第13話:刃に宿る約束
音を殺して歩く。足音はないわけではないが、それが何かを告げる前に、人々の心の中に先に届くような歩き方――それがアリエルの新しい習慣になっていた。
屋敷の書斎に戻ると、箱の中の写しが燻っている。ページをめくるたびに、王都の高位にまで伸びた細い線が、絵図のように見えてくる。行為と対価。匂いと記録。読み手が増えれば増えるほど、真実は翻訳されやすくなるが、同時に誰かの言い訳にもなり得る。
(整理しよう。今あるもの――三つの層がある)
一つ目、家令マリオの偽造記録。あれは発火点だ。二つ目、王宮に接続する複数の小口送金。これは血管。三つ目、古文書や名簿が示す過去の癒着。それは骨格だ。骨格を押さえれば、体は崩れる。だが骨を割って見せれば、見物人は逃げる。芸術のように、暴露は技巧が要る。
彼女は薄紙を机に重ね、インクの匂いを深く吸い込んだ。呼吸一つで、夜が濃くなる。短い文章を一つ書く。
「セリオン殿へ。面会許可を。証拠の一部を見せる。——アリエル」
封をしようとしたとき、窓の外に人影。カイが立っている。彼は近づくと小さな包みを渡した。包みの中は、黒鴉からの短い書簡と、そして一枚の名刺大の札。
『救済は返礼を要す。だが今は、君の選択を優先する。——黒鴉・一番隊 カイ』
カイの目が言う。君はまだ一人だ、と。だが同時に、影は味方にもなる。アリエルはわずかに笑ってから、言葉を返す。
「ありがとう。だが私は“借り”を嫌う。必要なときだけ借りる」
カイはただ頷いた。それは合図のようで、そして約束でもある。若者の視線には、まだあどけなさが残る。だがその裏にある冷静さが、アリエルを安心させた。彼らは互いに必要としているのだ――刃と鞘のように。
次の朝、セリオンの留置所は王宮の直下にある古い塔の地下に設けられていた。石壁は湿り、鉄の格子が湿った影を落とす。アリエルは静かに面会許可を願い出る。理由は簡潔に「国事に関する協力」と。
護衛の女史は疑いを差し挟むが、王の命令による暫定審議が進行中の今、面会を完全に遮る理由もない。許可の印が押され、アリエルは薄暗い通路を進む。灯りが近づくにつれて、彼女の心臓が少しだけ速く打った。これは策略か、それとも賭けか。
扉が開き、セリオンの視線が彼女を捉える。留置服といえども、彼の姿勢は変わらない。鉄の椅子に座る彼は、かつて玉座の前に立っていた威厳を失ってはいなかった。だが目の端にある疲れは隠せない。
「侯爵令嬢」——セリオンの声は予想より柔らかい。だがその柔らかさは試しの意味も含んでいる。
「近衛幹部セリオン」——アリエルはいつものように形式で返す。礼節は武器の一部だ。
短い沈黙。二人の間に、流れる時間がある。アリエルはさっと帳簿の一部を渡した。頁をめくる。薄く印字された数字。転記。彼女は必要最小限しか見せない。真実を丸ごと渡せば、相手の反撃を誘う。見せるのは“鏡の角度”だ。
セリオンは指で頁の角をなぞる。眉が吊り上がる。読み終えた彼の瞳に、複雑な光が差し込む。
「君は……これを手に入れたのか?」
「はい。黒鴉の協力と、学園の資料から」
「危険だ」——彼は短く言う。だが続けた。「だが、これは王の手を縛る材料にもなる。君はそれを分かっているのか?」
アリエルは小さく笑った。笑いには皮肉が混じり、だが恐れはない。
「分かっています。だから、あなたに頼りたい」
言葉は簡潔で、刺さる。セリオンの口元がわずかに緩む。助力の申請が、敵を味方に変える瞬間だ。彼は呼吸を整えて答える。
「王宮の内側で動くには、私にも犠牲が伴う。だが秩序を守るという信念がまだ私にあるなら、君の証拠を使い、内部から整理する手段を探す。だが一つ条件がある」
「条件?」アリエルの手が止まる。
「君が今後、私の名前を盾にしないこと。公の場での糾弾は必要だが、私個人を切り捨てるための道具にしてはならない。私にも守るべきものがある」
沈黙が深い。アリエルは一瞬だけ、過去の自分を覗き込む。復讐の手法は計算だ。だが「計算」で割り切れないものもある。信頼はその一つだ。
「分かりました。あなたを道具にはしません。共に、王国の“腐食”を切り取るために使いましょう」——彼女の声は静かだが、そこには誓いが含まれている。
セリオンは立ち上がり、格子に手を添える。鉄の冷たさが彼を現実に戻す。
「では始めよう。王の会合が、次の鍵だ」
彼の瞳が鋭く光る。互いの約束は刃になり、同時に盾にもなった。
屋敷に戻ると、アリエルは夜の帳簿を一つ机に残した。カイが待っている。彼は話さず、ただ彼女を見つめる。アリエルは箱から一枚の紙を取り出し、薄く折ってカイに渡した。それは“返礼”の代わりだ。
「黒鴉には渡すが、君には余計な借りは作らない」——アリエルの指先が柔らかく震えたのは、ほんの短い間だけだ。
カイはそれを受け、微かに笑った。
「約束は刃のように扱う。だが刃を研ぐには、時に誰かの手が必要だ」——彼の言葉は簡潔で、それ自体が一つの戦術だった。
夜の空が深くなる。アリエルの胸の中で、刈り取った日数がまた一つ増えるのを感じる。嘆きの書記官の声が夢の端で囁く。
『約束は履行される。だが数は問わず、代価は必ず君を訪ねる』
アリエルはそっと笑った。笑いは悲しみを含むが、決意はより強い。彼女は刃を抜き、また鞘に戻す。戦いは続く。新しい同盟が生まれ、古い傷は開く。けれど彼女は分かっている――この先にある光は、必ずしも救済ではないかもしれない。だがそれでも、彼女は歩むのだった。




