5 仮面の下の遠空
「不合格です」
「…………」
「プロペラ機での着陸距離は、110km/時の計算です。機体の角度を鋭角に下げれば下降が早まり、速度も飛距離も落ちます。
そのためにパワーを足して飛距離を伸ばさなければ滑走路に辿り着きません」
「……はい」
「計算は既定通りにはいかないものです。実際の環境下では風力・天候に影響されますから、数字が答えではないのです」
「……ちなみに正解は?」
「この設問の正解答は『航路図確認、管制塔へのコンタクト.計器確認.速度調節.操縦桿調整.スロットル操作.環境確認』です」
「……え?着陸に必要な動作と速度を求めよって書いてありますけど」
「この設問の意図は『状況判断の一貫手順を問う』もの。速度はその結果であり動作の一部です。よって、不正解となります」
マヒルの執務室内にて、初めてのテストを終えた彼女はようやくこのテストの意図を理解した。
副官リアムが作成した設問には、解答欄が用意され、アンダーラインが短く引かれていた。
普通なら……その枠の中に収まるよう解答を書くところだ。しかし、彼はこの線からはみ出す答えを前提としているらしい。
要するに〝間違いを書かせる意図がある〟という事になる。
マヒルは書類にサインしながらチラリと視線を送ってくるものの、目を合わせずに逸らした。リアムはポーカーフェイスのままだが『してやったり』という雰囲気を醸し出している。
自分の味方はいないのだと知って、身のうちに広がる寂寥感が深まる。二人とも彼女を航行任務に同行させたくないと考えているのは同じなのだ。それが彼女のためだと思っている。
記憶喪失の当人は、執務への支障は確かにない。マヒルは昨日得た基礎知識から、導かれるようにしてさまざまな執艦官の職務内容を思い出している。
門外漢である彼女がそばに居て、得になることはないだろう。
ただ、彼は記憶喪失ならではのエラーを起こす事がある。その時に対処できるのは彼女だけであり、そのためリアムもマヒルも同行を完全に拒否できないでいる。
彼女自身が合格をもらえなければ後にも先にも進めない現状は、こう着状態と言えるだろう。
テストを返却され、全ての回答に×印がついているのを目にした本人は、俯くしかなくなった。
「ここで躓いているようでは先が思いやられます。テキスト通りの答えしか『まだ』求められていないのですよ」
「…………はい」
リアムの容赦のない一撃はさらに精神を抉ってくる。衣服は昨日と同じく艦隊の制服を纏ってはいるものの、異分子でしかない自分の場所はない。そう、言いたいのだろう。
「再テストは明日行いますが、そこで不合格なら……」
「リアムさん」
言葉の先を遮り、彼女は決心した結果の視線をリアムに向けた。勉強する事に対しての熱意を失ったわけではないが、マヒル本人の協力を得られないならば彼の協力を得なければならない。
――その為には、卑怯な手段も用いる他ない。
「――見せたいものがあります」
「なんでしょうか」
「マヒル、ちょっと外に出てくるから待っててね」
「は?何でだ?」
「マヒルには関係ない話なの。妹のプライバシーに踏み込まないでくれる?
副官、お付き合いいただけますか」
「……はい」
呆然としたマヒルを室内に置き去りにし、彼女はすでに頭の中に入っている地図を頼りに艦内を歩く。コツコツと廊下に響き渡る冷たい二つ足音は入り組んだ奥地の人気のない場所で止まった。
「流石ですね。艦内の改変部分まで把握されているとは」
「当然です。一度見れば忘れませんから」
「ふむ……」
制帽を外し、リアムは興味深そうな表情を向けてくる。いつものマヒルなら間違いなく艦内の監視カメラを介して彼女が何をしているのか探るだろうけれど。今は……どうだろう。
彼女の立場としては何を隠していたのか知られるわけには行かない。監視カメラの死角を渡り歩く他に手段はなかった。
純白の封筒を取り出して、彼女はリアムに差し出す。怪訝な表情のまま受け取った彼は開かれた指紋認証のタグを見て目を見開いた。
「これの存在は知っていますよね」
「……どこで、これを」
「マヒルの書斎で見つけました。私宛の遺書に隠されてました」
「…………」
「見ないという事は、中身はご存知なんですね」
「はい」
リアムと彼女はお互い口をつぐみ、見つめ合う。チューリングチップ……感情抑制装置のつけられた彼は動揺などしない筈だったが、明らかに落ち着きがなくなっている様子だ。
どうも、おかしい気がする……。
彼女はずっと感じていた小さな違和感を思い出し、リアムの灰色の瞳を見つめる。
灰色は青の変化色であり、血が透けた色のため体調によって色合いが変わる。今は青緑が加わった灰色。彼は寝不足を極めた状態のようだ。
クマを隠すのが上手いのは、マヒルだけではない。
「リアムさん、最近よく眠れてないですよね。研究の維持で忙しいんですか?それとも他の問題ですか?
マヒルが記憶喪失になって1番大変なのはあなたですよね」
「…………」
「私を引き入れた方が人員が増えますよ。不合格にするよりも合理的です」
「あなたは、どこまでご存知なのですか?」
「そこに書かれている以上のことは何も。でも、私がこの情報を艦隊の上層部に漏らしたらどうなりますか?」
「そのような事をなさらない筈です」
「分かりませんよ。マヒルを遠空艦隊から遠ざけるいいチャンスでもある、と昨晩気づきました。彼はここに来てからよくない事ばかり起きてますから」
畳み掛けるように言葉を紡ぐ彼女は、リアムにとって必死な様子に見える。それでも僅かながらの危険因子を見逃す事はできない。
大きなため息の後、リアムは頷いた。
「合格をご希望ですか」
「そうなるように教えてください。それから、研究のことも。あと、これからのスケジュールで確認したいことがあります。ええと……」
彼女はニコリともしないまま小さな手帳を取り出し、噛み付くように捲し立てる。
合格になるように教える……?今一状況を飲み込めないまま提案を受け、彼はきた道へと踵を返す。
――自分の足音を聞きながら、リアムは熟考する。
普通、学ばずとも艦隊内に入り込めるようにするのではないのか。彼女の目的は研究内容の暴露と、執艦官の任務同行のはずだ。
遠空艦隊に鞍替え……はあり得ない。彼女は一流のハンターであり、ハンター協会でも屈指の実力部隊に所属している。
能力は疑うまでもないだろう。マヒル執艦官とペアを組める戦闘能力があり、艦内の地図を覚えられる頭脳を持っている。いくら厳選されたとはいえ、1日でここまでテストに回答を書いただけでも驚嘆に値する。
さらに、艦船内部は長年勤めている者がいまだに迷うほど複雑な動線が用いられている。これは、艦を乗っ取られないために度々改変されるため把握するにもかなり苦労する問題だった。
彼女の記憶力は賞賛に値する。だが……まだ完全に従うつもりはない。情報を握られている以上は、表面上でうまく合わせて利用するしかないだろう。
リアムは、そう判断した。
脳裏に浮かぶ、元妻の静かに泣く姿。唇がつぶやいた『あなたの心はどこに消えたの?それとも、最初から存在してなかった?』というセリフが突然耳の中に響く。
……今更、何故そんな光景が浮かんでしまうのか。必死な様子でマヒル執艦官を守ろうとする彼女を目の当たりにした、今の彼には少しだけわかる気がした。
━━━━━━
「パーティー……ですか?」
「はい、昨日の食堂の様子が漏れまして。探りを入れるためのものでしょう。それから……」
昼食どきに執務室へと戻ってきたリアムは、謎の冊子を山ほど抱えていた。どさり、とデスクの上に置かれたそれをマヒルが開く。
「本日21時より、立食パーティが開かれます。マヒル執艦官は必ず参加、そしてこちらの方々をご紹介したいとの事でした」
「……何だ、これは」
「お見合い写真じゃないの、これ」
「お見合い……??」
「仰るとおりです。昨日の様子を見た下士官が報告、その噂が広まり尉官、佐官へと情報が上りました」
「要するに上の連中に噂が広まったと」
「はい」
額を手で押さえ、マヒルはやれやれと言った風に首を振る。
彼女は震える手でその冊子を手に取り、開いた。
妹の立場なら、どう反応すべきだろうか……と考えながら。
中には煌びやかな洋装に身を包み、完璧に微笑む女性たちの写真が並んでいた。その瞳の奥に計算の光と野心の影が見える。
写真の横記載された彼女達の経歴、遠空艦隊に与する親の名が綴られている。階級は佐官が殆どだ。
その並びは、彼に群がる意図をもはや隠そうともしない証そのものだった。
彼は権力の座にあり、政略結婚を狙うハイエナがいてもおかしくはない立場なのだ。
「パーティーは不参加に……」
「できません。今までキャンセルばかりされてきた上、様子の変わったお姿を見せたのですよ。
少々取り繕うべきです」
「だが、これじゃまるで……そういう目的のパーティだと言っているようなものじゃないか」
「ええ。結婚相手を得ろとは言いませんが、多少の情報を抜き取る事はできるでしょう。無益ではありません」
「…………」
「マヒル執艦官、これは重要な職務かと。副官として参加していただきたい案件です」
リアム氏は呆然としている彼女に視線を送る。ややあってそれに気づいた妹は唇をかみしめて、笑顔を作り上げた。
「いいじゃん、これってチャンスなんじゃない?マヒルが遠空艦隊でやりやすくなるかもしれないし」
「…………」
「前に言ってたよ。遠空艦隊はハイエナどもが餌を奪い合うような場所だって。
奪い合う餌がハイエナを籠絡しちゃえば争いは無くなるんじゃない?」
「ハニートラップでもしろって言うのか?」
「その必要があるかどうか、確かめる必要はあるかもしれないよ」
「はぁ……とは言え、オレだって記憶が完全に戻っていないんだぞ?ボロが出たらどうするんだ」
「私がそばに控えておりますから問題はありません」
マヒルは顎に手を置き、どうにも息を合わせようと必死になっている二人を眺めた。先ほど執務室から出て行ってから、様子がおかしい。
元々この二人に接点があったのかどうかは、記憶の戻り切らない彼には判断できないが……息が合っているとは思えなかった。
「二人して、何を企んでる?」
「私は関係ないから知らないよ。さて……じゃあ続きの勉強をしなきゃ」
「私も妹さんと共謀する必要はありません。
……では、衣装のご用意をして参ります。ご自宅に一度戻られてからの出席になりますので、そちらに届けておきますので」
「…………」
「申し訳ありませんが、マヒル執艦官のサイズを教えていただけますか」
「あ、はい!マヒルはまだ書類あるんでしょ?戻ってくるまでに終わらせておいてね」
「あぁ……わかった」
━━━━━━
二人が再び出て行った執務室の中で、長い指がトントン、とデスクを叩く。
書類の束を眺めつつ、マヒルは胸の中に広がる何とも言えない焦燥感をいなそうと必死に考えを巡らせていた。
――あの二人が何か企んでいるのだとは思うが。まぁ……そのうちわかる事だ。
それよりも、ずっと気になっていたことがある。彼女が時折見せる、何かを堪えるような表情だ。
その中に滲む悲しみや切なさは、マヒルが記憶を取り戻せば自然に消えていくものだと信じていた。
けれど……病院でも、艦隊でも、家でも、その苦しげな顔はむしろ色濃くなるばかり。彼が一つ取り戻すたび、彼女の心はさらに遠ざかる気がした。
先刻お見合い写真とやらを開いた瞬間、今までで1番ひどい顔をしていた。絶望と言っても良いその表情はやがて穏やかな仮面を被っていった。
まるで、それが義務かの様に。
「何に苦しんでるんだ。何があいつを悲しませてる……?記憶を取り戻せば喜んでくれると思っていたのに……」
いや、半分は……もう答えがわかっている。だが、兄としての自覚を持っている彼には受け入れ難い事実だった。
昨晩長い会話をしたあと、彼女は遅い時間まで自室の机で勉強をしていた。体調が万全ではないから寝かせようと部屋に行った時はすでに、デスクの上で眠った後だった。
硬い枕で寝かせたら疲れが取れないだろうと思い、彼女を抱き上げた時それは起きた。
「マヒル……お帰りなさい」
「おかえり……?あぁ、いつもオレの帰りを待ってたんだな。ごめんな、起こしちま……」
二人の唇と唇が触れて、微かな熱が彼に残される。手慣れている動作、自然な振る舞いに思わず目を見開いた。
〝妹は、キスを知っている〟
不可解な事実だけを残して彼女は眠りにつき、瞼の上に飾られたまつ毛に宿した小さな雫が震えていた。
――マヒルは無意識にその記憶の感触を指先で確かめ、眉を顰める。
「確かにオレの名を呼んでいた。自分の意思で……兄であるオレにキスしたのか……?」
心臓の鼓動が高まり、体温が上昇する。自身の反応に困惑したまま、彼は両手で頭を抱えてため息を落とした。