第22話:露出の次、影の名簿
朝の光は、いつもより冷たかった。
城下の石畳に伸びる影が長く、夜の熱をまだ引きずっているように見える。アリエルは窓辺に立ち、手の中の小冊子を指で撫でた。頁の擦れた匂いが、昨夜の喧騒を思い出させる。白紙は埋められ、名が一つずつ書き加えられていく。だが名の列は尾を引き、想像よりも深く、――浸透していた。
(次に必要なのは、名簿だ)
彼女はそう確信していた。個々の断片を並べれば絵になる。絵ができれば、誰が糸を引いているかが見える――だがその前に、名簿を覆う“影”を掴まねばならない。
カイが暗いうちに戻り、昨夜の押収品の分解結果を差し出す。封蝋の痕、紙の製造番号、流通ルートの小さな注記。全てはそろいつつある。だがアリエルの眉には、まだ一本の筋が足りない。
「侯爵領の港で回収した箱に、二つの名が書かれていました」カイが言った。彼は疲れているが、目の鋭さは失っていない。「片方は侯爵領の商人名。もう片方は“匿名”として署名されたイニシャル――だが、添えられた刻印が微妙に異なる。刻印の輪郭が代替されている」
アリエルは小さく息を吐く。偽造の技術は巧妙になったが、匠の癖は消せない。そこを掴めば、逆に相手を追い詰められる。
「それを突く。黒鴉に工房の記録を再照合させて。書体と刻印のクセが残る職人を洗い出すのよ」
カイは頷き、また走り去る。彼の背は小さいが、影は長い。
午前、王宮の廊下はいつになく忙しい。来訪者、召集、静かな観察者たち。アリエルはセリオンと短く言葉を交わした。近衛の中で彼が果たす役割は、もはや彼女の“盾”そのものだ。
「今日、私は王に新しい名簿の一部を示す。だが公開は慎重に。箱の中に入っていた“匿名のイニシャル”を曝け出すと、相手は身を隠すだろう。だから先に名のグループごとに“圧”をかけて、反応から真の署名者を引き出す」アリエルは低く説明する。
セリオンは軽く唇を噛んだ。「リスクは高い。だが君の計算は一貫している。王も了承するだろう」
「了承させるわ」アリエルは微笑むが、それは決して温かくはない。「今日は“露出”と“封鎖”のセットをする。外へは最小限の情報を出す。内では捜査を同時に進める」
二人の視線が合う。言葉は少ないが、そこにある信頼は堅い。彼らは共に動くことで、単独では生まれない力を作る――それが今の彼女の頼みだ。
昼、王の前での小会合。アリエルは静かに書類を差し出した。頁を開くと、封蝋の拡大図と職人の筆跡の一覧。王の指先が一つずつ辿る。ヴァレンは白い顔を作り、ラドウィンは紙の角を指で押さえる。
「これにより、侯爵領と王宮の一部の役人が同じ流通経路を使っていた可能性が高まった。だが現時点で露見するのは不利益も大きい。公判に持っていくなら、我々は更に確証を要する」アリエルは歯切れよく言った。
王が静かに言う。「だが市民の懸念は深い。真実を求める声も強い。適切なバランスで示せ」
王の言葉は、政治の重さと同義だ。アリエルは目を閉じる。重さは計算できないが、扱い方は学んだ。人の心は、刃ほどに繊細だ。
「ならば、我が方から段階的に示す。封鎖も並行する。近衛は港からの全出入り記録を公開し、同時に工房の関係者を拘束する用意を」ヴァレンが宣言する。彼の声は玉座の周囲で最も現実的に響いた。
アリエルはそれを聞いて、静かに頷いた。作戦は動き出す。
午後、黒鴉の情報網が、次々と職人の名を上げる。微かな刻印の癖を辿って出てきたのは、意外にも王宮近衛のある下役の名簿だった。名前は小さく、しかし影響は大きい――“書記官の補佐”として長年書類を扱ってきた人物だ。
彼の家を包囲すると、内情はさらにややこしく見えた。金銭的に追い詰められ、借金の返済に困窮していた彼は、誰かからの甘い勧誘に負け、印章の一部を渡していたという。だが帳簿の裏には、もう一つの痕跡があった。彼が押した刻印の一部は侯爵家の納入伝票と一致し、しかも、ある夜、王宮の内部ルートで資材が運ばれた記録が残る。
その夜、アリエルはその下役と対面した。男の顔は土色で、目に絶望の光が宿る。彼は震えながら語る。「始まりは小さな支払いだった。借金の利息を返すためだった。だが次第に、求められるものが増え、断れなくなった」
彼の言葉は単純だが、鋭い。権力に押される小さな人間の話は、いつも胸に刺さる。アリエルは彼の手を取らず、ただ帳簿にその名を記す。名は罪に変わる前に、まず記録される。それが彼女の流儀だ。
「誰に渡したのか?」彼女は尋ねる。男は俯き、だが口をつぐまずに名を言った。――王宮の影を巧みに操る、ある“中間人”。その名を聞いた瞬間、アリエルは冷たい風のように背筋が震えた。彼女の内なる帳簿に、また一つの行が加わる。
夜、事態はさらに転がる。王宮の幾つかの記録が公開され、民の不安は一部鎮まるが、同時に疑念は深くなる。人々は誰を信じて良いかわからなくなる。アリエルはそれを予見していた。だからこそ、彼女は今一つの手を残していた――“名簿”の公開ではなく、その読み方を人々に教えること。
城下で小さな演説を開く。アリエルは民衆の前で、事実を淡々と、しかし明瞭に示した。複雑な因果は簡潔な言葉に落とし込み、誰もが理解できる物語に変える。弱き者の声を拾い、彼女はその声に居場所を与える。群衆の顔はまだ怒りと希望が入り混じるが、情報は彼らを強くした。
終わった後、カイがそっと近づく。「君のやり方は、やはり……巧妙だ。だが、相手はさらに動くだろう」彼は言葉を選びながら続ける。「今夜、王宮で密かに集まる影の名簿を、我々は入手できた。だが公開すると代償が大きい」
アリエルは目を細める。影の名簿――それは王宮の極秘名簿の噂だ。そこに載る名が公になると、政局は激変する。だが封じておけば腐敗は生き延びる。二者択一の重さを、彼女は知っている。
「見せて」アリエルは静かに言う。カイは小さな箱を出し、そこから薄い羊皮を一枚取り出した。羊皮には鉛筆で走られた名がある。だがその多くは省略記号で隠され、読み取るには照合が必要だ。
「これをどうする?」カイの声が震える。彼もまた若者だ。だが覚悟はある。
「我々はこれを“監視”する。今日の流れで反応する者を引き出す。名簿は露出させない。だが、名簿の影で動く者は、いつか手を滑らす。反応が出た時、その手を掴むのよ」アリエルは答える。計画は苛烈だが、彼女の目は揺るがない。
カイは深く息をつく。二人は、暗がりの中で名簿を分け合い、刃を研ぐように次の手を練る。夜は深く、そして重い。嘆きの書記官の囁きが遠くでこだまするような気がしたが、アリエルはその声に背を向けて、帳簿に新たな一行を書き加えた。
「まだ、終わらない」——その呟きは、もはや合図でもあり、誓いでもある。影は名を持ち、名は影を剥ぎ取られる日を待つ。彼女の手は冷たいが確実だ。刃先は次の地図を描いているのだった。




