緑子さんと批評を愛する影のお話【冬の童話祭2026】
むかしむかし。
町はずれの古い喫茶店「エメラルドビーチ」には、毎週金曜日になると物語好きが集まりました。
新しいお話を読み、感想を言いあう、静かであたたかな集いです。
けれど、いつのころからかその店に、ひとりの女とひとつの影がやって来るようになりました。
女の名は、海野緑子さん。
影の名は、批評好きの小さな悪魔ティティヴィラス。
ティティヴィラスは、力の弱い悪魔ですが、細く長い尻尾をふり、耳元で言葉を砂糖のようにとろかし、時には針のように鋭くささやく存在です。
「ほら緑子、あの子のお話は穴だらけだよ。弱いところに爪を立ててひっかいてごらん。あの人にとって、少しだけ痛いところをね。」
緑子さんは、赤い口紅の端をきゅっと上げ、カップに映る自分と悪魔を眺めるのが好きでした。
「ふふふ、それは、面白そうね。」
悪魔は、批評という名の槍を、そっと緑子さんに渡すのです。
その日、初めに作品を読んだのは紗耶さんでした。
森に住む妖精たちが、夜にゲームをして楽しむお話でした。
聞く人の胸をあたためる、ほのぼのとした物語。
みんなが、ぽわんと笑みを浮かべたときです。
ティティヴィラスが、ふっと緑子さんの肩に乗り、爪の先で耳たぶをくすぐりました。
「ほらほら。夜の遊びだって。子ども向けのお話にしては、ちょっと良くないんじゃないかな?そう言ってごらん。きっと顔が曇るよ。」
緑子さんの口から出た言葉は、蜂蜜より甘く、しかし刃物より冷たく響きました。
「まぁ素敵っ!可愛らしいけれども、夜の秘密の遊びだなんて、子ども向けのお話としては不適切じゃなくて?まるで、悪い大人のお話みたいね。」
紗耶さんの瞳が、薄くかげりました。
ティティヴィラスは、くすくす笑い、細い尻尾を揺らしました。
「上手だよ。緑子。もっと傷つけて。きらきら光り輝くものを曇らせれば曇らせるほど、君と僕は目立つんだ。」
次の週には、蒼くんの作品『星を磨く』が、読まれました。
聞く者の心を洗うような美しいお話。
みんなが、温かく拍手を贈ろうとした瞬間でした。
ティティヴィラスの唇が、緑子さんの耳に近づきます。
「さあ、言ってごらん。それって、使い古された表現じゃないかしら?って。」
緑子さんは、迷いなく言いました。
その言葉は氷のように澄んで、鋭いものでした。
「星を磨くなんて、みんなよく使う表現だわ。子ども騙しね。これを聞かされる人の気持ちを考えて書いたのかしら?」
蒼くんの肩が、しずかに落ちました。
悪魔は、嬉しそうに尻尾を振りました。
窓の外の雨は、まるで誰かの涙のよう。
しかし、緑子さんは、気づけませんでした。
自分が他人の光を消すたび、自分の背中の影が、少しずつ濃く長く伸びていることに。
実は、緑子さんにも、夢がありました。
自分でお話を作り、誰かにいいお話だねっと言われること。
最初は、良かったのです。
緑子さん自身の中からあふれんばかりのお話が飛び出てきましたから・・・
しかし、緑子さんは気づいてしまったのです。
新たに出てくる人のキラキラした才能に・・・
自分では、到底出すことのできないとびぬけた発想に・・・
その人の書いたお話を読み、ページをめくるたび、緑子さんの胸は、きゅっと痛くなりました。
どうしてあの人は、あんなに楽しそうに書けるの?
きらきらと輝く文章を見ると、それは自分の手には届かない宝石のようで、触れようとするほどまぶしくて、やがて、眩しさは針のように胸を刺しました。
そこで緑子さんは、ひっそりと思ったのです。
あの光を少し曇らせることができたら、 わたしも、苦しくなくなるかもしれない。
泣くかわりに、努力するかわりに、その気持ちはいつしか、小さな影になりました。
影は、そっと耳元でささやきます。
「褒めるより、少し意地悪を言ってしまえばいいんだよ。」
それは、緑子さんが感じる羨ましさを覆い隠すための、薄い薄い布のようでもありました。
やがて、町はずれの喫茶店「エメラルドビーチ」の文芸会からは、参加者が減っていきました。
緑子さんは、笑いました。
「弱いのね、みんな。少し指摘されたくらいで。」
「そうだよ、緑子。君ほどの批評眼を持つ者は、いない。この町で一番、誰より研ぎ澄まされている。」
悪魔は、褒め言葉をはちみつのようにとろとろに溶かして差し出します。
緑子さんの胸は、心地よく温まり、新しいきらきらとした才能を褒める必要などないと思いました。
翌週の金曜日。
喫茶店の扉には、札が下がっていました。
「文芸会は、しばらくお休みです」
もう、皮肉を言うための緑子さんの場所は、喫茶店にありません。
そこは、ただカウンターに座って、あたたかいコーヒーを飲むだけの場所です。
ティティヴィラスが、肩の上で笑います。
「誇っていいんだよ。みんな、君のことが怖くて逃げた。つまり・・・君の勝ちだ。」
帰り道の水たまりは夜空を映し、星のように揺れました。
でも、どれにも緑子さんの手は、届きません。
伸ばした指先には、暗い影が差し、まるで光を追うほど影だけ増えるようでした。
ティティヴィラスは、満足げに微笑みます。
「ねえ、緑子。愛されなくてもいいじゃない。いままで君をちやほやしてきた人たちだって、みんなうわべだけを見て、君を褒めるだけだった。それでも、僕たちは、生きていける。」
緑子さんは、答えません。
ただ、コチコツという靴音だけが、冷たい道に響きました。
静かな夜の中、影は、緑子さんと寄り添い、いつまでも、背中にこびりついて離れませんでした。
悪魔は、とても小さく、可愛らしい声で歌います。
「照らす光がなければ、影は主になる。褒めるより、貶すほうが早い。壊すほうが、作るより楽しい。」
その歌は甘く、そして、少しだけ悲しい余韻を残しました。
文芸会がなくなってから、季節はひっそりと変わってゆきました。
花は散り、木々は、葉を落としてゆき、やがて冷たい風が、夜道をなでる頃。
「エメラルドビーチ」は、静かな店になりました。
緑子さんは、相変わらず週に一度、赤い口紅を引き、席に座ります。
まるで、舞台が始まるのを待つ役者のように。
けれど、もう物語の朗読の声は、聞こえません。
その代わりに緑子さんの隣には、細い尻尾を揺らす悪魔ティティヴィラスが座りました。
「ねえ、緑子、今日の作品は?」
悪魔は甘く問いかけます。
緑子さんは、つまらなそうに窓の外を見ました。
「だれも来ないじゃない。批評しがいがないわ。」
ティティヴィラスは、笑います。
「君が一番。君だけが残った。ほら、これは、勝利の証だよ。」
その声はあたたかく、まるで、毛布のように緑子さんを包み込みました。
緑子さんは、満足したように、小さくうなずきました。
ある日、紗耶さんと蒼くんが、店に顔を出しました。
彼らは、緑子さんの前を通り過ぎ、店主からコーヒー豆を受け取ると、すぐ帰ってしまいました。
緑子さんに目を合わせず、ただ静かに会釈をして。
その後ろ姿に、怒りも、敵意もありませんでした。
緑子さんは、扉が閉まる音を無表情に聞きました。
「弱虫ね。」
緑子さんは言いました。
「そう、弱虫。」
ティティヴィラスも言いました。
まるで、鏡のように、まったく、同じ調子で・・・
緑子さんは、表情を変えず、赤い唇の端を持ち上げました。
「いいじゃない。私には、ティティヴィラスがいるもの。」
悪魔は、嬉しそうに肩で笑いました。
細い尻尾が、暖炉の前の猫のようにゆったり揺れていました。
「うん、僕はずっと君といるよ。褒められない言葉、貶す喜び、その全部を糧にして、もっと一緒に強くなろう。」
店の壁には、影が二つ伸びました。
しかし、二つの影は、いつのまにか一つに重なり、どちらが緑子さんでどちらが悪魔か・・・誰にも区別がつかなくなってゆきました。
数年後。
町の外れに、ひとつの噂が残りました。
「古い喫茶店に行くと、赤い口紅をつけた女がひとり座っている。そして隣には、黒い影が笑っている。」
噂の女は、今も批評を続けているといいます。
新しい物語をこっそり読み、自分では生み出せない新しいきらきらとした発想に、皮肉を浴びせ続けているのだとか・・・
ただひとつ、誰にも、確かめられないことがありました。
その席に座っているのは、まだ緑子さんなのか。
それとも、影の悪魔ティティヴィラスなのか。
窓の外を見れば、夜の雪は静かに降り続き、世界は、白く広がっています。
光がないところには影だけが生き、影は、主人を失っても、なお笑い続けます。
しかし、緑子さんは、気づくことができません。
その微かな寂しさすらも、悪魔とその仲間たちが、ちやほやと甘く隠してくれているのですから・・・




