第2話:微笑の下に仕込んだ刃
朝の光が差し込むレオノール家の大広間。金のカーテンが風に揺れ、テーブルの上では白磁のカップから紅茶の香りが立ち上る。穏やかな朝食風景――少なくとも、外から見ればそうだった。
アリエルはゆっくりとスプーンを回しながら、義妹セリーナの表情を観察していた。リディアが父の隣で柔らかく笑うたびに、セリーナの眉がわずかに引きつる。その震えは、前世でも何度も見たものだ。焦りの兆候。
「お姉様、今日は学園へお出かけになるの?」 「ええ。少し、先生と話があるの」
アリエルは笑顔で返す。その瞬間、リディアの手が止まった。わずかな沈黙。そこに漂う緊張を、誰も指摘しない。だが、アリエルの耳にははっきりと響いていた。――不安。リディアは彼女が何かを掴んでいるのではないかと恐れている。
(面白い。やはり、覚えていないのね。私が未来を知っていることを)
フォークを静かに置き、アリエルは立ち上がる。目元だけで微笑みを残し、食卓を後にした。その背中を見送りながら、リディアの笑顔がわずかに歪んだ。
馬車の中。革張りの座席の上で、アリエルは小さな帳簿を開いていた。手書きの文字がびっしりと並ぶ。復讐対象リスト――それはもはや怨念ではなく、冷徹な業務計画に近い。人物ごとに『信頼』『秘密』『弱点』の欄が設けられ、まるで商談の帳簿のように整然としている。
その最初の名前には、ひとつの印がついていた。
【第一目標:侯爵令息ローレン】
前世でリディアの愛人として暗躍し、アリエルを裏切った男。だが彼はこの時点では、まだリディアに近づいていない。今なら、彼の“未来の忠誠”を奪える。
(彼を利用して、リディアの足場を崩す。最初の一手としては上出来ね)
アリエルは唇に触れ、冷たい笑みを浮かべた。鏡越しに見る自分の瞳は、深紅の刃のように澄んでいる。
学園。白い石造りの校舎と、華やかな制服。廊下を歩く少女たちの笑い声が響く中、アリエルの姿だけが異質だった。背筋はまっすぐ、目線は常に一点を射抜いている。そんな彼女の存在感に、周囲の生徒たちが自然と距離を置く。
「レオノール嬢、お久しぶりですね」 声をかけてきたのはローレンだった。金髪を軽く揺らし、笑顔を浮かべる貴公子。その瞳の奥には油断と自信が同居している。
「ええ、ローレン様。あなたのお噂はいつも耳にしておりますわ」
アリエルはそう言いながら、目線をわずかに落とす。計算された仕草。相手の優越感をくすぐり、会話の主導権を握らせる――その上で、少しずつ毒を流し込むのが目的だった。
「ところで……ローレン様、少しお時間をいただけます?」 「え? もちろん、僕でよければ」
二人は校庭の片隅、花の咲く小道に移動した。アリエルはカバンから一枚の紙を取り出す。手書きの推薦状――宛名は“侯爵夫人リディア・レオノール”。
「母の事業について、あなたの助力をお願いしたいのです。あなたのような聡明な方なら、必ず彼女の目に留まるはずですわ」
ローレンは一瞬、目を見張る。まるで運命の扉を見つけたように。そして、彼は紙を受け取った。その瞬間、アリエルは内心で勝利を確信する。
(これでいい。母に“運命の出会い”を与えたのは、他ならぬ私。導線は、私が描く)
だが、ローレンが去った後、アリエルは深く息を吐いた。胸の奥に、微かな痛みが残る。前世の裏切りが蘇るたびに、心の中の氷がひび割れそうになる。
「……情なんて、もういらない。必要なのは秩序を壊す計算だけ」
それでも、指先が少しだけ震えていた。復讐とは、感情を殺すことのはずなのに――その感情の死に際が、一番美しいと知っている自分がいた。
夜。再び屋敷。窓辺で紅茶を冷ますアリエルのもとに、メイドが駆け込んできた。
「お嬢様……! 奥様が、急にお召し替えを……それに、客人が……!」
アリエルは唇の端を上げる。予定より早い。運命の糸は、もう動き出していた。
「そう。なら、見届けましょう。私の仕立てた“出会い”の瞬間を」
月光がカーテンを照らす。アリエルの瞳に、銀の光が宿った。
(さあ――始まりの一手は打った。次は、あの女の心を壊す番)
そして彼女は微笑む。その笑顔の下に、誰にも見えない刃を隠しながら。




