4 隠された痛み
「うーん、うーん……」
「大丈夫か?ほら、頭の上に載せる氷を持ってきたぞ」
「ありがと」
時刻は17:00、二人は天行の自宅に帰宅した。兄はすべての書籍を読み終えたのに、妹は厳選したものすら読み切れなかった。
しかし、すでに疲労は限界を超えていた彼女は玄関で靴を脱いだ瞬間、へたり込んでしまう。
慌てたマヒルは珍しく靴を乱暴に脱ぎ、具合の悪い妹を抱えてベッドへ運んだ。
兄が手厚い看病をしてくれているのは、今までにもよくあった事だ。
「これってもしかして知恵熱?」
「そうかもしれないな。普通は子供が出すものだが、慣れないものを一気に詰めたから脳が抗議してるんだろ。
どこまで頭に入ったかは、聞かないでおいてやる」
「はい、聞かないでください。マヒルはどのくらい思い出したの?」
「うーん……大体だ。やっぱり航行に出ないと思い出せない部分がある。
リアムに合格はもらえなかったし」
「そうだね、執艦官としては不合格だったね」
額に氷嚢を載せてもらい、彼の苦い顔を眺める。艦隊の制服からルームウェアに着替えた様子を見ると、家の中のことも思い出したのだろう。氷嚢が作れたのもその証だ。
マヒルは自分の言葉通りきっちり三時間で大量の書物を読み、その後のチェックでも『事務仕事は問題なし』と太鼓判を押された。
――だが、昼食時に事件が起こった。
普段なら執務室で簡易食や栄養タブレットを齧る程度だった彼が、今日は食堂に顔を出してしまった。
暖かいものが食べたいという、妹の望みを叶えるために。
執艦官の性質上そこに出没する事はおそらく今まで一度もなかったのだろう。
軍隊で言えばかなりの上役にあたる彼が姿を見せた食堂は騒然とし、やがて葬式のように静まり返った。
彼の仕事上の性格はそこで把握できたのだからよしとしたいが、本人の性格は学生時代に逆戻りしてしまっている。
航空アカデミーに在学していた頃の……友人が山ほどいて、彼に懸想する女性がさらにその数を席巻していた頃の朗らかな性格に。
それが問題だと再確認する羽目になってしまった。
明るい声で妹と話しながら食事を摂る彼の姿にざわめきが起き、すぐに鎮まった。困惑と驚愕、畏れが寄せては返す波のように広がる。その空気は食事の味を忘れさせるのに十分だった。
「本当に、あれはマヒル執艦官か?」
「どこか具合が悪いんじゃ……」
「そうだよな、おかしいよな。俺、この前報告書出しに行ったら『オレに言われないと理解できないのか。自分の頭の悪さが』って言われたぞ」
「それが普通だろ。俺は『重要事項の管理能力が落ちたのか、元からないのか。どちらだ?』って言われた」
「『その程度のことをオレに聞くのか』とかもよく言われるよね」
「残業ダラダラしてたら『無意味な時間を延長して、疲れないのか?』って言われた」
「ていうか、あの子誰??」
「そう言えば今朝リアム副官が言ってたな、副官の補助候補とか何とかが来るって」
様々な人の囁きは彼の実態を浮かび上がらせる。言葉にするなら冷酷無慚、鬼上司、酷薄、とにかくきつい……と多様な執艦官の人柄を教えてくれた。
軍隊なら優しい言葉や気遣いは統率を乱す。上官は上司ではなく命令を下す司令官なのだから……当然のことだが、一般の会社とは全く違う統率体系だ。
「軍隊って堅苦しいよね、上官が暖かいランチを食べるのにもあんなに苦労するなんて」
「リアムが慌ててたな……アレは失敗した。一体全体『マヒル執艦官』はどんな仕事をしてたんだ?」
「あの反応でわかったでしょ?でも、そうだね……いつも言ってた。天行に友達はいない、いるのは部下だけだって」
「友達か……カイトはDAAにいるんだろ?」
「そうだよ。死亡事故で失った〝友人マヒル〟のロッカー掃除を担当してるって」
「本当にどうなってるんだ」
「私が聞きたいよ」
軽口を言い合い、やがて心地よい沈黙が訪れる。さわやかで優しく、一点の澱みもない青空のような雰囲気だ。
彼がまだ少年だった、空を自由に飛び回る鳥だった頃……その姿は天にあった。
烈空災変で二人は避難を余儀なくされ、里親である祖母に引き取られた。その後何の障害も危険もなく過ごし、すくすくと育っていた光溢れる日々は確かに存在する。
それは、彼女が手に入れた〝恋人・マヒル〟の手からこぼれ落ちたものだ。
記憶を取り戻した彼はかつてのように闇を背負い、独り立つ人に戻ってしまうのだろうか。それは果たして幸せと言えるのだろうか。
思い悩む彼女の額をつつき、マヒルは苦笑いを浮かばせる。
「誰かさんは勉強の件とは全然違う理由で悩んでないか?迷子になるより地図を見た方がいいぞ」
「わかってるよ、明日はそれこそ航路図の見方を完璧にしなきゃ。
でも、それには気象も航空機の原理、スピード:飛距離の計算、滑走路への角度×パワーの比率も覚えないと……はぁ」
「熱がまだ引いてないんだから無理するな。それから、一つコツを教えておく。
この分野は暗記じゃなく、本来は『導出原理』が必要なんだ」
「それもわかってます」
「本当か?」
「公式じゃなくて公式自体を生むための理論でしょ?」
「んー、ざっくり言えばそうだけど。
公式に至るまでの理論を考えて、解明する事が『導出原理』だ。公式を生み出すだけが目的じゃない。過程にこそ学びがある」
「回りくどい、漢字が多い、めんどくさい」
「ははっ、勉強ってのはそういうもんだろ。丸暗記が悪いわけじゃないが、応用が効かない。
導出原理がわかれば、どんな問題も解明できる」
「…………」
彼女はそこで、マヒルが意外に楽天家だと思い出した。
数学、物理、化学が基本になる理工学系は一般人にとって大変難解であることを彼は知らない。原理を理解する事が一番難しい分野だと。
基礎の積み重ねがあってこその理屈であり、そもそも基本を知らなければ理論を組み立てようもないのに。頭がいい人はこれだから……と文句を言おうとして、彼女は口を閉じた。
そう、彼はそれを全てこなしてきた。根本が楽天家と言える要素の一つが『努力を苦と思わない』というものだっただけだ。
人並みならぬ努力をし、たくさん学んでいても本人はそれが苦だと思っていない。『当然だ』と考えているから。
人は彼を『天才』と言うが、その陰で、彼は人並み以上の努力を重ねてきた。
学生時代の優秀な成績、名機関DAAのスカウト、遠空艦隊での立場――どれも、才能とたゆまぬ努力があったからこそだ。
そんな人の横に立とうとして、全てを暴きたいと思っているのだから、私の努力も当然必要になる。
初歩でつまずいている場合じゃないけれど、新しい情報が脳に入ってこない。
それでも、踏ん張りどきを知っているのは彼女も同じだった。
二人でいられる時間を無駄にしたくないから、できる事をするしかない。
現状できることといえば、彼の記憶を呼び起こすような昔話をさりげなく話すくらいだ。無理に記憶を呼び起こすことではなく、知識の話をすれば記憶の引き金になると今日は学べた。
マヒルの屈託のない笑顔を見ていると、彼にとってどちらがいいかはわからないけれど。
「まだ悩んでるのか?」
「ううん。……ねぇ、軍隊って結局どんなものなのかわからないままだね。私たちハンターとは大違いって事はわかったけど」
「へぇ、ハンターはどんななんだ?」
「私が所属してるハンター協会は、普通の会社って感じだよ。上司も同僚も優しくて、ランチもみんなでワイワイしてる」
「それは、お前の性格のせいじゃないのか?」
「それもあるかもしれないけど、あんな風に遠巻きにしないよ、上司でも。お菓子の差し入れもあるし」
「……ずいぶん気さくなんだな」
「お菓子は心のオアシスだからねー。昔、マヒルがたくさんもらったお菓子のおかげで毎日幸せだったなぁー」
「オレがもらったお菓子?学校でか?」
「そう。スポーツ万能、成績優秀、眉目秀麗のマヒルはモテモテだった。バレンタインにも山ほどプレゼントをもらってて、それを全部私にくれたの」
「何だか酷くないか?少し危ない気もする」
「女の子たちの気持ちを考えればちょっとね。マヒルは既製品だけ受け取って、封が開いてないか確認してた。
何故か可愛いパッケージのものばっかり受け取ってたけど」
「お前のために受け取ってたんだな」
「うん、そう。マヒルはいつも、私のことばっかりだった」
「こんなに可愛い妹がいるなら納得だ。お前もモテモテだったんじゃないのか?」
「…………ううん、そうでもない」
「…………」
今度の沈黙は、気まずいものだ。彼女が期待していた言葉ではなかったのだと察した兄は、『ごめん』と囁く。
昔の彼なら、そんな言葉は決して口にしなかっただろう。彼女に近づく男を遠ざけてきた本人なのだから。
無意識に恋人と兄妹のズレを感じ、勝手に落ち込んでしまった。彼女は慌てて彼に距離感を合わせることにした。
「私こそごめん!兄ばっかりモテてたからちょっとね。ええっと……マヒルは軍隊の規律とか思い出した?」
「あぁ、思い出したというより身に染み付いてたみたいだ」
「染みつく?あ、そうか!アカデミーでもそんな生活だったんだよね?」
「そうだ。目覚まし時計が鳴ったり、警報が鳴れば、制服に着替えて三十秒で廊下に並ばなきゃならない」
「でも、マヒルは問題なかったって言ってたよ」
「時間になれば体が起きるように頭に入れておけばいいだけだろ。
あとは、そうだな……一週間で3.4日の徹夜は当たり前、とかかな」
「学生時代からそうなの?教授が言ってたストイックってそう言うこと?」
「あぁ、それは……」
夜が更けても、二人の会話は尽きない。その言葉のやりとりは、彼女の胸に小さな痛みを積もらせていった。
二人は2歳差と歳が近い。ほとんど同じ家で過ごしてきた筈が、仕事についてからはその道が交わる事はなくなっていた。
全ての疑問を飲み込み、聞きたいこともきちんと聞けないまま過ごしてきたのは『大人』になったからだ。
度し難きを度し、知らぬふりや優しい嘘もつく。それが相手のためなら躊躇わない。
漫然と浮かぶ恐怖は心の傷を広げていくが、それを口にする事は彼女自身が許さなかった。
たくさんの記憶を取り戻していく中で……退院する前からずっとそばに付き添う彼女は、何故か自分に関する記憶だけを蘇らせることができていない。と、とうに気づいている。
――婚姻届を書くほど彼女を愛していたはずの彼は、もう戻ってこないのかもしれない――
『大人』になってしまった彼女は、そんな思いを抱えたまま笑顔を浮かべ……胸の奥の傷をそっと隠した。