第26話:影が割れる時
朝靄が薄く引け、王都の屋根が冷たい銀色を帯びる頃、城内の空気は一つの予感で満ちていた。前夜の逮捕劇が波紋を広げ、誰もが次に来る一撃を待っている。アリエルは書斎の灯りを落とさず、ページをめくる音だけを部屋に残していた。帳簿の行間に、ひとつの空白が気になる。そこに入るべき名がまだ埋まっていない。
(名は増えた。だが、背後の“手”はまだ見えぬ。手はどこに、誰の指とともにあるのか)
目の動きが早い。息の間が短い。彼女はいつも通り、事実と人の反応を同時に読む訓練をしている。窓の外で鴉が一羽、屋根の縁を通り過ぎた。影がひとつ落ちる。影は、合図だ。
午前。王の側近たちが集う小会議室は張り詰めている。ヴァレンは資料の端を押さえ、ラドウィンは先刻の報告書を何度も繰り返し読んでいる。セリオンは窓辺に寄り、外の見張りを気にするように遠くを見ていた。アリエルは静かに席に着き、短く礼をしながら帳簿を置く。
「昨夜の尋問の続報です」セリオンが切り出す。声は低く、しかし確実だ。「守衛長の供述から、更に上層へと繋がる名が出ました。だが……我々にはまだ決定的な“物”がない。口頭だけでは裁は動かせない」
王の眉が寄る。ヴァレンは冷たく笑うように見せて言う。「口を割る者は、いつか手を滑らす。だが我らは相手に猶予を与えすぎた。今が手を打つ時だ」
アリエルはゆっくりと顔を上げ、皆を見回した。視線はふわりと部屋の中を渡り、最も弱そうな角を探し当てる。次に彼女は言葉を選ぶように口を開く。
「手を打つ――もちろん。ただし“見せ方”を変えます。相手を焦らせる“逆圧”を仕掛ける。封じるのではなく、動かさせる。動けば痕跡が残る」
ラドウィンは眉を少し上げた。「逆圧?」
「証拠を段階的に“小さな真実”として放つ。それで相手の動揺を誘い、反応からより大きな糸口を引き出す。私が新たに狙うのは“沈黙の共犯者”だ。言葉に出さない者たち」アリエルの声には冷たい確信がある。
セリオンの頷きは低い。「いい。だが我々は、同時に備える。暴発すれば民が混乱する。王としては、その責任は重い」
王が静かに言う。「やれ。だが私情は挟むな。法で動け」
言葉を受けて、動きが始まる。近衛は夜の巡回を増やし、黒鴉は街の露地の小さな噂まで拾い上げる。アリエルは学園と街灯の周りを回り、民の“気配”を確かめる。民の目は刃となる。刃は正しく向けねば、自らを傷つける。
午後、アリエルは学園の講義室で学生たちを前に、短い講義を行った。内容は表向きだが、その狙いは深い――「情報の読み方」。若い顔が真剣に聞く。彼女は問いかける。
「恐怖と怒り、どちらが偽りを生むか。あなたたちはどう思う?」
手が幾つか上がる。アリエルは一つ一つの答えに軽く頷き、聞く。問いかけることで民意を整える。これは戦術だ。人の感情は、導けば刃にも盾にも変わる。学生の一人が、ぽつりと言った。
「嘘は、慌てた者の口から出ると思います」
その言葉に、アリエルは小さく笑った。笑いに混じるのは、教師としての柔らかさと、戦略家としての冷たさだ。若者の感受性は、彼女の意図した通りに動き始めた。
夕刻、王城の北翼で小さな騒ぎが起きたとの知らせが入る。アリエルはすぐさま現場へ向かう。そこは書記の一翼、文書の集積所だ。扉は少しだけ開かれ、内側からは書類のざわつく音が漏れている。誰かが慌てて隠した形跡がある。
部屋に入ると、散乱した紙片の間に、一枚の写真が落ちていた。古びた写真。肖像は端正な顔立ちの男で、王宮の式典でよく見かける人物――だが、写真の裏には小さな手書きがあった。墨の癖は誰かに似ている。アリエルは指先でその文字をなぞり、目を細める。文字の一部が、先に捕らえられた書記の筆跡と一致する。
(来ている)胸の奥を小さく刺す予感。暴かれつつある“隠れ房”の輪郭が、薄く光る。
近衛が部屋の奥を捜索し、暗がりからは小さな箱が見つかった。箱の中には封蝋の残骸、燃やした痕、そして隠し口座の帳面の一部があった。帳面のページには、先日から追っている印章の断片が何度も現れる。供述だけではなかった。ここに物的証拠がある。
「これで我々は、法の場に出せる」ヴァレンが言った。だが彼の声には微かなためらいがある。法は手順だ。手順は時間を要する。そして時間は、相手に猶予を与える。
アリエルは帳面の頁をめくり、名前の一つに指を置いた。それは、彼女が最も嫌う種の名――信頼を盾にして動く“中間人”の名だった。名は小さく、だが意味は深い。彼らは名を聞くことで初めて顔色を変える。反応は、刃の位置を決める。
夜半、王宮の中庭にて、非公式の呼び出しがあった。ラドウィンは重い表情でアリエルを待っていた。二人は短く挨拶を交わす。王子の顔には疲れと決意がある。
「君は……ここまで来ることを恐れない。なぜか?」ラドウィンが問う。
アリエルは微笑むが、その笑顔は鋭い。「恐れはある。しかし恐れに従うだけで人生を捨てたくはない。あなたはどうして守ろうとするの?」
王子は目を逸らし、空を見上げる。「王としての責務を忘れてはならない。だが私も、人として守りたいものがある。君のやり方は危ういが、結果が正義ならそれを支持する」
ラドウィンの言葉は真実を含む。支持は危険な賭けだが、時に必要だ。アリエルは短く頷き、二人は次の手について簡素に打ち合わせた。王子の影が、その晩は少しだけ柔らかく見えた。
深夜、ついに動きが起きる。近衛と黒鴉の合同作戦で、ある邸宅が包囲された。そこは“中間人”の隠れ家の一つで、表の顔は慈善を施す商人の妻の邸だった。内側は別世界だ。帳簿、封蝋、そして、誰もが恐れていた“名簿の写し”が見つかる。
アリエルは部屋に入ると、息を飲んだ。長机の上に並んだ数十枚の紙。その一枚一枚に書かれた名は、王宮の内外の名士や、港の荷役、人形のように動く中小企業の頭取たち。名が連なれば網になる。網は引かれれば、確かな収束を見せる。
「ここにあるのは、影の名簿の一部だ」近衛が低く告げる。声には重さがある。
アリエルの手が震えたのは一瞬だけだ。ページをめくる指先が確かに名をなぞる。ひとつの名が彼女の目に留まる。思わず顔が強張る。そこには彼女が予期していなかった一つの名前――ある一行の傍らに、彼女自身の母の旧姓が書かれていた。
時間が止まるように感じた。紙の白とインクの黒が、彼女の胸で反響する。彼女は深く息を吸い、顔を上げる。周囲の喧騒が遠くなる。目の前の名が、過去と何を繋いでいるのか。母の名がここにある意味は何なのか。
「何か見つかったのか?」セリオンの声が背後で冷たく鳴る。
アリエルは自分の手を見下ろし、短く笑った。その笑いは誰にも届かないような、崩れた砂時計の音だった。
「これは……想像以上に深い」彼女は静かに言った。「だが、これは証拠だ。私の私情を持ち込むわけにはいかない」
その言葉は自分へ向けられた誓いでもある。彼女は母の名を見つめながら、深く冷静さを取り戻す。個人の痛みは、復讐の道具にしてはならない。だが事実は事実。名簿は、誰かが思ったよりも多くを繋いでいた。
明け方、拘束者たちが一列に並ばされる。民の群れが遠巻きに見守る。王は玉座の前で、声明を読み上げる。法に基づく裁きが始まる。アリエルは帳簿を抱え、群衆と顔を交わす。誰かの視線が彼女を貫く。母の名がもたらす波紋は、静かに広がっていく。
嘆きの書記官の声が夢の隙間から囁く。「刈り取る度に増える因果。君はそれを承知の上で進むのか」
アリエルは空を見上げる。朝の光が彼女の肩を淡く撫でる。答えは変わらない。
「ええ。私は知っている。だが私は止まらない。真実は重くあれ――それが私の復讐の形であるから」
民の中に、静かな拍手が起こる者もいる。誰かの父が救われ、誰かの妻が息を吹き返すかもしれない。だが代償は必ずある。彼女はそれを自分の胸に置く。
影が割れる時、世界は新しい輪郭を持つ。誰が勝者かは、まだ定まらない。だが一つ確かなのは、アリエルの歩みは止まらないということだ。白紙はもう白紙ではない。名簿は裏返り、鏡は割れ始めた。
「まだ、終わらない」——彼女の囁きは、群衆のざわめきと混ざり合い、新しい朝を切り裂いていた。




