第18話:氷割れの合図
音は小さく始まった。城壁の下で、井戸を打つような一拍。
けれど、その一拍が伝播すると、細い亀裂が氷の面を走るように、いくつもの秘密がひび割れを起こした。
アリエルは静かに立っていた。王宮の外郭を示す古い見張り塔の影に、帳簿を抱えて身を寄せる。息を整える。夜風が頬を冷やし、彼女の黒いドレスの裾をかすかに震わせる。胸の中の鼓動は、昨夜よりも冷たく、しかし確実に早い。
(ここが正念場。王家も、黒鴉も、国外勢力も――全員が互いの顔色を窺っている。奇襲はいつでも来る)
彼女は目を細め、遠くの城門の灯りを数えた。灯はまばらで、人の行き来も少ない。だが石畳には足跡が残り、足跡は必ず「誰か」を示す。
小さな紙片が、彼女の手の中で震える。昨夜カイが持ち帰った証拠の断片——北方の暗号、王宮書記の隠し帳、そして侯爵家の家紋を模した痕跡。すべてが互いに絡み、複雑な紐を作っている。解きほぐすのは忍耐。焦ることは致命だ。
塔の下で、低い声。カイが控えめに近づいた。黒鴉の者は影に慣れている。彼の目には、眠らない者の光が宿る。
「報告だ。外郭の南門、今朝方、怪しい荷車が通った。荷の中身は――非公式の薬品類。火薬の扱いに慣れた者の匂いがする」
アリエルは短く首を振る。外からの供給線。これで、国外の介入が単なる噂ではなく現実の物質として確かになった。
「狙いは混乱を再発させること、もしくは我々の注意を外に向けさせること。だがそれだけではない」
カイの声に、わずかな不安が混じる。彼もまた、若さと覚悟の間で揺れている。
「何が?」とアリエル。
カイは鞄から取り出した小さな封筒を差し出した。封筒の中には、薄い羊皮紙の切れ端。そこには、王宮のある幹部の名が暗号で書かれていた。書き手は巧妙だが、特有のクセが残る。アリエルはそのクセをすぐに見抜いた。
(……このクセは、あの書記の筆跡に近い)
彼女の唇がわずかに震えた。来るはずの者が、泥に片足を突っ込んでいる。裏切りはいつも、細部で発覚する。アリエルはその細部を愛だった。
「準備をしよう。今日は“見せる”日だ」
その言葉には迷いがなかった。彼女は帳簿を抱え直し、塔を下りる足取りを早める。黒鴉の影が二人の後ろで溶けるように動いた。
午前の宮廷は、いつもよりも重い。王の命を受け、公開調査のための小委員会が召集される。出席者は限られているが、そこが波紋を生む中心になるのだと全員が知っていた。
ヴァレンは早くも席についている。顔色は落ち着いているが、目の奥に逐一計算を走らせる線が見える。彼の隣には数名の老練な貴族、そして法務の顔ぶれ。セリオンは王の側に詰め、短い報告を受けている。ラドウィンは居並ぶ者たちの中で最も若く、しかしその視線は鋭い。
アリエルは慌てず、遅れて入った。会場の空気が彼女を測る。だが彼女が差し出したのは帳簿だけではない。先刻の羊皮紙の写しと、北方の薬品の成分表、偽造印章の比較図。資料は整理され、ページは色分けされていた。誰もがすぐに理解できる形にまで、彼女は証拠を磨き上げていた。
(これが、私の新しいやり方。古参は“情報の独り占め”を好む。だが今は違う。公開の透明度が、我々の盾になる)
アリエルは静かに資料を配り、王に向かって一礼する。王は紙を手に取り、しかしすぐに表情を硬くした。ヴァレンが彼の耳元で何かを囁く。二人の視線が短く合う。王は苦渋の色で言った。
「全ての証拠を公にせよ。だが、一部は統制下においてのみ公開する。混乱を避けるためだ」
アリエルはその言葉をのみ込む。統制された公開。それもまた政治の技術だ。だが彼女は、統制の範囲を少しだけ押し広げる方法を知っている。
「しかし陛下――」と彼女が言いかけると、ラドウィンが先に口を開いた。
「我が国が外から介入を受けている場合、その存在を隠すことは国の安全を損ねる。民の信頼は、透明性から始まるはずだ」
ラドウィンの言葉に、数名が小さくうなずく。王は彼を見つめ、そしてゆっくりと頷いた。小さな勝利。だがアリエルは知っている。勝利は刃を研ぐための時間であり、同時に敵の逆襲を呼ぶ。
午後、王宮の書庫で密室が設けられた。重要な資料の公開はここで行われる。外は見物人で溢れかえるだろう。だが書庫内は選ばれた者だけの舞台だ。その場でアリエルは、証拠の核心を静かに示した。
「まず、国外の痕跡について」——彼女は一枚の地図を指差す。そこには北方諸国の密輸ルートが赤で示されていた。地図が示す先には、複数の中継地点。そして、驚くべきことに――侯爵家の領地に繋がる小さな港が一つ、ライン上に存在していた。
会場は冷えた。誰もがその繋がりを見落としていたのだ。ヴァレンの顔に、一瞬だけ色が失せる。
次に彼女は羊皮紙を差し出す。拡大して示されたのは、王宮書記の筆跡と、先刻の羊皮紙の匹敵するクセの比較図。並べると一致する箇所が目に見える。専門家が吟味すれば一目瞭然だ。
「これらは別々の現場から出た痕跡です。だが繋がる。狙いは同一で、手口にも共通性がある。さらに、外部の物資が内部の協力者を介して運ばれている以上、我々は内外の両方からの対策を同時に行わねばならない」
セリオンが静かに立ち上がる。「我が近衛としては、全ての出入り記録を精査し、外郭の監視を強化します。だが内部の協力者を暴くには、証拠を突き付ける場が必要だ」
アリエルは頁をめくり、最後の一枚を示した。それは侯爵家の古い納品記録。そこにある一行が不自然に書き換えられている。鉛筆のような筆跡の下に、消し跡。消した者は慎重だったが、人間は完璧ではない。
「ここです」——アリエルの指が震えるのを、誰も咎めはしない。指先の震えは集中の証だ。
その瞬間、外から声。書庫の窓越しに、集まった民衆の中から誰かが叫ぶ。
「侯爵の罪はウソだ! 真実を見せろ!」
声はすぐに拡散し、群衆は熱を帯びる。外の怒声は、王宮に内圧を与える。アリエルはそれを計算のうちに入れていた。外圧は、隠蔽を難しくする。だが同時に、焦燥を誘う。
(ここで焦る者は、手を滑らす)——彼女は息を整え、口を開く。
「我々は、今日この場で、まずは“仮確定”の形で公表します。だがさらなる追及は、法の手続きを経た上で行う。私が求めるのは――断罪ではなく、原因の除去です」
言葉が届く。ラドウィンの顔に、安堵が戻る。だがヴァレンは目を細める。政治の勝負は、言葉の端で決まることが多い。アリエルはその端を、慎重に選んだ。
夜。城外の灯りが一斉に消える頃、アリエルは塔の影で一人帳簿を開いた。ページの端に血の匂いがわずかに残る。嘆きの書記官の囁きが、胸の奥でまた鳴る。
『よくやった。だが、次はもっと痛みを伴う。因果は容赦せず、君を迎える』
アリエルは短く笑い、ペンを取る。帳簿に新たな名前を書く。冷たいインクが、夜に吸われていく。
そして彼女は立ち上がる。夜風が彼女の髪を掴み、遠くからは鐘の音。氷は割れた。水は動き、流れは変わる。これから何が出てくるかは分からない。ただ一つ確かなのは、彼女が刃を握っている限り、世界はもう元には戻らないということ。
「まだ、終わらない」——その言葉は、もはや誓いというより合図だ。合図は鳴り、駒は動き出しているのだった。




