第27話:硝煙の前奏、血の証言
朝は薄い刃のように差し込んだ。
城の石は昨夜の熱をまだ引きずっており、空気は少しだけ霞んでいる。アリエルは窓辺に立ち、指先で帳簿のページを撫でる。頁の隙間に挟まれた一枚の写真が、冷たく光る。母の旧姓――自分の記憶の中でひそやかに揺れていた文字が、ここに実物として存在している。その事実は、彼女の胸で小さな嵐を起こすが、表情は微動だにしない。
(感情は刃を鈍らせる。だが、刃が鈍れば人が死ぬ)
彼女はゆっくりと息を吐き、書斎を出る。今日は法廷での冒頭陳述――だが、それは単なる法の儀式ではない。世論の潮目を定め、次の一手を強制する舞台だ。彼女は自分の役割を知っている。復讐者として、だが同時に一人の女として――冷静と激情の均衡を保たねばならない。
王宮の大広間は、朝の光で薄く満ちている。被告席には昨夜拘束された者たちの顔が並び、そこには怯えや開き直り、あるいは屈辱がまざっている。貴族、役人、商人の名が読み上げられるたび、群衆は針のように反応する。だがその合間、アリエルの目は常にあの一行に戻る――母の名。名前は彼女の胸の奥で重く、しかし今は針として役立つ。
ラドウィンが王座に立ち、式は始まった。法務官が書類を読み上げる。アリエルは席を立ち、静かに前へ進む。視線が集まる。彼女のドレスの裾が床をかすめる音が、会場で一拍の「間」を作る。目の動き。間。彼女はこの小さな「間」を、相手の心を削ぐための槍にする。
「本件は、単なる盗賊や密輸の問題に収まらない」──彼女の声は冷えた水のように澄み、しかし凍らせる力を持っている。「我々が掘り起こしたのは、長年にわたる組織的な共謀です。更に問題なのは、その網の一端が――私の家族にまで達していることです」
会場に小さなざわめき。被告たちの顔色が変わる。誰かが袖を噛む音が、かすかに聞こえる。アリエルは母の名を口にしない。名を言わずとも、写真と帳簿と会場の雰囲気が言葉を代行する。
「私は、真実を求めます。正義は私的な復讐と混同されがちですが、ここで求めるのは――被害を受けた者たちに対する説明と、再発を防ぐための制度の是正です」彼女はゆっくりと視線を回し、王と法務官の顔を一瞥する。「同時に、私は一つの証言をここに求めます。真実を知る者は、名を捧げよ。隠蔽を続ける者には、法の厳罰を。」
言葉が落ちると同時に、空気が引き締まる。ヴァレンの顔にはかすかな不安の影。近衛たちの指先が微かに震える。だがその震えは、アリエルにとってはむしろ恩恵だ。人は動揺すると欠陥を露呈する――それが彼女の戦場だ。
午後、取り調べ室。護送された一人、侯爵側の会計係が連れてこられる。顔は青白く、汗が髭に滲む。机の上に差し出されたのは新たに押収された一冊の帳面。そこには夜毎の入金と出金の走り書き、略語の羅列、そして複数の封蝋の痕が残る。アリエルはその頁をめくり、目を細める。
「貴方は、誰のためにこれを書いた?」彼女は静かに尋ねる。問いは柔らかいが刃だ。相手の目の動きが全てを語る。
会計係は最初、言葉を濁す。頭を振り、目線を逸らす。だがアリエルは待つ。間を作る技術だ。人の心は沈黙の重圧の中で、真実を吐き出しやすくなる。数秒後、彼は震える声で名を一つ挙げた。――「マルクス・ラヴェール」。王宮の高位文官の一人だ。
音が落ちる。アリエルの指先が紙の端を押さえ、血の匂いがしないか確かめるように頁を見つめる。マルクスの名はここ数日の調査で断片的に噂されていたが、確実な証拠がなければ王は動かない。だが今、会計係が口にしたその名は、彼女にとっての突破口だ。
「我々はこれを法廷に提出します」アリエルは冷静に宣言する。「証言は記録され、必要ならば更なる証拠を掘り起こします。あなたがここで真実を明かさなければ、次に明かされるのは別の証拠です」彼女は相手の瞳をじっと見据えた。そこには恐怖と希望が同居していた。
会計係はしばらく黙った後、震えながら続ける。「私は……給金と引き換えに幾つかの伝票を処理した。だが最初は小さかった。次第に規模が大きくなった。署名は、私が偽造したのではない。指示は――上から来た」
その「上」とは誰か。会計係の指先が震え、汗が滴る。アリエルはその手を取らぬ。ただし眼差しは温かくも冷たくもない観察者だ。彼の証言は、火を灯すための導火線。だが何より重要なのは、彼が続けた一言――「外部の取引先から来た物資の一部は、境外の軍需品の成分に酷似している」と。
国外と内通。糸は再び交差する。
夕刻、回廊で二人の影が語る。セリオンとアリエルだ。近衛幹部の顔には責務の重さが刻まれている。城の守り手として、彼は既に多くの選択を強いられてきた。
「王は個人的な衝動で動かぬ。だが民は結果を求める。マルクスを公的に追及するには更なる確証が必要だ」セリオンは静かに言う。彼の言葉は忠告であり、同盟の確認でもある。
アリエルは静かに笑う。「私は時間を味方にします。証拠を積み、彼らの動揺を誘います。人は隠蔽するほどに暴露の間隙を作る。私のやり方は非情だが、結果は確かなはずです」
「非情だが、君は正しい」彼は短く頷く。「ただし気を付けよ。『外部』という言葉が出た以上、王都は外交の渦に巻き込まれる。巻き込まれたくなければ、証拠の開示は慎重に」
二人の間に短い沈黙が落ちる。風が古い旗を揺らし、遠くで鷹が鳴く。時間は、少しだけ彼らの肩から圧力を抜く。
夜間、密室での作業。アリエルはミレイユとカイと共に帳簿のページを照合する。小さなランプの灯りが羊皮を照らし、文字の輪郭が浮かぶ。裏表のインクの滲み、封蝋の微かな欠陥、紙の繊維の乱れ――それらを総合することで、外部からの資金ルートが一点ずつ浮かび上がる。
「ここです」ミレイユが指を差す。ページの片隅に残る小さな符号。それは、北方の一つの商団が使う暗号記号と完璧に一致する。誰かがそれを隠れて使った。誰かが王宮の文書の中に北方の印を忍ばせたのだ。
アリエルは顔を上げる。瞳に冴えが戻る。母の名の行と、北方の符号と、マルクスの関与。糸が一本、強く結ばれる瞬間だ。彼女は静かに呟く。
「繋がった」──それは宣言ではなく、覚悟の表明だ。
深夜、城門の外で小さな騒ぎが起きる。黒鴉の若干が北方商団の使者を確保した。使者は驚きと恐怖で目を潤ませているが、取り調べの結果、彼の荷の中からは王宮の書式に偽装された伝票と、侯爵家の古い織物の断片が出てきた。外部の物資が内通者の手を経て運ばれていたことが、証拠として確定する。
アリエルはその報告を受け、胸の中に薄い満足を感じる。だが満足はすぐに消え、次の予感が替わりに来る。――誰かが動揺し、そして逆に刃を向けてくる。復讐は相互往還であり、刈り取るほどに返り血を浴びる。
嘆きの書記官の囁きが、夢うつつのように響く。『刈り取る。刈り取る。だが返るは必ずある』。
アリエルは短く笑った。笑いは乾いていて、闘志の匂いを含む。
「来い」彼女は自分に言い聞かせる。刀身を磨くように、心を研ぐ。名を挙げ、因果を露わにする。母の名も、その因果の輪郭に含まれる――痛みは計算の一部である。しかし彼女は、痛みを他者のために使いたいと思っていた。復讐は個のためではなく、連鎖の終焉を願うための手段でもある。
夜の城は静かだが、内側では複数の歯車が回り始めている。硝煙の前奏は、まだかすかな余韻でしかない。だが次の朝――その余韻は大きな音となって世界を変えるだろう。
「まだ、終わらない」──その言葉は、今や合図でもあり、祈りでもある。アリエルは帳簿を胸に抱きしめ、窓の外の暗い星を見つめた。空は鋭く、冷たい。刃は明日に向けて光を透す。




