第17話:紅き手の連鎖
音が裂けたとき、世界は二分された。
前──議場での言葉と帳簿。後──刹那の鮮血と、人が吐き出す真実。
ラドウィン王子の名は、城内にざわつきのように響いた。庇護の間で倒れ込み、周囲は一瞬にして混乱に飲まれる。侍従が叫び、近衛は隊列を成して四方を固める。だが誰も、最初に何が起きたのかを正確には言えない。音は終わりを告げたが、残されたのは疑惑と不意打ちの冷たさだけだった。
アリエルは走った。帳簿を抱え、胸を打つ鼓動を律しながら。階段を駆け下りる足は、これまでのどの瞬間よりも速く、確かだった。カイが脇を割り、彼女の前に立ちはだかった。彼の顔は黒ずみ、目は真っ直ぐに前を見ている。
「王子は――北塔の回廊で倒れている。出血は多くないが、刃は鋭い」
カイの声は低く、震えていた。国外製の銃弾のことが示唆されてから、ここまでが早すぎる。外からの介入が内側で刃に変わった瞬間だ。
セリオンは既に王子の傍らにいた。彼の指先は白く、だが顔には冷静の筋がある。ラドウィンの胸元を押さえ、止血を指示する。血は見える。それでも、彼は王子の瞳を見ていた。そこにはまだ光が残っている。
「陛下の命と、王国の秩序を脅かす者を探せ」――セリオンの吐息は短く、鋭い。彼の視線はアリエルに一度だけ触れた。短い瞬間、思考が交換される。二人は同じことを理解している:この事件は単なる刺客ではない。計画的な“演出”だ。
会議室の扉が閉まり、王は苦渋の顔で指示を飛ばした。だがアリエルの耳には、嘆きの書記官の囁きがこだまする。彼女は自分に約束した。刈り取る数を数える、その代償を受け入れる覚悟を。そして今、その代償はすぐ近くで重くなっている。
現場検証は速やかに始まった。カイは回廊の床を指差し、細かく説明する。
「弾丸の角度が変だ。撃った地点は北塔の外側ではない。内部から発砲された形跡がある──だが特異なのは、銃の口径に合致しない弾薬痕。切っ先の斬撃と銃声の“両方”を使った誰かが、混乱を狙った」
アリエルは床に落ちた小さな破片を拾う。銀色の光が、血の赤と淡く反射する。指先へ伝わる金属の冷たさが、彼女の脳内で計算を引き起こす。角度、傷痕、足跡、そして時間差。計算は直ちに一つの仮説へ収斂した。
(狙いは「公開審議」を潰すこと。だがさらに、城内の“信頼の構造”を断裂させる。内部の誰かが、外部の力と結託している──あるいは操作している)
セリオンが静かに言う。「君の証拠は、誰かの手中に戻されたかもしれない。公の場で晒すのは危険だ。だが、封じるだけでは腐敗を残す」
アリエルは帳簿を更に硬く抱きしめる。彼女は知っている:刈り取る一つ一つが、次の世界へと影を落とす。ここで諦めれば、彼女の復讐は“妥協”となり、無数の犠牲が無駄になる。しかし突き進めば、また何かを失う。秤は常に痛みを伴う。
「ならば、証拠の“公開”ではなく“露出”だ」――アリエルの提案は即物的で冷たい。セリオンは首を傾げる。
「露出?」
「証拠を一斉に晒して、同時に複数の方向から監視網を針のように刺す。外部勢力の痕跡も、王宮内部の関係者の痕跡も、同時に炙り出す。片方を隠せば、もう片方が見える。この連鎖を利用して、互いに追い詰め合わせるのよ」
その計画の核心は“連鎖”。誰かを追い込むと、その反応が新たな証拠を露出する。アリエルはそれを“因果の連鎖”と呼んだ。彼女の異能〈因果断絶〉の応用に似ているが、ここでは物理的な証拠と人の動きで断絶を作るのだ。
セリオンはゆっくりと頷いた。「危険だが、有効だ。一度動けば後戻りは難しい。だが今は、止める理由が薄い」
行動は速かった。近衛と黒鴉の同盟で、城内の幾つかの倉庫、通路、私室が同時に捜索された。ヴァレンが指揮し、王の側近たちも巻き込まれる。監視網は広がり、城内の“隠し事”が一つずつ灯りの下へと引き出された。
その中で、アリエルは一つの扉の前で立ち止まった。扉の向こうには、長年王宮の帳簿を扱ってきた書記の私室がある。そこは誰もが容易に踏み入れない“聖域”だ。鍵は既に開いていた。中から嗅ぎ取れるのはインクと古い紙の匂い、そして――何か針のように鋭い“匂い”だった。
アリエルは静かに中に踏み込み、手探りで机の引き出しを開ける。そこに押し込まれていたのは、小さな皮袋、そして一枚の紙。紙には見慣れた印章の断片と、外国語の符号が併記されていた。北方の文字だ。ザクセン連邦の密使が関与している痕跡──もっとも確かなものだった。
胸の奥が締め付けられる。国外の勢力が王国内部の銀糸を引き、誰かがそれに手を貸している。そこには利益と恐れ、そして計算された策略しか存在しない。
だが、同じ引き出しの底で、アリエルはあるものを掴む。小さな羅針盤――だがその裏側には、侯爵家の家紋と一致する微かな汚れがついている。微細な痕跡。誰がどのようにしてそれをここへ運んだのか。その答えが、次の連鎖を生む。
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夜が深まるほどに、王城の空気は重くなる。王子の傷は手当てされ、命に別状はないが、心の中の爪痕は深い。誰が刺したのか、誰が弾を放ったのか。外郭でまとめられた証拠は、外部の介入を示しつつも、内部の共犯の匂いを消さない。連鎖は続く。引き金を引く者と、それを渡す者、その受け手が絡み合っている。
アリエルは帳簿を閉じ、短く息をついた。嘆きの書記官が、夢のように彼女の耳に歌う。
『刈り取れば刈り取るほど、君の未来は重くなる。覚悟は良いのか、アリエル?』
彼女は瞳を閉じ、答えを探した。心の底からの答えは変わらなかった。
「はい」――短く、確かに。
だがその「はい」は、もはや個人の抱える復讐ではない。王国を揺るがす歯車の一つとして、彼女は存在している。犠牲は個々の顔を持ち、人はその名前を忘れてはならない。アリエルは、帳簿に名を一つ一つ刻むように、その顔ぶれを記憶する。
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翌朝、城門の外には新たな動きがあった。王宮の命令による検問が強化され、近衛の顔ぶれが変わる。だが民衆の視線は、いつしかアリエルへと集まっていた。彼女を嘲笑う者、賞賛する者、そして恐れる者が混ざる。彼女はそれを計算に取り入れる。声は兵器だ。反応は弾薬だ。
カイが夜明けの薄明の中で静かに寄る。
「君は――本当に、このやり方でいいのか? 政治は刃で割れるほど単純じゃない。弾は返ってくる」
カイの言葉は短いが、痛い。彼の側にも見えているものがある。若さの一端にある純粋さが、時に冷徹な計算に疑問を投げかける。
アリエルは少し笑って答えた。「そう。だが私が目指すのは“真実の光”。刃で切り裂いた真実は、いつか誰かの手で癒される。私はその癒しを願ってはいない。私はただ、始めるだけ」
カイの瞳が揺れる。彼は理解と恐れを同時に抱えた。彼女の言葉は決して温かくはない。だが強さは、時に人を救う。
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日暮れ前、アリエルは一枚の書簡を王に差し出す。そこには、昨夜発見した国外の連絡符号の写し、王宮書記の動きの痕跡、そして侯爵家との不自然な接点の目録が添えられている。彼女は王の目の前で、それを一つずつ説明する。王の顔は蒼白だ。ヴァレンは冷たい笑いを抑え、セリオンは静かに彼女を見る。
王は重く息を吐いてから、唇を動かす。「……全面的な調査を認める。だがそれは、王権に対する挑戦にもなる。国内外ともに、我らは慎重でなくてはならぬ」
アリエルは短く頷いた。慎重と正義は時に相反する。だが彼女の選択は、もはや個人的な復讐の枠を超え、国家の未来を左右する一手になっていた。
その夜、嘆きの書記官は静かに笑ったように思えた。アリエルは自分の手を見つめる。紙の断片、インクの滲み、指先に残る血の匂い――すべてが彼女の証拠だった。刈り取る者の数は増えるだろう。だが何かが、この国の内側から変わり始めているのも事実だ。
「まだ終わらない」――その言葉はもはや自己暗示ではなく、国の呪縛を解く合言葉になりつつあった。
紅い手は、連鎖していく。切り落とした先に何が残るのか、誰にも完全には分からない。だがアリエルは、失うことを選び、刈り取り続ける。その選択は悲しみを孕むが、同時に不屈の美しさを放っていた。




