第24話:灰色の審判
朝靄が薄れてゆくと、王城の輪郭は鋭くなった。
アリエルは書斎の窓辺で帳簿を抱き、呼吸を整える。名簿の影は少しずつ輪郭を現し、城の中の動きは彼女の計算通りに震え始めている。だが――その計算の外側に潜むものが、最も危険なのだと彼女は知っていた。
(ここで勝っても、勝ち方を誤ればすべては灰になる)
彼女は短く笑みを漏らし、立ち上がる。今日は「審問」の日だ。形式は公的な聞き取りから裁定へと発展する可能性がある。王は慎重だが、民の圧力は強い。アリエルが望むのは“法の光”であって、盲目的な制裁ではない。故に、今日の動きは綿密に組み立てねばならない。
午前。会議室はいつになく人で溢れていた。王、ヴァレン、セリオン、ラドウィン、法務官、そして幾人かの中立評議員。報道は制限されているが噂は街に広がり、外部からの使節も注意深く視界に入っている。アリエルは席につき、静かに資料を机に並べた。ページの端が光を受け、文字が一列ずつ心の中で鳴る。
「まずは事実関係の整理からだ」王が短く言う。声には王の負担が滲む。
アリエルは一歩前に出て、ゆっくりと資料を掲げる。そこには工房の伝票、港で発見された薬品の分析、王宮書記から回収した偽造の証拠、そして先日の“白紙”の製造元を示す断片が含まれている。誰の目にもわかるように、彼女は一点一点を丁寧に並べていった。
「ここに示すのは、単なる偶然の重なりではありません。国外の物資、内通の痕跡、資金の流れ。それらは一本の線で繋がっています」彼女の声は静かだが、会場の温度が少し下がるのを感じた。
ヴァレンの眉がぴくりと動く。だが彼は直ちに抑制された口調で返す。「証拠を示すのは良い。しかし刑を下すには、法的な手続きと被告本人の供述が必要だ。我々は法を守る国だ」
アリエルは頷いた。法を武器にすることこそ、彼女が望む正当性だ。暴力や扇動で勝つのではない。王の前で証拠を示し、法を動かして相手を追い詰める――それが彼女の計画だ。
午後、最初の審問が始まった。侯爵家の関係者の一部が召喚され、公開の場で事情を求められる。被告の顔には疲労と焦りが混ざっている。だがアリエルは彼らを見るたびに、個々の人間の顔と、背後にある大きな手を想像した。刃を休めることはできない。
審問が進む中、突如として場内の扉が乱暴に開かれた。近衛の一部が駆け込んでくる。セリオンの顔が硬い。彼は押しのけるように前へ出て、声を張る。
「陛下――北の門に不審な動き。だがこちらは抑えた。だがもう一件、重要な連絡が入りました。王宮内の書記官のひとりが、審問を前に失踪したのです」
失踪──その一語が、会場の温度を一気に変えた。失踪は逃亡か、それとも隠蔽か。どちらにせよ、事態は深刻だ。王は目を伏せ、ヴァレンは唇を引き結ぶ。アリエルの胸に、薄い氷が張るような感覚が走った。
(誰かが、焦っている。彼らは名簿の影が露見する前に、手を打とうとしている)
彼女の頭の中で、いくつもの筋道が同時に走る。失踪した書記官の身柄を追えば、背後の手が慌てて動きを見せる。追わないという選択は、事態を外へ逸らす危険がある。彼女は直ちに決断した。
「書記官の所在を即座に捜索し、城外への退路を封鎖してください。可能ならば、最後に接触した人物のリストを出すように」アリエルは静かに命じる。王はその指示を受け入れ、命令が出る。セリオンの動きは速い。近衛が城内を駆け回る。
夕方。城内の一角、古い倉庫に近い裏通路で、黒鴉の一隊が何かを発見したとの連絡が入る。アリエルは馬で急行する。そこには、忘れ去られたはずの小さな箱と、箱の横に倒れた紙片があった。紙片は血に少し滲み、インクの輪郭が熱を帯びている。
箱の中にあったのは、急ごしらえの旅券、わずかな金貨、そして一枚の名簿の切れ端。名簿の切れ端には、先に見つかった符号と一致する記号が並んでいた。だが、そこに添えられていたのは――手書きの注記だ。乱暴な字で、こうある。
「灰は飛び、真実は隠れる。だが灰の下に種は残る。刈り取るなら、まず火を扱え」
アリエルはその文字を見て、内心で小さく舌打ちした。これは脅迫だ。だが同時に、誰かが“焼却”という方法で証拠を葬ろうとしていることを示す明確な合図でもあった。相手はかなりの急所を射抜こうとしている。これは計画的な焦りの証拠だ。
(焼く――証拠を。彼らは時間と共に焦り、本能的に物を消そうとしている。追い詰められている証拠だ)
アリエルはカイと近衛の情報を照合し、すぐに動いた。残された旅券の出所から運び屋の一人が特定され、口を割らせるための尋問が始まる。尋問は夜半まで続いた。運び屋は震えながら語った。「命令は上から。王宮のある役人の秘密口座に金が入り、指示は書簡で出た。だが書簡に署名はない。封は熱で曲げられていた」
その情報は、狭かった出口を一つずつ塞いでゆく。アリエルは、それでも心のどこかで最も嫌な可能性を考える。――誰かが、王の知る場所で、火を灯しに行くかもしれない。焼却は“物”を消すだけの行為ではなく、記憶と人をも焼き尽くす行為だ。
深夜、王の私室で緊急の協議が開かれた。王は疲れた顔で座り、ヴァレンは眉を寄せる。ラドウィンは顔色が青白く、セリオンは拳を固めている。アリエルは資料を広げ、事態のまとめを述べた。
「彼らは焼却を企てている。もし証拠が消えれば、我々の公的手続きは瓦解する。だが公的な発砲や大量拘束は、無辜の混乱を招く。私の提案は――二段構えです」彼女は深く息をつく。
「第一段階、我々は“監視”を強化する。特に書類管理となる場所を即時に封鎖し、厳重な夜間警備を置く。黒鴉は外郭を押さえつつ、内部の動きを嗅ぎ分ける。第二段階、もし焼却の相手が動けば、彼らが行動する前に“代替の証拠”を公開する。焼く前に、同時に複数の場所でコピーを晒せば、焼却の意味は薄れる」
王は指先で顎をなでた。策は大胆だが、確かに理にかなっている。ヴァレンは冷たく唇を引き締める。「だがそれは……文書の一斉公開を意味する。敵はそれを阻止するために、より大きな動きをするかもしれぬ」
アリエルは頷く。「それでもやります。焼かれる前に、真実を世界に落ちれば、隠蔽の余地は小さくなる。私が求めるのは――まずは記録を守ること、次に真実を法に委ねることです」
王はしばらく沈黙した。やがて、重い決断を下す。「よかろう。王城の監視を強化し、必要な書類のコピーを複数保存する。だが同時に外交筋には状況を秘せ。外部に不必要な動揺を与えてはならぬ」
命令が出ると、動きは瞬時に広がった。近衛は分刻みで配備を替え、黒鴉は外郭の封鎖を支えた。アリエルは城内の主要な保管庫へ入り、古文書の複写を指揮する。写本師のミレイユは暗がりを走り、羊皮の匂いに包まれながら筆を走らせる。夜は忙しく、そして音が小さい。だがその小さな音が、後の裁きの礎となる。
夜明け前、一通の急報が入る。城外の古い修道院の倉庫で、誰かが火を焚いたという。黒鴉が先に到達して消火に当たったが、そこには焼かれた残骸と、燃え残った羊皮の黒い断片が散っていた。だが不思議なことに、燃え残りの一片には微かにインクが残り、黒鴉の迅速な介入で完全消失を免れていた。
アリエルは燃え残りの断片を手に取り、インクの輪郭を虫眼鏡で追う。そこには小さな印章の痕が残っていた。それは――侯爵家と王宮双方に関係する小さな刻印だった。犯人は焦り、夜半に遠隔の場所で証拠を焼こうとしたが、焼却の技術は拙速だった。完全燃焼を阻む偶然が、彼らの計画を破ったのだ。
カイが隣で息を吐いた。「我々は、一歩遅れたが、偶然に助けられた。だがこれは終わりではない。彼らは次の手を考えているだろう」
アリエルは燃え残りの断片を慎重に包み、胸に抱いた。灰の匂いが指先に残る。嘆きの書記官の囁きが遠くで鳴る。
『灰は飛ぶ。だが灰の下にまだ熱が残る。熱を消す者は、火種を探すだろう』
彼女は頷く。「ならば火種を先に見つけて、摘み取ればいい」――その言葉は小さく、だが鋭かった。
その日の夕刻、王城では公開の巡回が行われ、侯爵家関係者の数名が正式に拘束された。民衆の歓声と野次が入り混じり、王宮の門前は一時的に騒がしくなる。アリエルは群衆の様子を遠巻きに見て、胸に複雑なものを抱いた。勝利の一端は確かに手に入った。だがそれは同時に、次の代償への前兆でもある。
カイがそっと近づき、低く囁く。「今回の件で、君は多くを賭けた。だが――黒鴉の上層にも、動きを固める者がいる。君の動きは、聞かれている」
アリエルは微笑んだが、その笑みには刃がある。「聞かれても構わない。私が望むのは一つ――真実が法のもとに晒されること。ただし、私の選ぶ方法で」
夜、彼女は帳簿の最後の頁をめくり、名前を一つ書き加えた。インクが乾くのを待ちながら、窓の外を見つめる。月の光が淡く城壁を滑る。刈り取った数は増え、来世の重さは確かに増していく。しかしその重さは、彼女を屈服させはしない。
「まだ、終わらない」――その言葉を胸の奥で反芻し、彼女は短剣の柄を撫でた。灰の匂いは風に流れ、城は再び静寂へと沈む。だがその静けさの下で、次なる歯車は確実に回り始めている。




