第15話:王座の盤上、最初の駒
音が二段になると、人は本能で身構える。――扉の開く音、そして遠くで落ちた銀貨の音。王城の会議室では、その二つが同時に鳴った気がした。人々の視線が一斉に揃う。緊張は、音に乗って伝播する。
会合室の空気は既に鍛えられていて、少しの嘘でも裂け目をつける。王の前に立つ者たちは、言葉を慎み、表情を刃のように研いでいる。ラドウィンが父王に詰め寄る。ヴァレンがその場を取り仕切る。セリオンは端に立ち、機を伺う。アリエルは席の端に坐し、帳簿を膝に抱えていた。表情は柔らかだが、そこにある意思は硬い。
王はゆっくりと話し始めた。低い、王の声だ。
「侯爵家の件、我らは真実を求める。しかし、王国の秩序を損なうことは許されぬ。証拠の提示を、正式に求める」
ラドウィンが一歩前に出る。顔は青白く、だが決意が宿っている。
「父上、私が直接問いただす。もし――不正があったならば、王家も清められるべきだ」
会議室の視線が一度にラドウィンへ注がれる。重圧が彼を揺らす。だがその揺れは、心の中で何かが壊れる音ではなく、何かが始動する音だった。
アリエルは静かに立ち上がり、帳簿を差し出した。ページを繰る指先が、誰の視線にも捕らえられる。
「陛下。私は、侯爵家の不正と、その接点を示す文書を提出します。証拠は確かなものです。だが一つ、先に申し上げたい。真実は暴く術が二つある。刃で切るか、光で晒すか。私は後者を望みます」
その言葉に、会場の温度が一瞬だけ変わる。ラドウィンの顔に、ほのかな安堵が差したように見えた。王が首を傾げる。ヴァレンは眉根を寄せ、セリオンの目が細くなる。
「では、示せ」――王の一言が床に落ち、議事は動き出す。
アリエルは紙を広げる。そこにあるのは、ただの転記表や口座の流れではなかった。古い契約書の写し、夜間の領収書、さらには王宮直属の部署名で改竄された領収項目のリスト。読み上げられるたびに、会場は静まり、そしてざわつく。
「……これは、王宮の直轄部署の口座へと流れている。しかも、あえてわかりにくく記載された送金だ。誰かが意図的に“見えない形”を作っている」
ラドウィンの瞳が鋭く光る。王の皺が深くなった。ヴァレンは書類を受け取り、指で一行一行を確かめる。
そのとき、室内の空気が変わる。窓の外で、遠雷のような低い轟き。誰かが大きく息を吸う。それはイントロダクションではなく、予兆だった。
ラドウィンが立ち上がり、声を張る。
「父上、これが事実ならば、我々は我が身を晒すべきだ。王は王である前に、この国の守り手だろう?」
王は目を閉じ、しばらく沈黙した。沈黙は裁きの前の最後の振りだ。
「では、公開審議とし、全ての関係者は法の前に出るよう命ずる」
場はざわめく。誰もがその決定の波紋を測る。だが予期せぬ音がもう一つ、会場の端で鳴った。――小さな尖った音。弾丸が空気を切る時の、乾いた音。誰もがそれを聞き逃さない。
――銃声だった。
瞬間、会場はパニックの淵に落ちる。貴族たちが一斉に体を伏せ、近衛の兵が剣を抜き、王の侍従が叫ぶ。光が走り、混乱の中に一点、赤が滴る。だがアリエルは驚かなかった。彼女の目は冷たく光る。帳簿の端をしっかり握ったまま、全てを計算している。
誰が撃たれたのか――答えはすぐに出た。王の側近の一人、ヴァレン伯の近くで、侍従の一人が倒れている。だが倒れ方に不備がある。彼の胸からは小さな赤い染み。致命ではない。狙いは「混乱」だった。
「刺客か!」――誰かが叫ぶ。
だがその声よりも早く、アリエルの思考が走る。狙いは「公開審議の中止」か、あるいは「口封じ」か。だが本当に狙われたのは誰なのか。目の動き、手の震え、弾丸の角度――全てが語る。
セリオンは即座に動いた。彼の近衛たちが素早く会場を制圧し、扉を固める。だが外に出る道は一つではない。刺客は既に城の内部に溶け込んでいる。
「王の安全を確保せよ。誰も城外に出すな」――王が命じる。
ラドウィンは血の気を引いた顔でアリエルを見る。彼の言葉は震えている。
「アリエル――君、計算していたのか?」
「ええ。初めから“完全な露見”は計算に入れています。だが、刺客の挙動も私は予測済み。今は、誰が得をするかを見るのです」
言葉の端で、アリエルは小さく笑う。笑いは冷たいが、戦術だった。混乱は、誰かの思惑を暴く最良の条件だ。突発的な事件ほど、多くを語る。嘘は慌てる。真実は、静かに顔を出す。
近衛が侍従を抱き上げ、救護へと向かう。ヴァレンは顔面蒼白だが、動揺を隠す。外套の襟が乱れ、誰かの手がヴァレンの袖を掴む。セリオンは目を細め、狙いを探る。
その時、黒鴉のカイが窓辺に姿を現した。彼は小さく咳をしてから、部屋の中央へ歩み寄る。彼の手には、先刻の会場を映した小型の写本があった。そこには、刺客の影が写っている。ただし、その人物は近衛の一員のような制服を着ている。偽装だ。
カイは淡々と告げる。
「刺客は、王宮の一部を装った者です。近衛の誰か、またはその周辺者の協力を得ている。角度と火薬の残り方から、発射地点は南廊の灯台付近――だが、弾丸は“狙いを外して”いる。目的は殺害ではなく混乱の創出」
誰かが短く息を漏らす。ヴァレンの顔が硬直する。セリオンはカイの言葉に眉を寄せる。だがカイはさらに続ける。
「そして、この写しは外部の目撃者から回収した。彼らは“王の命を叩く”というよりも“王の審議を中止させる”ために火を放った。推測するに、誰かがこの公開審議で不利になることを恐れている」
アリエルはページを一つ、床に落とすようにめくる。そこに隠されていたのは、王宮側近の一部が見せしめとして利用しようとしていた古い証書のコピーだ。表面には王家の紋が、しかし裏には別の署名が潜む。作り物だ。つまり、何者かが「公開」の場で王家側をも晒すことで、審議を政治の泥沼へと引きずり込もうとしている。
アリエルは冷ややかに言った。
「目的は単純。審議を中断させ、証拠を闇へ葬ること。あるいは、王の側近を脅して口封じをする。だがその“混乱”を創る者は、真相を隠すだけでなく、別の勢力に利する」
その言葉に、瀬戸際の静けさが戻る。王は重く息を吐く。ヴァレンの目に疑念の色が濃くなった。誰がその利を得るのか――その問いは、部屋の全員の胸に刺さる。
ラドウィンが牙を剥くように言った。
「王宮の中に、淵があるのか。父上、真実はどこにあるのだ」
王はゆっくりと立ち上がる。玉座の王としての重みが彼を包む。
「我々は、事実を確かめる。だが同時に、混乱を生む者を、必ず見つけ出す。誰が王の審議を歪めようとしたのか、徹底的に調べよ」
それは宣戦布告にも似た命令だった。近衛が動き出し、王宮の内部調査が即座に始まる。扉は固く閉ざされ、城壁の周囲に兵が配される。だがアリエルの胸には別の思いがあった――刈り取られる命の数を、また一つ増やすことの覚悟。
彼女はセリオンに近づき、低く囁いた。
「私がこの場で明かした証拠の多くは“王宮の腐敗”を指し示す。だが決定的な一手は、あなたと王子に託す。公開の場で決着をつけるなら、それは彼らの選択であるべきだ」
セリオンの瞳が一瞬揺れる。彼は王に従う男でありながら、時に正義を優先する男でもある。二人の視線が短く交差した瞬間、言葉は不要だった。
「分かった。だが……君は、覚えておけ。刈り取った刃の数は、君の来世を蝕む。君はそれでも――」
アリエルは小さく笑った。笑いは乾いている。
「私は知っている。だが今は、この王国の腐食を露わにする方が先です」
会合は結局、王の厳命により継続されることになった。だが城内の気配は変わった。誰もが互いを疑い、信じる者は少なくなった。アリエルの帳簿は、誰かの手の中で刃となり、同時に誰かの盾にもなった。
夜、王城の塔にて、嘆きの書記官が影のように現れた。声は無機質だが、いつものように重い。
『一手目は成功だ。だが刈り取る命は既に増えた。覚悟の重さを忘れるな、アリエル』
彼女は窓辺に立ち、冷たい風に髪をなびかせた。月は半分欠け、空には鋭い星が瞬いている。刈り取られた数はまだ見えない。でも、確かにその重さを感じる。胸の中の何かが、じわりと沈む。
「まだ終わらない」――彼女は小声で呟き、帳簿を抱きしめる。刃は研がれ、盤上の駒は次へと動き出す。




