第21話:白紙の裏側
朝靄が城を包むと、人の声はまだ寝ぼけていた。だが王宮の輪郭は、眠りを知らない。噂は夜のうちに身を翻し、朝の光で新たな形を取る。アリエルは窓辺に立ち、霧の切れ間に見える王都の屋根をじっと眺めた。帳簿はまだ膝の上にある。昨夜ばら撒かれた文書と、その中に混じっていた一枚の白紙が、彼女の頭から離れない。
白紙――一見、何も意味を持たぬその紙は、波紋を呼んだ張本人でもあった。誰かが意図的に残した余白。彼らは、空白で考えさせ、恐怖を植え付けた。だが空白はまた、読み解く者にとっての扉でもある。アリエルはその扉を開けたかった。
「カイ、朝の報告を」
黒鴉の若者は静かに部屋へ入り、昨日の押収リストと聞き取りメモを差し出した。顔は疲れている。だが目は冴えていた。彼の手が震えて見えたのは、喜びの宿らぬ疲労だ。
「港の監視で、新たな蓄積が見つかりました。一度は焼却された貨物の残滓――だが完全ではなかった。残骸の一片から、新種の繊維が見つかり、これが侯爵家の私紋と一致する織り方と判定されました」
カイの声は淡々としているが、内容は鋭利だ。証拠はまた一つ、侯爵家の周縁に接続される。
アリエルはその報告に小さく頷き、白紙に視線を戻す。紙の繊維を透かし見ると、ほんの微かな地紋が見えた。普通の白紙ではない。古い羊皮や高価な和紙のように、紙自体が持つ“物語”を彼女は嗅ぎ取っていた。
(紙は、誰の手で、どの道具で作られたのか。そこに虚偽が紛れ込む余地はない)
彼女はそう思い、部屋を出た。今日は特別な用件がある。城の記録局へ行くのだ。王宮で最も退屈だが、最も多くを抱える場所。歴史と事務が溶け合う隠れ家だ。
記録局は低い天井と棚が並ぶ、紙とインクの匂いに満ちた場所だった。そこで彼女を待っていたのは、薄い眉の中年女性――ミレイユ・アルマン。王宮の写本師として知られ、古文書の匂いで人の出自を嗅ぎ分ける人だ。アリエルは彼女に敬意を示しつつ、一枚の白紙を差し出した。
「ミレイユ殿、この紙を見て戴けますか?」
彼女の問いには、余白がある。ミレイユは紙を受け取り、ゆっくりと目を細めた。長年、文字に囲まれた瞳は細かな差異を逃さない。
「これは……古い王宮の手漉き紙ですわ。製法と縁の切り方、地紋の入り方から推測すると、作られたのは十五年前。だが普通、王宮の正式文書には使わぬ種類。誰かが特注させた可能性が高い」
ミレイユの指先が紙の端をなぞる。そこには微かな濡れた跡が残り、消し跡とも違う不規則な筋が見えた。
「つまり、誰かが“王宮の様式を模して”作らせた」
アリエルの声は低い。模倣。偽装の匂いがする。だが模倣には生産者の匂いが残る。どの工房、どの夜、誰が糊を差し出したのか。そこへ辿ることができれば、空白を埋める手がかりが掴める。
ミレイユは小さく笑った。だがその笑みに翳りがある。「あなたは相変わらずですね、侯爵令嬢。紙の息まで読むとは」
アリエルは小さく微笑み、次の手を示した。
「その“誰か”を突き止めたい。黒鴉の協力で、城外の紙問屋と工房を洗って貰えるかしら」
カイが即座に頷く。「すでに動いています。昨夜から潜んでいた者たちが幾つか引っかかりました。小さな製紙工房が、王宮の名を利用して注文を受けていた記録があります」
「良い。行きましょう、ミレイユ殿」
三人は記録局を出る。外は春先の冷たい日差しが差し、城下の石畳は朝露で光っていた。
工房は港町の脇にあった。そこは豪奢ではなく、けれど手仕事の誇りを持つ場所だ。職人たちの手は紙の上を滑り、昔ながらの道具が並ぶ。だが空気は殺伐としていた。監視と聞き取りが始まると、職人の一人が震えながら吐露した。
「王宮からの注文は、確かに入りました。封蝋は壊れかけた紋で、印はあいまいで。支払いは早く、分割で。だが最後の送金は、侯爵家の書記からの伝票でした」
言葉はまっすぐだった。職人の指先にインクと糊がこびりつき、証言の信憑性が増す。アリエルの胸は静かに躍る。点が線に繋がる瞬間だ。
「侯爵家の書記……マリオの痕跡か?」カイが尋ねる。マリオは既に捕縛されているはずだが、書記という“中間”の存在は別に存在する。ネットワークは一枚の網である。切っても、別の線が残る。
職人の話は続く。「だが、別の伝票には王宮の書記局に近しい人物の印もあった。書類は“二重生成”され、表を侯爵家名、裏を王宮名にしていた。取引は巧妙に偽装されていたのです」
ミレイユが息を吸った。「偽造だけれど、模倣ではなく“共謀”。片方の手が隠し、その手が別の顔を持つ。始まりは混乱、次は掩護」
アリエルは硬く唇を結ぶ。彼女の計画は、ほんの少しずつ、しかし確実に核心へ迫っている。白紙の裏には、偽造の全体像が映っていたのだ。
だが手続きはいつも理詰めで済むわけではない。戻る途中、路地裏で小さな騒ぎが起きた。若い女が追いかけられ、叫び声を上げている。人々はそれをただの喧嘩だと見なして通り過ぎる。しかしアリエルは足を止め、間を読む。女の目には恐怖以外の何かがある――訴え。
「助けて!」女は短く叫ぶ。アリエルは一歩踏み出し、その叫びで止まった男の袖を掴んだ。男は驚いて手を引き、群衆の中で逃げた。女は震えながら、アリエルの手を掴んだ。
「侯爵令嬢様、私の父が……侯爵家の命令で港で働かされました。あの日、私の父は箱を運んで、帰らぬ顔になりました」
女の声は掠れていた。言葉は直接的だ。これまでの調査で浮かんだ“個の声”が、ここでも形を成している。
アリエルは女の顔を見つめた。名前を尋ね、住所を確かめ、手帳にメモを取る。だが胸の奥の冷たさは増す。個々の事情は互いに繋がり、歪んだ巨体を形作る。その巨体を切り崩すためには、冷たい刃と温かい証言――両方が必要だ。アリエルはふと気づいた。彼女の復讐はいつしか、弱き者の声を代弁する仕事になっていたのだ。
「あなたの名と父上の例は、記録に残します。安心してください」彼女は女の手を優しく握った。言葉は慰めであり、約束でもある。
夜、城に戻ると小さな会合が開かれていた。王は書記局の報告を受け、ヴァレンは顎を撫でる。セリオンは静かに座り、カイは窓の影から顔を覗かせる。ミレイユの手元には、工房から回収した伝票と侯爵家の旧記録の断片が重なっている。
「これで一部の流れが裏付けされた」ミレイユが言った。「しかも面白いことに、白紙の紙は侯爵家の一部が、王宮の形式に“擬態”させるために用意した物と一致する」
王の顔が硬くなる。ヴァレンの視線が冷たくアリエルを測る。
「侯爵家の庇護者が未だに手を伸ばす。だが、これが直接的な“証拠”になるのかは別問題だ。法は証拠と言質を求める」ヴァレンの言葉は冷徹だ。政治は必ず慎重を要求する。
アリエルは帳簿を開き、そこに昨夜拾った名前を一つずつ書き加える。インクの輪郭は夜の影のように濃くなっていく。嘆きの書記官の声が、眠りの隙間から囁いたように聞こえた。
『一枚、一枚。白紙を埋めるたびに、運命の鉤が深く刺さる。覚悟は揺るがないか?』
彼女は短く笑い、ペンを走らせた。「揺るがない。揺るがしてはならないから」
会合は解散した。だが、静かな決意が部屋に残る。白紙はもう空白ではない。そこには製作者の息遣いと、連携の紐の一端が写っていた。次に何をすべきか。答えは明確だった――声を重ね、証拠を束ね、公開の場で真実を砕く。だがそれは同時に、より深い敵を露わにすることでもある。
アリエルは窓の外へ目をやった。月は穏やかに、だが確かに遠い。彼女の手の中には新たな紙片。白い地に黒い文字が増えていく。刈り取られる数は増えるだろう。だが今、彼女の足元に集まるのは、未来へと繋がる確かな糸であった。
「まだ、終わらない」――彼女は再び呟いた。声は生温かく、冬の空気に溶けていく。だがその言葉には以前よりも強さが宿っていた。白紙の裏側に新たな文字を刻むために、彼女は一歩を踏み出すのだった。




