第12話:硝子の嘘と、氷の契り
朝焼けは、いつもより早く城壁の上に差し込んだ。
薄い橙色が屋根をなぞり、屋敷の影を長く伸ばす。だがその光は脆い硝子越しのように感じられ、触れれば砕けると誰もが知っている。
アリエルは鏡の前に立っていた。表面は歪んでいない。だが映る自分は、いつもの顔とは少しずれて見えた。目尻に刻まれた小さな皺。寝不足の証。だがそれ以上に、瞳の奥で鮮やかな何かが燃えているのを彼女は知っていた。
(来るべき日は近いわ。審議は二日後。私が投げた石は、水面の波紋をもう何重にも重ねていた)
彼女は短く息を吐き、着替えの手を止める。ドレスは黒でも白でもない――灰色の生地を選ぶ。あえて中立を装う色。だが装いはただの余興でしかない。真に人の心を動かすのは、言葉の刺さり方と、見せ方だ。
屋敷を出ると、門前には既に小さな人だかりができていた。紙片を掲げる者、噂を囁く者、好奇の目。アリエルは彼らを一瞥して通り過ぎる。誰かの視線を取り込むために彼女は媚びない。むしろ、見られることで相手の内部を暴く。
庭師が一輪のバラを差し出す。白いはずのそれは、先日の処置のために微かに黄ばんでいる。アリエルは掌にそれを受け取り、指先で花びらを撫でる。冷たさが指に返る。匂いはどこか甘く、しかし腐食の先触れを含んでいた。
審議の前に、まだやるべきことがある。彼女はそれを知っていた。王宮は光の舞台。そこでの勝敗は、証拠だけで決まるものではない。情勢の読み、味方の確保、敵の矛先を分散させること――舞台裏の掌握が必要だ。
まずは、学園へ立ち寄る。「新しい友人」たちの存在は、いつか彼女の計略に予想外の弾力を与えるかもしれない。今日の目的は簡単だ。学園の図書館で、ある古文書の所在を確認する。それは表向きは学術的価値があるとされるが、実は王都の古い汚職の記録につながる可能性があると、黒鴉が示唆していた。
廊下を歩くと、生徒たちの視線が一斉に集まる。彼女は軽く会釈をして、誰とも言葉を交わさなかった。気配は、存在だけで事を動かす──そんな技術を彼女は磨いている。図書室に入ると、古い羊皮紙の匂いと、学生たちの低い囁きが耳に届く。
書架の角で、彼はいた。黒鴉の若者。カイという名だと気づいたのは、ほんの昨日のことだったが、その存在感は既に彼女の計算に組み込まれている。カイは本の束を抱え、目を逸らさずにアリエルを見た。表情に余計な感情はない。だが、その目にある一瞬の温度が、彼女の胸を揺らす。
「巻物は、そちらです」
カイが示したのは、禁書と分類されている古い巻物。表紙に刻まれた紋章は薄れ、だが彼女には容易に判読できた。それは、王宮の旧家臣の名簿に連なる一行を指し示している。
アリエルは巻物を手に取り、頁をめくる。そこに記された名前は、王都の幾人かの名と一致した。小さな取引、裏口の送金、帳簿の付け間違い──それらは、組み合わされば巨大なパターンを形作る。
(これは……使える)
彼女は心の中で、静かに評価を下す。だが顔には出さない。見せるのは、必要な時だけだ。
その時、図書室の入口に小さな騒ぎが起きる。学園の女生徒が駆け込んできて、震える声で告げた。「侯爵令嬢、屋敷の前で、何かあったと!」
アリエルの胸の鼓動が、一瞬だけ早くなる。直感が警鐘を鳴らす。審議当日を前にして、敵は動く。彼女は急ぎ表へ出る。
門前では、群衆が以前よりも増えていた。誰かが唾を飛ばし、誰かが拍手をする。だが目立つのは、王宮の使者だ。黒い外套を着た役人が、厳かな顔で紙を掲げる。それは王宮からの「追加告発」の布告文。文面は簡潔だった――「侯爵夫人の関与を含め、追加調査を行う」と。
群衆のざわめきは怒号へと変わる。リディアは、張りつめた表情で人々を睨む。だが誰より先に動いたのは、アリエルだった。彼女はゆっくりと群衆の中に歩を進め、胸の帳簿を高く掲げる。
「皆さま」
その声は、朝の風を切るように冷たく、しかし響いた。「真実を求めるなら、焦らないでください。証拠は、精査の上で公にすべきものです。騒ぎに乗じるだけでは、偽りが真実に見えることもあります」
群衆の一部が耳を傾ける。だが別の声が応じる。「嘘だ! 侯爵家は腐っている!」と。空気は張り裂けそうになる。アリエルは一拍置き、遠くで見守るカイの姿を探す。彼は静かにうなずき、彼女に合図を送る。
合図は小さかった——黒鴉が屋敷周辺の情報網を制御し、数名の好機な目撃者を引き離したという報告。群衆の動きを微妙に逸らし、王宮の使者に対する圧力を減らす。そのタイミングの正確さは、計画の勝利を左右する。
だが勝利の味は、いつも苦い。リディアの視線が、アリエルの背中に釘付けになる。彼女の顔には怒りが渦巻き、同時にどこかほっとしたような要素が混じる。矛盾は、時に人を壊す。
審議は予定よりも遅れて始まった。王の前、貴族たち、近衛、そして幾人かの法務官。巻物の存在は、王宮の空気を変えた。ヴァレンの眉が深まる。セリオンは――顔色を窺えばわかる。彼の留め置きは、まだ続いている。
アリエルは席に着くと、ゆっくりと帳簿と古文書を差し出す。「これらの資料により、家令の不正は一部、上層部まで波及している可能性が示されます」と。王は頁を繰り、目を細める。会場の視線は再び集まる。
だがアリエルは知っている。ここで真実を全て晒すのは得策ではない。相手の反撃に対して逃げ場を残すことが戦術だ。彼女は一部の決定的な証拠を、敢えて手元に残している。最終局面で相手の首を絞めるために。
議論は白熱した。王の口からは慎重な言葉、ヴァレンは政治的な枠組み、法務官は法律の文言を引き合いに出す。群衆の目は、外の騒ぎへと戻ったり、室内の議論に戻ったりする。情報は生き物のように動く。アリエルはその波を読み、舟を漕ぐ。
終盤、王が顔を上げる。「完全な解決とは言えぬ。しかし、我が王国に対しての忠誠を示すために、暫定的な処分と監督を課す」と。言外に、王の手は誰かの首を守る意思も読み取れた。完全な正義は、政治の網に囚われる。
アリエルは深呼吸して席を立つ。庭先に戻ると、カイが待っていた。彼は無言で彼女に小さな箱を手渡す。中には、夜に回収した追加の書類の写し。致命的すぎるほどの詳細。それを見て彼女は初めて、唇の端が緩む。
「まだ、終わらない」
短い言葉が二人の間に落ちる。カイの瞳が、一瞬だけ柔らかくなる。それは救いでもあり、刃でもある。
アリエルは箱を抱えて歩き出す。城壁の向こうには、王都の喧騒が波打っている。彼女の影は長く、やがて一つの点へと収束する。復讐の道は細い。だが、その先にある何かを彼女は掴むつもりだ。
硝子はまだ砕けていない。だが指先の震えは確かにある。新たな読者が求めるのは、復讐の緊張だけではない。人の内面、取引、そして予期せぬ柔らかさ──その交差点にこそ物語の核がある。アリエルは今、それを手繰り寄せている。




