第23話:名簿の影、裏返る鏡
影は、いつも最初に息を潜める。
城の中で最も小さな部屋――書記台の奥に置かれた古い鏡が、ひっそりとそれを見ていた。鏡には、表と裏が同時に映るような歪みがあった。見る者が自分の顔のどちら側を信じるかで、世界は変わる。
アリエルはその鏡の前に立っていた。手には、カイが差し出した“影の名簿”の写し。羊皮紙は薄く、字は夜の手で走られている。名は伏せられ、記号が並んでいるが、そこに潜むリズムは熟練者の筆跡と一致した。
(名簿の影は動く。だが影を動かすのは、人の“習慣”だ。習慣を読む者は、影の主を掴める)
彼女の目の動きが、次の計算を告げる。短い瞬間に、彼女は複数の筋道を思い描いた。公開して暴く。監視して待つ。あるいは――誘い出す。選択肢は増えれば増えるほど、手は鋭くなる。
「今日、動かすのは“鏡”だ」――アリエルはカイにそれだけ伝え、静かに部屋を出た。鏡の言葉は、他者の鏡像を返すことだ。相手に自分を見るよう仕向ければ、向こうは自らの正体を映してしまう。
午前。王宮の幾つかの会合を横目に、アリエルは学園の小さな講堂へ向かった。生徒たちの顔は好奇で満ちている。彼女は簡潔に話した。言葉は真実に寄り添い、かつ軽やかに。
「物事を疑え。だが、疑うだけではなく、正しい光を当てて見てください」——その言葉は、学ぶ者たちの胸に小さな光を灯した。若者の目は、アリエルの“見せ方”を受け取り、それが次の波紋になると彼女は確信する。民の視線は一度作動すれば、鏡を揺らす。鏡は反射する。
戻ると、カイが待っていた。表情には疲れがにじむが、目は鋭い。彼が差し出したのは、新たに得られた断片だった。――王宮内の小さな交換記録。日付と時間、来訪者の略号。名簿の記号と、つながる可能性。
「ここに、夜十一時の出入りが記録されています。書記局の渡し帳には、その時間に“特殊搬入”があったとある」カイが呟く。声は低く、しかし確信を含む。
アリエルはページをめくり、指で一箇所を指す。そこには、彼女が先に見つけた“下役”の筆跡と一致する小さな癖がある。癖は人間の誤差であり、誤差は真実の核だ。
「誘導を開始する」――彼女の声は冷たく、正確だ。誘導の意味は単純だ。名簿に書かれている“記号”の一つに対応する部屋へ、敢えて“公開の気配”を置く。相手が動けば、彼らは自分の顔を鏡に映してしまう。
夜。王宮の南翼、古い回廊。灯りは薄く、足音が遠く響く。アリエルはあえて目立つように歩き、途中で落とした小さな“忘れ物”をわざと残した。忘れ物はただの紙切れ。そこには、偽の小さな計画図。だが、真実は物語を誘う道具を見逃さない。
数時間後、扉の向こうに微かな物音。影がゆっくりと近づく。人の手つきは、慣れているが緊張している。アリエルは息を殺して隠れる。内側から聞こえる囁きは、細い糸のように伸びる。
「ここにある、これを運べば幕は下りる」――低い声。複数の人物。言葉は断片だが、狙いは明確だった。誰かが、名簿を裏取りするために動いている。
その瞬間、カイが姿を現した。彼は静かに影へ近づき、光を一つ点ける。光に照らされたのは――王宮の一員と見紛う紋章をかけた男。仮面は剝がれつつあった。
「驚いたか?」カイの声は冷たい。男の肩が一瞬動く。影の中の人は、慌てふためく。だが慌てるほど、彼の口は重くなる。
「我々はただの使いだ。上からの命令で動いた」と男は言い訳をする。だが口に出る名は、伏せられたはずの“符号”と一致していた。鏡は歪む。本人は自分の顔を正面から見たことがない。
アリエルは姿を現し、紙切れを拾う。男の瞳が、短く揺れた。目の動きは真実を語る。彼はその一瞬に、己が映る鏡の正体を見たのだ。
「あなたは名前を持っている。仮面は簡単に脱げる」――アリエルの声は静かだが、刃のように尖る。「誰の命令で動いたの?」
問いは直接だ。男の肩が震え、彼は己の指先で唇を噛む。答えは遅れる。だが遅れた分だけ、別の音が近づく。――廊下の向こうから、急ぎ足。近衛の声。罠は閉じつつある。
男はついに名を告げた。それは、小さな震えを伴う瞬間。口に出された名は、城の内のある“上役”の異名だった。上役は帳簿の影の中で静かに動いていた人物。名が出た瞬間、アリエルの内の帳簿に一行が加わる。刈り取りの数は、また一つ増える。
翌朝、王の前での報告は短く厳粛だった。アリエルは一枚の写しを差し出す。そこには昨夜の一幕の記録と、男の自供、そして接触の時間が精確に書かれている。部屋中の空気が重くなる。ヴァレンの顔色は鋼のように固く、ラドウィンの瞳は赤く澄んでいる。
「内部からの関与が確定された」――王が静かに宣言する。言葉の重みが、王宮の柱を震わせる。
「では次に問うべきは、誰がその上役に命じたのか」――セリオンの声が続き、近衛の選別が始まる。アリエルは冷静に見守る。彼女は知っている。真の黒幕は表に出たがらない。出てきた者を追えば、また別の影が見える。連鎖は続く。
会議が解散すると、ラドウィンがアリエルを呼び止めた。彼の顔には疲労と決意が混じり、言葉は短いが誠実だ。
「君は、よくやった。だが君自身が狙われる可能性も高い。私にできることがあれば――」
アリエルは彼の瞳を見て、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。
「陛下の子としての名誉は、あなたの盾になるかもしれません。だがそれは一時のこと。自分の盾は、自分で研ぐものです」――彼女は微笑む。その笑顔の端に、恐れと誇りが同居していた。
ラドウィンは唇をかむ。言葉が出ない替わりに、彼は小さく頷いた。
夜。アリエルは窓辺で一人、帳簿を広げた。名簿の字は増え、影の輪郭ははっきりしてきた。だが、その輪郭の外側に、まだ見えぬ“手”があることも知っている。嘆きの書記官の囁きは、昨日より低く、しかし確実に忍び寄っている。
『刈り取るとき、気づけ。刈り取る相手の背後にさらに刈るべき相がいる。因果は重なる。君の来世は、厚くなる』――その言葉が風のように耳に届く。
アリエルは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。恐怖は無意味ではない。だが恐怖は、彼女の計算を鈍らせはしない。彼女は刃を研ぎ、次の鏡を用意する。鏡は相手の顔を映すだけではなく、時に相手の行為を反射して自らを暴かせる。
「まだ、終わらない」――その言葉は今や、合図であり呪文だ。街は静かに眠り、城は静かに息をつく。だが鏡は割れかけている。割れる前に、何を映すかは――誰の意志か。
彼女は立ち上がり、帳簿を抱いて夜の階段を下りた。刃は冷たい。歩みは確かだ。名簿の影は、今夜も一枚、裏返される。




