンは、今日も彼女の側に立つ防壁だ。アリエルは立ち上がると、深呼吸をした。声は最初の一音で会場を掴む。
「我々は、事実を追ってきました。だが今日は——事実の“意味”を示します」
言葉を選び、彼女はゆっくりと帳簿を開いた。ページをめくるたびに、会場の空気が少しずつ冷えていく。
「これは単なる金の流れでも、物資の移動でもない。これは——人の命が、計算の材料にされていたという事実です」
ページの上の数字を指さす。幾つかの名前の列が光る。民衆席で女性が顔を覆う。誰かの父、誰かの夫。物語は即座に血肉を得る。
彼女は一枚の写真を差し出す。それは小さな女の子の写真だった。ほころぶ笑顔。昭和の家族写真のように古めかしい。会場は一瞬にして静まる。誰もが、その笑顔の向こうにある欠落を想像する。
「この子は侯爵家の密輸に巻き込まれて亡くなったとされる者の妹です。彼女の家族は、夜の仕事で父を失い、家は崩れ、町に食い物にされた」——アリエルは声を震わせずに、しかし確かな痛みを含めて語る。数字では見えなかったものが、そこに現れる。聴衆の眉が寄る。感情が動く。
ここで彼女は「人気」を狙った工夫を一つ挿入する。従来の冷徹さに加えて、ヒューマン・ビートを強調する。物語は共感を生み、共感は支持を作る。支持は力になる。
公聴会が炎のように燃え上がる中、表では別の動きが起きていた。外郭門近くで、火薬の匂いが再びしたとの通報だ。黒鴉が先陣を切り、近衛がそれを包囲する。アリエルは片手で公聴会を続けつつ、耳には情報を受けるように心を配る。舞台は同時多発する。これを制御するのは王でもなく貴族でもない——民の目と情報網だ。
「情報、来ます」セリオンの低い声。彼の掌で渡された小さな紙。そこには短い一行だけが赤字で書かれていた——「南塔、夜に襲撃あり」。指先が震える。赤字は血の匂いだ。だがアリエルは動じない。動じぬのは演出の一部だ。
「続けましょう」彼女は微笑んだ。其の微笑みは冷たい刃でもある。会場はその微笑みでまた反応する。彼女は改めて証拠を繋げていった。北方の暗号、港の証言、封蝋の断片。そして最も決定的な一枚——侯爵家の密輸伝票に混じっていた、王宮の旧式帳票の写し。複数の手が同じ帳面を触れている。線は一本につながる。
「これらは偶然ではない。陰謀である」――彼女の言葉は届き、民の中に小さな怒りが灯る。だが怒りは刃を向ける対象を欲する。アリエルはその対象を示すために、次の一手を準備していた。
午後、会場の外で小さな騒ぎがあった。侯爵家の弁護士と見られる一団が、匿名投書の一つを掲げて抗議を始めた。「証拠は改竄だ」「陰謀だ」と声高に叫ぶ。だが彼らの声は、かつてのような圧力を持たない。支持は崩れつつある。民の目は、以前より明晰になっている。
その隙を突いて、アリエルは予定していた“露出”を実行する。王宮公式の掲示板に、重要な一行を掲示する。それは——「侯爵家と疑われる複数の口座に、王宮の旧式帳票が混入していた可能性あり。更に調査を国外機関と協議の上で進行」。短い言葉だが、その意味は重い。王宮と侯爵家の接点を公が認めたのだ。
王の顔色が変わる。ヴァレンはその意図を読む。ラドウィンは苦渋の決断を迫られる。だが公の認知は、民を動かす。デマは逆に効力を失い、真実は息を吹き返す。
夕刻、南塔に向かう近衛の一隊に、奇襲がかかる。火薬が爆ぜ、混乱が一瞬で広がる。だがそれは「殺害」よりも「脅し」に近い手段だった。的外れの爆発、小さな放火。狙いは会議を中止させること、そして公の注意を逸らすこと。それに使われた弾薬は粗悪で、北方製の痕跡が残る。外部勢と内通者の両方が動いている証拠だ。
戦いは短かったが激烈で、数名の負傷者が出る。セリオンは血を拭きながら、アリエルに近づいた。彼の息は荒い。目には疲労と怒りが混ざる。
「君の計算通りに動きました。だが、彼らの次の手はもっと醜い」──彼の声は低い。唇の端に血の匂い。
アリエルは淡々と答えた。「醜いかどうかは、これから彼らが見せるもの次第。私たちは目に見える証拠を出し続ける。それが彼らの火を無意味にする唯一の方法だから」
その時、遠くで誰かが叫んだ。人の声が波のように広がる。王宮の鐘が厳かに鳴り、聞こえた声は一つの名前だった。――「マルクス!」
空気が一瞬固まる。マルクスの名はこれまで噂に終わらず、いよいよ公に呼ばれた。誰もがその行方を見守る。彼が表に引き出されれば、城内の構図は大きく動く。
夜、城の中庭。月が薄く、影が長い。アリエルは一人、帳簿を開く。頁の端には、今日あったことの断片が赤で波打っている。人々の名前、証言、そして小さな写真の一つ。彼女の胸にあるのは虚栄でもなければ憎しみだけでもない。これは、彼女が選んだ行為の意味だ。復讐は彼女にとって刃を振るう理由であり、同時に誰かを救う契機でもある。
カイが静かに寄る。彼の顔はまだ若いが、目は深く灰色だ。
「君は、これからも進むつもりか?」彼は単純に訊ねた。
アリエルは顔をあげ、月の光を受けて答える。「ええ。ただし、私一人のためではない。ここにいる人たちのために。私の痛みを、誰かの救いに変えるために」
カイは小さく笑った。笑いは甘くはないが、温かさを含んでいる。「なら、私も刃を研ぐよ」
二人の影が重なり、短く手が触れる。そこにあるのは、静かな盟約。――復讐と救済は揺れ動く秤の上にある。バランスを崩せば、双方が砕け散る。
だが彼らは歩き出す。硝煙の綻びはまだ完全には消えていない。むしろ、その綻びはこれから先、より大きな裂け目となって世界を変えるだろう。
最後に、アリエルは帳簿の頁に赤い線で小さく印を付けた。それは刈り取った数の合図ではなく、「これから刈る」合図だ。彼女の指先が微かに震えた。震えは恐れではない。覚悟の震えだ。
「まだ、終わらない」──その言葉は今や合図であり、誓いであり、物語の予告だった。明日の朝、城は更に大きく揺れる。誰が守るべきか、誰が裁かれるべきか。答えは近い。答えは血と紙と声で決まるのだから。




